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学校という洗脳機構 .3

外国語

次に外国語について述べよう。

昭和の50年頃までは、ヨーロッパ言語に偏っていたとはいえ、様々な言語が大学などで教えられていた。学生は第二外国語が必修とされ、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ロシア語、中国語などの中から自由に選んで英語以外の言語に触れたものだった。しかし今は第二外国語を必ずしも履修しなくてもよい大学が増えている。英語以外はどうでもいいという風潮のせいだろうか。言葉は先ほども言ったように文化であり、それを学ぶことは、たとえ完全に習得できなくても異文化に触れることになると思う。

ある国が他国を征服すると自国の言語を押し付けるということは歴史上いくらでもあった。ラテン語(かつてのローマ帝国で用いていた言語)は近代までヨーロッパの学術用語として生きていたし、ナポレオンが西欧諸国を席巻したときにはフランス語がヨーロッパの共通語になり、ナチスがヨーロッパを支配したときにはドイツ語が共通語になった。日本も第二次世界大戦で支配した南太平洋の島々や朝鮮、中国などで日本語を強要している。現在これらの地域に日本語を話せる高齢者がいるのは、こうしたことの名残でもある。

かつては戦力が勝敗を決め、言語の強要が行われたが、現在は経済力が勝敗を決め、経済大国の言語が強制されるのではなく羨望の的となって学ばれている。確かに英語ができれば就職も有利、仕事上でも有用であり、外国旅行に行けば世界中どこのホテルでも苦労することはないだろう。私はこれ自体を悪く言うつもりはない。しかし地球全体を考えれば、多様性こそが人類の宝であり、日本のように論文や小説、日常会話までが英語に侵され、激しい英語教化にさらされている現状は憂うべきものに思う。

アフリカでも英語化は進んでいるが、彼らアフリカ人は自分たちの部族の言葉と英語の両方を話すので、すなわち両方を使い分けるので、自分たちの言葉自体が侵されることはない。しかし日本では英語を話せない圧倒的多数の人が、日本語の中にめちゃくちゃな形で英単語だけをはめ込むので、何がなんだか分からない状況が生まれている。誰かが皆の前でカタカナ英語をふんだんに使って得意気に喋っていても、誰一人英単語の意味を聞く人はいない。ほとんど全員が意味が解らないのにである。こんな光景は日本中どこにでもあるだろう。こうした馬鹿げた状況が生まれているのは冒頭で話したように差別化の教育の結果なのだ。カタカナ英語をふんだんに使う人も、それを解らぬまま質問もしない人も、どちらも劣等意識を植え付けられているので、一方は劣等意識からくる自己顕示欲がカタカナ英語を使わせ、他方は劣等意識から皆の前で質問できない気持ちを作り出している。数少ないきちんと英語を話せる人は日本語と英語を分けて使うので、日常会話の中に多量に英単語を入れたりしないだろう。

もっと異様なのはテレビのコマーシャルだ(コマーシャルも英語としてはちょっとおかしいが)。化粧品の宣伝など8割方がカタカナ英語で、何を言っているのか皆目分からないことが多々ある。これは多量の英単語を日本語の文法(すなわち語順)に当てはめるからだ。これよりひどいのが大手車メーカーの用いている英文のコピーだ。Shift the future も Drive your dreams も意味不明だ。これらは英語を母国語とするイギリス人やアメリカ人が読んでも意味が解らない。もちろん日本人にも解らない。すなわちこの広い世界に誰一人解る人はいないことになる。こんなものを平気でコマーシャルで流しているなど、開いた口が塞がらない。

日本語は日本以外のいかなる国でも話されていない貴重な文化財産であり、それをこうした形で壊してゆくのは、多様性という地球の宝に対する破壊行為だと思う。
実はこうした状況全般は、世界の文化を単一化に導き、支配をより容易なものにしようとする、世界的な規模の闇の支配者の策謀の一環らしい。これについては『闇の支配者』のところで詳しく説明する。


体育

最後に体育について言及しよう。

体育イメージ昭和の40年代まではスポーツクラブに入って、早朝、放課後、休日を問わず練習に専念する学生は頭が空っぽで、本も読まず知性もない、という評価が漠然とあった。何も差別的な見解を強調しているわけではなく、単に当時は知的であることが一般的に今よりも高く評価されていたという事実を伝えたいだけだ。当時のスポーツ選手も自分が知的でないことを謙虚に受け入れ(実際はそうでもなかったのだが)、偉そうなことを言ったり尊大な態度を取ることはなかった。では今と何が違うのか。今の世の中は社会的風潮として、有名になって金さえ儲ければ人間の中身など問題としないという風潮がある。あらゆる分野、あらゆる活動において金が優先され、金を持っていれば他の事は大目に見られ、許されてしまう。そこで知性だの精神性などと言うと、ダサイ、ウザイと見られてしまう。

