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学校という洗脳機構 .2

古代史

では次に古代史について考えてみよう。学校では人類は原始的な状態から徐々に進歩して現在に至り、今後も進歩し続けてゆく、という物語を教えている。しかしこれは正しくない。なぜなら全ての古代文明はいきなり完成された形で現れているからだ。インダス文明のモヘンジョダロ遺跡、メソポタミアのシュメール文明、中南米のマヤ文明など、例を挙げればきりがないが、これらの都市にはレンガや石畳の直線道路があり、沐浴場、上水道、下水道、井戸、二階建て住宅、大規模建造物などが精緻な技術で造られている。これらを見れば人類が原始的な状態から徐々に進化して文明を築いたというのは本当だろうかと疑いたくなる。私はこうした教科書の解説は何らかの意図のもとに作られた物語なのだろうと思っている。何故なら発掘事実が示しているのは、文明はいつも突然現れ、突然消えているということだからだ。ではなぜ学校では作為的に作られた物語を教えているのだろうか。それは支配者が一般大衆に現状肯定をさせ、この現実の中で素直に働き、現在のシステムを支える役割を遂行させるための教育を施したいからなのだと思う。(超古代文明の項を参照)

次に社会科で教えられる政治形態について考えてみよう。


民主主義

先ほども言ったように、現代の日本では民主主義が最高最良の政治形態として教えられているが、これも歴史と同じ騙しの論法を使っている。文明が滑らかな右上がりの曲線(あるいは直線)のように発展してきた、と教えているのと同じく、政治形態も次第に改善され、現在一番良い形態へ到達していると教えている。それが民主主義だというのだが、先ほども言ったように、これが最高の形態だなどというのは幻想でしかない。(もちろん教科書には古代ギリシャの直接民主制のことが載っているが、これもまやかしの民主主義であり、当時は奴隷がいて、しかも支配層の成人男子だけに参政権が与えられていた)

ここで分かりやすい例えをしよう。ある時五人の仲間が集まったとしよう。一人が皆の気に入らないことを言い、他の四人がこいつは死んでしまえばいいと思ったとする。そこで採決をすると、4対1で結論が出る。したがってその気に入らないことを言った一人は自殺するか、殺されるかしなければならない。これが民主主義である。変なこと言ってやがる、と思うかもしれないが、民主主義が多数決によって成り立っている以上、善悪、正邪は関係ない。どんな悪党も選挙に勝てば立派な議員になれるのが現実だ。世界中の人が今となっては平気でヒットラーのことを悪く言うが、彼はまともな民主的選挙によって選ばれている。

政治形態に最良のものなどあるのかどうかは疑問だ。たとえ王政であっても、民主主義的な大統領制の国家よりもまともな国は存在する。また実現はしなかったが、古代ギリシャのプラトンは哲人政治を唱え、中国の孔子もその実現のために行動している。彼らは民主主義などという馬鹿げた考えは持たなかったし、王政でも上に立つ人間がそれなりの人格を持っていれば、国家運営はうまくいくと考えていた。

アメリカの作家ヘンリー・ミラーが2006年頃に朝日新聞に投稿した記事で、民主主義は危険な賭けだ、ということを述べていた。それは民主主義が健全に維持されるためには、個人個人が高度な教養と認識を持たなければならないからであり、それができなければ多くの愚衆によって世の中はとんでもない方向へと進むことになるからだ。これまでの民主主義の歩みを見る限り、ヘンリー・ミラーが懸念していたことは現実になって来たと言わねばならないだろう。今や民主主義という危険な賭けに失敗した先進国が、世界の政治・経済の舞台で危うい行動を取り始めているのを我々は見ている。


日本語

次に日本語について触れよう。

古来より言葉は支配のための道具として利用されてきた。中国では王の名に用いられた漢字は使ってはならないという布令が出されたことがある。使った者は死罪になったそうだが、そうした方策によって人民を精神的に支配した。日本では国語審査会などというものが大正12年からあって、当用漢字だの常用漢字だのを勝手に決めてきた。なぜ勝手に、と言うかというと、言葉は文化であり、全国民が(すなわち大衆が)様々な活動の中で作り出してきたものだからだ。政府や官僚がそれに枠を嵌めるということは、文化という最も自由な活動に規制をかけることになってしまう。

日本語こうした規制のため、学校や官庁で用いる文章に珍妙なことが起こっている。その顕著な例は熟語の表記だ。熟語にはいくつかの型があり、「年齢」とか「階級」などは同じ意味の漢字を重ねたものであり、「名月」は前の形容詞が後ろの名詞を修飾しているもの、「勝敗」は反対語を対比させたもの、「獲物」は動詞と目的語を文章的に並べたもの、というようにいくつかのタイプがある。これらは二つの漢字が一対となって初めて意味を成すものであり、片方だけでは本来の意味を失ってしまう。しかし常用漢字に従っている学校や官公庁では、例えば「進ちょく」などという表記が出現する。「しんちょく」には「進捗」「神勅」「真直」があるが、「進ちょく」は文脈によってどれか分かるかもしれない。しかしこれでは進むという感じは掴めるが、捗る(はかどる)という感触は失われてしまう。
ついでに言えば、たとえば「上げ」などと表記したら何の事だか解るだろうか。「じょう下」と表記すればこっちの方が元の漢字にたどりつけるかも知れない。いずれにしても「上下」という一対の漢字でできたものを一方だけひらがなにしては意味をつかみ損なうことがあるだろう。熟語は本来二文字以上で一つの単語なのであり、片方が漢字で片方がひらがなでは本来の意味を失ってしまうことになる。

私に言わせれば、国語審議会などというものの存在自体が害悪なのだと思う。国民の自由な文化的、経済的活動があって初めて言葉は生まれ、変化して行くものだろうからだ。これに規制をかけるなどは一種の暴挙であり、権力の濫用だと思う。歴史を見れば分かるように、政治が文化に介入していい結果を残したことはほとんどないだろう。中国の文化大革命などはその典型的な例と言える。


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