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生命誕生

これまで見てきたのは生命が誕生した後の物語だ。では生命の誕生そのものはどのようにして起こったのだろうか。これは全ての人にとって興味深い問題だと思う。しかしこの問題に入る前に生命の定義について少し触れておこう。

実は生命の定義については未だ確たるものは存在しない。一応、自己増殖能力・エネルギー変換能力・恒常性維持能力という三つの能力を持つもの、そして誕生と死の間にエネルギー代謝を行なうもの、ということになっている。しかしウイルスやリケッチア、クラジミアなど、これらの能力を持っているとは言えないものもあって、生物と非生物、生物と無生物との境界は未だ明確でない。人によっては生と死があるのが生物の条件だとして、星にも生と死があるのだから生物と言えるのではないかと言っている。この考えはガイア思想、すなわち地球も一つの生命体であると見做す思想と結び付いている。

そもそも生き物とは人間が単に見た感じから付与した名前に過ぎないのではないだろうか。長い地球の歴史があって、ずっと後になって現れた人間が、これは生物であってこれは生物でない、などと勝手に分類しているわけで、もっと様々な視点、様々な次元から見つめなければ確かな基準は定まらないだろうと思う。私は生物の定義自体に『生命とは何か』という問いが含まれていると思う。したがってこれは哲学の問題であり、生物学や進化論の範疇(はんちゅう)を超えていると思う。おそらく生物学だけで結論を出そうとしても、永久に答えは見つからないだろう。

さて一般に生命は原始の海で生まれたと言われている。そこにはDNA(デオキシリボ核酸)ができる以前のRNA(リボ核酸)だけの世界があったと唱える学者たちがいる。この学説はRNAワールド仮説と呼ばれている。DNAにはA、T、G、Cという四つの塩基が並んでいるという話をしたが、RNAにはA、U(ウラシル)、G、C、という塩基が並んでいる。TとUが入れ替わっているが、これら二つは構造的に大変似ている。

しかし生命誕生前にRNAワールドが実際にあったとしても、その塩基配列がどのようにできたのかは今も解っていない。言い換えると、さまざまな核酸類似体の中でなぜRNAが特有の結合様式を得たのか、その根拠が分かっていない。またRNAは不安定な分子なので分解されやすいという弱点も持っている。さらに言えば、自己複製能力を持つRNAも見つかっていない。

DNAイメージこうした欠陥があるにもかかわらず学者は例のごとく、時間さえあればRNAが有意義な配列を得るのは可能だと言い張り、このRNAが進化してDNAが生まれたと主張している。この種の学者たちは数字を弄(もてあそ)んで数字に騙される傾向がある。ある学者は私が言っているような批判に対して、時間さえあればコインを投げて100回続けて表を出すことだって可能だ、と居直ったそうだ。これは1/2(2分の1)を100回掛けた確率だ。時間のある方は実際に計算してみていただきたいが、結果は信じがたいほど小さな確率となる。しかしこういう学者たちの大半は常識でものを考えることができないらしく、たとえ意味ある塩基配列ができるのに宇宙そのものの年齢の何億倍の時間がかかろうとも、それはあり得ると言い張る。まさに妄信、まさに宗教だ。

始まりの時のRNAがどのくらいの長さがあったかは分かっていないが、すなわちどれだけの数の塩基配列があったかは分かっていないが、もちろん100や200ではなかっただろう。ところでRNA ワールドには先に言ったようにいくつか弱点があるのでやはりDNAで始まったと主張する学者もいる。もしそうだとしたらどういうことになるのか。現在生存する生物の中で最も単純な生物に分類されるウィルスでさえ、DNAの塩基配列は4万8000ある。ちなみにヒトについて言えば30憶配列、これが対になっているので全部で60憶配列、最大級のユリにいたっては1200憶ある。

もちろん進化論では最初は微生物から始まったことになっているので、それよりはるかに少なかっただろう。しかしたとえ微生物とはいえ、環境の変化に対する適応性や細胞内の複雑な機能はその大小にかかわらず必要なわけだから、最低でも数千はあったと考えていいだろう。だとしたらそれだけの数の塩基が偶然、有意義な配列で並ぶということが起こらねばならない。いったいどうやって?


所長の見解

今まで見てきたように進化論では偶然という魔法をいたる所で使っている。その魔法もいまや効き目を失いつつあるが、しかし学校という一般庶民を洗脳する場では依然としてこうしたまやかしの論理がまかり通っている。

生命の誕生に関しては、それが起こったのは常識で考えてあり得ない確率にもかかわらず、実際には起こっている。このことが意味するのは、我々の世界が物質だけでできているという考えでは説明できないということだと思う。私は宇宙が多次元的な構造をしていると考えることによって、もっと合理的な説明の道が開けてくると思っている。それはあの世とこの世が在るという意味ではなく、同じ場に、言い換えれば同じ空間に多重的に存在しているということであり、さらに近隣の次元間では互いに影響を及ぼし合っているということだ。すなわち我々の三次元は四次元や五次元と、五次元は三次元や四次元及び六次元や七次元と影響し合っているということだ。

このように考えてくれば、生命誕生も実はこの三次元で初めて起こったものではなく、もっと高い次元で起こり、その次元からの転写として我々の世界にもたらされてきたと考えることもできる。もしかしたら生命誕生は初め最も高い次元で起こり、順次低い次元に降りてきて、最後にもっとも波動の低いこの世界に降ろされたのかも知れない。

このような視点で見れば、我々の次元では確率的に不可能と思える事柄も、実はそれなりの必然性と蓋然性をもって生じたことになる。それをこの三次元に限って見てしまえば、すなわち他の次元と切り離して見てしまえば、まるで奇跡が起こったかのように見えるだろう。そう突然の進化のように、そして同時多発的なDNAの置き換えのように。

我々がこの三次元という物質世界にこだわっている限り、進化に関する様々な問題だけでなく、他の多くの問題に関しても解決の道は見えてこないと思う。我々は無謀な論理の飛躍を犯すのではなく、ただ勇気をもって三次元へのこだわりを捨て、自らの思考を学説というしがらみから解き放つべきだろう。そうすればおのずから新たな視界が開けてくるだろうと思う。


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