こうした傾向に拍車をかけているのがマスコミだろう。教養もなければ礼儀作法も知らない若者をタレントとしてテレビにどんどん出し、愚かな視聴者に優越感を味わわせて視聴率を得る。こうして無知が市民権を得るようになった。有名になって金を儲けた人たちを毎日テレビで見せられ、それに憧れる若者たちが教養を身に付けることよりも、単に有名になること、あるいは有名な人と結婚することだけを夢見て虚しく過ごしているかも知れない。

体育の話に戻るが、いったい何をもって格闘技や走ることや跳ぶことに価値を置いているのだろうと疑問に思ってしまう。いくら強い格闘家になっても所詮オラウータンやゴリラに勝てはしない。早く走るならチーターに勝てはしない。高く飛ぶなら蛙のように自分の身長の何倍も跳ぶ生き物に勝てはしない。いったい人間として彼らは何を求めているのだろう。

私はスポーツ自体が馬鹿げていると言っているのではない。趣味として、あるいは健康や気晴らしとしてするのは有用だと思う。しかしそれが生活のほとんどを支配し、金儲けという目標まで付いてしまっては、いったいこれでいいのかと思ってしまう。

実はこれも支配者の思う壺と言わざるを得ない。スポーツに夢中になる者を増やし、それを観戦する熱狂的なファンを増やし、一般大衆を日本の現状や世界の情勢、人生の意味などについて考えることから遠ざけようとする支配者の策略に見事に嵌っていると見做せるからだ。教育水準が上がった先進国では、支配者にとって一般大衆はただ仕事のためにだけその知識を活用すればいいのであって、冷静に物事を考え、支配者の意図することを見抜くようなことになっては困るからだ。


おわりに

さて、学校というものが何をしてきたかを、いくつかの科目を通して見て来た。実は闇の支配者は学校教育に限らず、あらゆるシステムを利用して大衆の洗脳を進めてきている。あらゆるシステムなどと言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、彼らは何百年もかけて彼ら自身の手によって今ある世の中のシステムを構築してきた経緯がある。一方で愛や優しさ、思いやりなどといった美辞麗句を教え込んで、大衆が子羊のようにおとなしくなるのを目論み、他方では戦争を起こし、テロリストを援助し、伝染病を蔓延させ、様々な手段で大量殺戮を行なっている。なぜ支配者はそんなことをするのだろう。思うに陰の支配者は、各国の大統領、首相、教育機関、新聞、テレビ、学会、金融機関などを使って世界を単一支配することを目論んでいるのだろう。彼らは地球上に何人もの支配者、いくつもの支配組織はあってはならないと考えているのだ。その目標達成のために彼らはあらゆる手段を用いて洗脳を進めている。
最後に教育について一言付け加えると、学校は大多数の大衆が劣等感にあえぎ、自信を失くし、自分は大した人間ではないと思わせるために機能している面がある。我々に植え付けられた劣等意識はものを見抜く力を削ぎ、批判精神を奪い、大局を見る能力を失わせている。我々は今一度本来の自分に立ち返り、自信を養い、批判精神を芽生えさせ、大局を見る目を培わなければならないだろう。そうすればこの世界が何によって、誰によって動かされているのか、どんな意図が働いているのか、なぜ人生の本質に盲目のまま世間の常識に従っているのか、何のために様々な商品を買うためにあくせく働いているのかが少しずつ解ってくるだろう。

これを読んだ読者は、学校の悪い面ばかりを指摘していると思うかもしれないので、勉強によって養われるものも一応挙げておこう。それは集中力だ。どんなことをするにも気が散り、集中力が持続できないようでは最後まで物事を成し遂げることはできない。勉強に励むことでこれを養うことができる。しかしながらこれは勉強によって得られるのであって、学校によって得られるのではない。また学校に行くことによって団体行動が培われるのではないかという父兄もいるだろうが、こちらの方もべつに学校によらなくても、社会奉仕活動や様々な一般社会のグループ活動に参加することによって、もっと健全な形で培われると私は思う。

<学校という洗脳機構の項 終わり>


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