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滑らかな進化とミッシング・リンク

ミッシング・リンク正統主流の学説では、生物と呼ばれるものは下等な状態から高等な状態へと滑らかな進化を続けて来たことになっている。これをイメージするには右上がりの線グラフを思い浮かべていただければ解りやすい。これは前にも述べたことだが、進化論者が作り上げた物語だ。皮肉なことに彼らが調べ上げた発掘事実はこの物語と相容れない。というのも古い種の化石が現れる地層のすぐ上に新しい種が現れる地層があるからで、その間には中間種が現れるべき地層がないからだ。このことが示しているのは進化は徐々にではなく、いつもいきなり起きたということだ。すなわち進化は滑らかなスロープではなくて、階段状に変化を遂げ、しかもその段差を埋めるべきものは発見されていないということだ。この埋め得ない段差のことを英語ではmissing link と呼んでいる。

生物進化の研究において、中間的な化石が発見されているのは全ての種の中でゾウとウマくらいのもので、これをもって進化論者は滑らかな進化の根拠としている。しかしこれだけではあまりにも根拠が脆弱なため、それを補う形で断続平衡なる説を唱える学者が現れた。彼らは、進化の時期は地質時間から見れば短時間であり、したがって中間種は数も少なく化石として残りにくいと弁明している。しかしほとんど全ての生物について中間種は見つかっていないのが現状であり、クジラやコウモリなどに至っては時代的に比較的新しい種であるにもかかわらず、その中間種はまったく見つかっていない。

これに関して学者たちは分が悪いのを知ってか、多くを語ろうとしない。主流の進化論を支持する者たちは、これだけ(この欠点だけ)をもって進化論全体を否定することはできない、と嘯(うそぶ)いている。今まで見てきたことを考えてみれば、とてもこれだけとは言えないと思うのだが。


所長の見解

本論とは関係ないかもしれないが、命名について一言触れておきたい。生物学でよくいう下等動物とか高等動物とかいう名前だが、いったい何をもって下等だの高等だのと形容しているのかも問題だと思う。外国語の直訳ではないかと英語名を調べてみたら、higher animal と lower animal だった。おそらく英語かその他のヨーロッパ語から翻訳した名前なのだろう。日本人がこのような発想を持っていたとは思えないので、やはりという感じがした。これは明治から大正にかけての西洋文明にかぶれた文化人と呼ばれた人たちが、日本の文化を省みることなく欧米文化崇拝に走った結果生まれたものだろうと思う。

欧米人はキリスト教の影響もあって、人間が全ての生き物の頂点に君臨するという発想を持っており、そこに見られるのは人間が一番高等な生き物だという奢(おご)りだ。こうした奢りが自然を破壊し種を絶滅さてきたと私は考えている。何故ならキリスト教には、神が人間のために自然とすべての生き物を与えたとういう発想があるからだ。欧米に追従せざるを得なかったアジア、中東、中南米などの国々、特にキリスト教の影響を受けた国々がこの流れに拍車をかけた。日本はキリスト教国にはならなかったがその例外ではない。

さて滑らかな進化という物語はミッシング・リンクという壁に打ち当たっているわけだが、主流の進化論を信じて疑わない人たちにとっては喉に刺さった棘のようなものだ。それでも彼らはいつの日か中間種の化石が発掘されるだろうという甘い夢を見続けている。こうなれば進化論も宗教と同じで、彼らの信仰に疑いを持たせるのはほぼ不可能と言ってよい。

私の見解を言えば、このミッシング・リンクこそ大規模突然変異が起きた証拠そのものだと思う。「無脊椎動物から脊椎動物」のところでも言ったように、形而下学の範囲で物質世界を解説しようとしても無理な面がある。もし異次元からの干渉があり、また異次元への干渉があって初めてDNAの大規模な置換が起こるのだとすれば、こうしたことに説明を加えることは可能となる。

物質界の範疇で物事を説明しようとしても限界があると感じている人は今や少なくないだろうと思う。科学の功罪は別として、科学的態度が悪いと言っているわけではない。別に科学的であろうがなかろうが、人は皆客観的であろうとしているはずだからだ。問題は心を開いて違った考えを聞けるかどうかであり、おかしいことは素直におかしいと言えるかどうかだと思う。どんな人でもそれなりの確信を持っていると思うが、しかしそれを宗教だとは誰も言わないだろう。それが宗教となるのは聞く耳を持たず、心を閉じて凝り固まってしまうからだ。

進化論のおかしな所を素直におかしいと認めれば、そこから視野が広がっていくだろう。物質界を超えた推論も、全体を矛盾なく説明するという意味では一つの有力な仮説になり得る。それを怪訝(けげん)な目で見たり拒絶したりすれば、自ら狭い世界に閉じこもる結果を招くことになる。そういう意味では現代科学を信奉する人も十分に宗教的だ言えるだろう。


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