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東洋と西洋の意識の違い

すでに述べたように、欧米人は宇宙も人体も物理的・化学的反応に還元して見ようとしている。感情でさえ、ドーパミンやアドレナリンなど体内物質の化学反応で説明しようとしている。この考えは西洋医学にも見られ、疲れれば(栄養素を含んだ食品ではなく)栄養補強剤を与え、癌になれば身体の他の部分には明らかに害なのに抗癌剤という毒を盛り、内臓が侵されればまるでロボットの部品を取り換えるように臓器移植を行なっている。

日本には江戸時代まで漢方医学というものがあったが、明治政府が西洋医学を学んだ者にだけ医師の資格を与えたため、漢方医学の医者は医療を行えなくなってしまった。しかも西洋医学と共に、上に述べた人間を物と見做す西洋の考え方が一緒に入ってきてしまったため、医療現場では今もなお人体を単に複雑な機械と見做す考えが支配している。

さて、このことを踏まえて欧米人の意識について考えてみよう。欧米人はキリスト教の影響が強く、個人の精神的安定の大部分は神との契約によって成り立ち、人間関係という横の繋がりによって成り立っているとは言い難い。これは特に白人のキリスト教国に顕著で、東洋人とりわけ日本人とは対照的だ。

欧米は個人主義の国であると言われるが、それは個人個人が唯一絶対の神と契約を結び、それ以外のものには救いを求めず従いもしない、ということを約束しているからだ。神の方もそうした従順で言うことをきく者だけを助けてやろうと表明している。こうして人間同士の横の繋がりではなく、神と個人の縦の繋がりが何百年、何千年と続いたため、教会などへ行かない現代の人たちも、個人としての独立を強く強いられるようになっている。これは人間関係を最優先させ、*「和をもって貴しと為す」といった日本的な生き方とは正反対だ。(注*聖徳太子の十七条憲法の第一条)

欧米では子育て・教育の面でも個人の独立が優先される。日本人からは残酷に見えるかも知れないが、乳離れした子は泣こうがわめこうが親とは別の部屋で寝せられるのが一般的だ。その背景には、幼いころから独立心を養うにはこうした躾は必要だという彼らの考え方がある。日本のように親子が『川の字になって寝る』というような状況は、彼等から見れば依存心をいつまでも残し、個人の独立を遅らせる間違った子育て、ということになる。親と子が心を重ね合わせるまで寝食を共にする日本の伝統と較べれば全く対照的と言える。

欧米の子供は学校へ通うようになると、そこで個人の能力を高めることを求められる。彼らは何か一つの能力に秀でると評価され賞賛される。もちろん総合的に能力が高いに越したことはないが、特にアメリカでは一番であることが賞賛され、一芸に秀でれば他の面は大目に見られる傾向がある。こうした状況は何が何でも世界一でなければ気が済まないアメリカの驕(おご)りと傲慢さを顕著に表わしていると思われる。

大人になると大多数の欧米人は当然日本人と同じように会社勤めをするが、ここでも彼らは神と交わした契約のように、経営者と契約を結び、自分と経営者という縦の関係を作る。しかしこれは日本の場合とはかなり様相が違う。日本人は会社勤めにおいて、経営者との契約関係を意識して働いている人は少ないと思う。それは本来日本人はいかなる組織においても家族関係を築こうとするからで、これは日本人の伝統的な特徴なのだと思う。そうした特徴を今の日本人が認識するのは難しいかも知れないが、唯一終身雇用制と年功序列によって経済大国にのし上がった国として世界の注目を集めたことを考えれば、お分かりいただけるのではないかと思う。

今でこそアメリカの真似をして終身雇用制も年功序列もすっかり崩れてしまったが、かつてシンガポールの大統領は日本に終身雇用制(および年功序列)を維持してほしいと何度も訴えていたものだ。日本の高い技術は先輩から後輩に受け継がれ、一種の徒弟制度のようなものとして生き残っていたが、それが残り得たのは年功序列によって逆転人事をしなかったからだろう。もし後輩がいつの日か自分の上司になるかもしれないと思ったら、快く自分の技術を後輩に教えたりはできなかったと思う。こうした逆転人事がなかったからこそ、家族である兄が弟に教えるように技術は的確に伝えられ、互いに創意工夫して水準を高めてゆくことができたのだと思う。

さて欧米人が結婚するときは契約を交わす。これは役所に婚姻届を出すという意味ではない。フランスでは若い夫婦の大半は婚姻届など出していない。そういう意味ではなく、彼らは神と契約を交わしたように、夫婦になる際も心の中で契約を交わす。欧米社会は個人の集団で成り立たっているので、どうしても契約が必要とされる。これは日本人から見れば、何とも無機的な感じに映るだろう。日本の社会はもともと先祖・子孫、親・子供、先輩・後輩といった縦の関係と、兄弟・姉妹・友人・同級生・同僚といった横の関係とで成り立っていた。それは言わばきめ細かな網の目のようなもので、これによって我々日本人は唯一絶対の神などなくても精神の安定を得ることができたと言える。日本であえて神を持ち出すとすれば、先祖霊のような人間が昇格した神であり、またこの世の様々なものに宿るとされる自然霊だろう。


所長の見解

東洋と西洋の、意識と心の違いについて述べてきたが、ここでこうした違いがさらに立体的に見えるように別の説明を試みよう。

西洋人の心と安定欧米人は心の重なりを持っていない。これは図形的な表現をすれば、社会という四角い枠の中に、個人といういくつもの円が重なることなくバラバラに存在している状態だ。日本人は社会という枠の中に、いくつもの円が幾重にも重なって存在している状態と言える。

