現在表示しているページ
ホーム >進化論 >はじめに

はじめに

現在、進化に関する正統主流の学説は新総合論と呼ばれるものだ。その印象を言えば、ダーウィンから始まる進化の考えに、次々と生まれてくる新しい学説のおいしい所だけを取り入れて、つぎはぎの化け物のようになった学説、ということになるだろう。それは主流の学者たちが都合の悪い指摘は無視し、都合のよい理論だけを無節操に付け足してきた結果と言えるだろう。

この学説が主柱にしている考えは、自然淘汰(選択)と最適者生存と突然変異だ。

  • 自然淘汰(自然選択)とはある生物の集団内で、ある形質を持つ個体がそれを持たない個体よりも多くの子孫を残すことができ、かつその形質が遺伝するならば、後の世代に広く伝わり、適応進化が生じる、とする説。
  • 最適者(適者)生存とは生物が生存競争の結果、外界の状態に最もよく適したものだけが繁栄し、適さないものは淘汰されて衰退滅亡する、とする説。
  • 突然変異とは親と明らかに異なった形質が、突然子孫に出現したり消失したりして、それが遺伝する現象を指す。広義には染色体の変化によるものも含める。

これらが組み合わされて進化の物語が作られてゆくわけだが、この三つの説自体に、すでに欠陥があることが多くの人によって指摘されている。

まず自然淘汰だが、これは英語で natural selection と言い、自然の選択、自然な選択、自然的選択、などと訳せる。これは不思議な言い回しだ。選ぶという行為は何者かの意思によってなされるものだ。ならばこの場合は自然が意思をもって選択した、ということになってしまうのではないか。もしそうなら自然が意思を持つとはどういうことだろうか。ところがこの説の信奉者は自然に意思があるなどとは決して言わないのだ。

次に最適者生存だが、これは自然環境が変わらないという前提に立っている。固定された環境の中で、最も適したものが繁栄し生き延びるというのだ。しかし果たしてそうだろうか。我々が知る限り地球環境は激変を繰り返してきている。ダーウィンの時代(1809~1882)にはまだこうしたことは知られていなかったと言えばいいのだろうか。だとしたら今はその説は捨てなければならない。第一、最も環境に適した生物は、その環境が変わった時最もさないものになってしまう。

最後に突然変異だが、集団内で起こる突然変異はそのほとんどが生存に不利なものだということが分かっている。放射線の照射によって人為的に起こした突然変異も同様だ。だがこの説の信奉者は、長大な時間の中では有利な突然変異も起こり得ると考えている。しかし実際には有利であろうが不利であろうが、一固体が突然変異を起こしても、いずれ集団の多数派に飲み込まれ、消滅してしまうことがいくつかの実験観察で分かってきている。

さて学校で刷り込まれた、人類は原始的な状態から二足歩行や知性の獲得を経て順次進化してきたという物語は果たして本当だろうか。実は学者と呼ばれる人たちは、普通証拠を揃えてその証拠に沿った物語を構築するということはしない。彼らは先に物語を作り、その物語に合った証拠を集めるのだ。これは進化論に限ったことではなく、多くの学説はそのようにしてできている。

こう言っても読者は簡単には信じられないだろうが、それも当然だと思う。何故なら我々は皆、小学生の時からこうしたまやかしの物語(学説)を無垢な頭に徹底的に刷り込まれ、教え込まれてきたのだから。

科学イメージではなぜ学者と呼ばれる人たちは、平気でまやかしの学説を説いているのだろうか。それは彼らも刷り込みをされてきたという理由もあるが、もっと大きな理由は正統主流の学説に沿った主張をしなければ、たちまち彼らは干され職場を追われて、食いっぱぐれる危険性があるからだ。実際真実を語って干されてしまった勇気ある学者は何人もいる。ノーベル賞候補に挙がっていながらその機会を逸してしまった学者さえいる。こうした歪んだ学界の体質の中で、正統主流の学説の欠点が語られることはまずないと言っていい。学者は真実に忠実で、物事を客観的に判断し、時には権力にも立ち向かう勇気ある人たちだ、などというのは子供の頃植えつけられた幻想に過ぎない。実は彼らはいつも保身に汲々し、学問という権威を振りかざし、時には真実を暴こうとする者を寄ってたかって潰そうとしたりする。残念ながらこれが現実なのだ。

進化論に関して言えば、主流の学者たちは多くの人に矛盾や欠陥を指摘されながら、それでもこの崩壊寸前の『新総合論』と呼ばれる仮説に必死にしがみついている。ではその具体的な矛盾や欠陥について順次見ていくことにしよう。


« 我が家の桜(2008年| 単細胞生物から多細胞生物 »