欧米人は各個人が独立して存在しているので、このままではすこぶる安定が悪い。そこで各個人は神と糸を結んで安定性を得ようとする。しかしこれができたとしても横の繋がりがないのでまだ安定は悪い。そのためより確実な安定を得ようと自己を拡大してゆく。言い換えれば個人の肥大化だ。しかしこれを続けてゆけばやがて隣と境界を接するようになり、互いに自己を主張し合って争いとなる。すなわち個人を肥大化させたために、あらゆる局面で対立せざるを得なくなった。このように欧米人は安定を得るため自己を拡大しなければならなかったため、運命的に闘争を強いられる生き方を選ぶことになった。

心の重なりを持たない欧米人は、互いの人間性に信頼が持てないので契約を優先する。言い換えれば心を共有できないので、言葉で確認しなければならなくなる。この言葉を文字にしたものが契約だ。したがって契約の元である言葉は彼らにとって非常に重要なものとなる。「嘘つき」という表現は日本人が想像できないほど強い侮蔑的な意味を持つし、「約束する」という言葉も我々の想像を超えた重みを持つことになる。You are a liar. また I promise. といった台詞(せりふ)がしばしば洋画で用いられるのは、こうした彼らの心的状況が背後にあるからだ。

このように彼らは「契約=言葉=論理」という図式を頭の中に持っている。これは契約は言葉であり、言葉は論理であるという意味だ(Logos にはもともと論理及び神の言葉という二つの意味がある)。したがって彼らは論理を超えた認識を持つことはないし、言葉を雰囲気として受け取ることもない。日本文学に接する際の態度として言われる「行間を読む」などといった表現も彼らにはとうてい理解しがたいものだろう。

ハリウッド映画にかぶれた多くの日本人は、アメリカ人の夫婦が朝に晩に " I love you." と言い合うのを見て羨ましいと思うかもしれない。しかしこれは我々が普通に想像するのとは全く違う理由がその背景にある。彼らの心は重なることがないので、いちいち確認しなければならないだけなのだ。すなわち互いに心が独立しているので、昨日までは愛していたが、今日は愛しているかどうか分からない。それで毎朝毎晩確認を取らなければならなくなる。しかも彼らは論理しか理解できないので、明けても暮れても言葉で言い合わなければ安心できないのだ。

本来日本人は彼らと大きく違う心の構造を持っていた。極端な話、日本人は「好きだ」と一回言えば一生有効に働くこともある(もちろん思い込みで誤解することもあるが)。ふつうは日本人の夫婦は心が重なり合っているので、日々の態度や物の言い方で今も好きかどうか判断している。一般の人間関係でもまず心で触れ合おうとし、少ない言葉で心の奥を覗き合おうとする。また日本人は挨拶する際、欧米人のようにベタベタとキスをしたり抱き合ったりしない。それは体よりも心で触れ合おうとするからで、それはいくら体で触れ合っても心の距離が縮まるわけではないこと知ってるからだ。

我々は約束に関しても必ずしも守られるものだとは思っていない。嘘を吐くこともそれほど悪いことだとは思わず、上手に使うものだと思っている。それは人が論理で生きているのではないと知っているからだろう。我々は心の動きや感性の働き、さらには魂の躍動によって生きていることを無意識の内に感じているのだ。

日本人の心と安定日本人は自己を拡大するのではなく、心を拡大して重ね合わせることに努力してきたと思う。夫婦、親子、兄弟姉妹は言葉を交わさなくても多くのことを理解し合える。また友人知人ともさらに心を広げて重ね合わせている。我々は心を様々な人間関係の中で幾重にも重ねていて、実は意識はしてないかもしれないが、日本人全員とも心を重ねている部分がある。

このように日本人と欧米人の意識や心の在り方は信じがたいほど違う。深層心理学者のユングが、東洋人と西洋人の意識と心の違いを描き出してから久しいが、果たしてどれだけの人が現在その違いを理解しているだろうか。それどころか日本人は欧米文化への憧れで頭がおかしくなってしまったようで、食べ物、着るもの、生活様式、考え方、社会構造、雇用形態など、ありとあらゆる事柄に関して『猿まね』のように無節操に欧米に真似ている。言葉さえ新聞、雑誌、テレビ、その他でわけのわからないカタカナ英語が大量に使われ、いったいこれが日本語なのかと疑いたくなるような有様だ。

我々は日本人なのだ。このことを忘れていないだろうか。日本には日本人が長い歴史の中で培ってきた独自の文化がある。この貴重な文化が欧米文化の浸透によって今まさに消されようとしている。こうしたことを憂うるのは私だけだろうか。

最後に一言付け加えておくが、私は欧米人の意識や文化を否定したり侮蔑したりしたいがために述べてきたわけではない。我々日本人は長い歴史の中で様々な外国の文化を受け入れてきた。しかし我々の祖先は決してそれに席巻されることなく、よくないところは捨て去り、常にいいところだけ取り入れて自分たちの文化に合うように馴染(なじ)ませてきた。すなわち日本人であることを忘れなかった。

しかし現代の日本人は恐ろしい勢いで押し寄せてくる外国文化の旋風の中にいて、もはや日本文化がどこにあるのかわからなくなるまでに席巻されてしまっている。私の願いとしては、我々の祖先がこれまでやってきたように、この時代も日本文化を守りながら他国の文化のいいところだけを取り入れ、日本文化に馴染ませる努力をしてほしいものだと思っている。


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