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脳と意識

先に言ったように意識が神の分霊だとしたら、脳は果たしてどんな役割をしているのだろう。脳科学者が言っているように、人体、想念、行動のすべてを脳が支配しているというのは信じがたい気がする。というのも我々の精神活動の最も重要な部分である意識そのものや、脳の活動を司る指令の中枢がどこにあるかなどは分かっていないからだ。

バイク事故で死んだ青年の心臓を移植された女性が、それまで肉を食べなかったのに急に大好きになり、また事故の場面が勝手に蘇ってきた、といった例に見るように、記憶でさえ脳の専売特許でないことが分かってきている。

我々は意識が身体のどこか、あるいは脳のどこかにあると思っているが、もしこの宇宙が多次元で成り立っているとすると、意識は同じ空間の四次元または五次元にあると考えてもかまわないことになる。これはどういうことかというと、我々がいる三次元空間が四次元・五次元と重なり、同じ空間を共有しているということだ。ただし実際には異次元となれば場所というものの概念が変わってしまう。すなわち同じ場所とか違う場所といった言葉は意味をなさなくなるので、単にこれは三次元の側から見た言い方にすぎない。

イメージいずれにせよ多次元の宇宙を想定すれば、意識は我々の知っている世界より高い次元にあると考えることができる。意識が高い次元にあるとすれば、閃(ひらめ)きや気付きがどこからやってくるのか説明できることになる。深層心理学の難解な論理を用いなくても、突然やってくるこの知覚が高い次元にある自分の意識からの賜物だと考えれば、問題の解決につながるだろう。

では脳自体は一体何の役割を担っているのだろう。まず第一に考えられるのは、この三次元を認識するためにあるということだ。赤子が机の角に当たって泣き叫んだり、やわらかい布団の上で気持ちよく転がって遊んだり、そのようにしてこの物質界の状況を徐々に理解し、肉体を傷つけずに生きる術(すべ)を学んでゆく。少し大きくなると行儀や言葉遣いを学び、さらに大きくなると文字を書くことや計算の仕方を学ぶ。

こうして物質世界での生活が可能になるまで学び続け、やがて社会人となって失敗を繰り返しながら仕事の要領を憶えてゆく。このころにはすっかり物質界に馴染み、空を飛んだり壁を通り抜けたりできないのは当たり前と思うようになっている。

このように脳は、一つにはこの三次元で物理的に生きてゆくための知識を得るためにある。この過程で人は閃きや気付きの素晴らしさも体験するが、ほとんどの人はそれが自分の能力のなせる業だと思い、単に優越を感じたり喜びを感じたりするが、それらがどこから来たのかは考えたりしない。

心理学者なら、これは無意識の深いところで様々な思いが絡み合い、最終的に集約されたものが意識に浮かび上がってきたのだと説明することだろう。脳科学者なら、電気的・化学的反応が脳内で複雑に絡み合い、最終的に収斂(しゅうれん)された信号が気付きや閃きとして認識される、と説明するかもしれない。

もしこうした説明がなされたとしても、一般の人々は門外漢なので、学者が言うんだからそんなところだろうと鵜呑みにするしかない。しかし本当にそうだろうか。正直に感じるところを言えば、閃きや気付きはいつも突然、何の前触れもなくやって来るのではないか。それが脳内で、あるいは無意識の層で、さまざまな相克の結果やってくるのだと結論付けていいものだろうか。なぜ様々な思いの絡み合いや相克は意識されないで、収斂された結果だけが意識されるのだろうか。


所長の見解

脳の第一の機能は今言ったように三次元で生きてゆくための知識を得ることだが、脳の第二の機能は受信機としての役割ではないかと私は思っている。

脳が単に電気的・化学的反応を行なっているに過ぎないのなら、計算したり論理をこね回すコンピュータと変わらないことになる。しかしコンピュータが人間の脳と似通った働きをしているとしても、誰もそれが意識を持っているとは考えないだろう。だとしたら脳は物質以上の何かで、意識や閃きなどは脳のまったく違う機能によるものだと考えなければならなくなる。

さらに脳科学者が言うように、さまざまな反応過程が脳内で起こっているなら、意識される過程と意識されない過程がどのように分けられるのかが問題となる。また深層心理学者の言うように、人間の精神に意識と無意識の領域があるのなら、いったい何者がいかなる基準のよってそれを分け、どのような過程を経て無意識から意識に現われてくるかが問題となる。

このように現代の学問が行なっている意識に対する取り組みは混迷と複雑化の只中にあり、こうした方法で研究を続けても解明への道は見えてこないと思われる。私の考えを言えば、この閉塞状況を招いているのは、ひたすら三次元にこだわっている研究態度であり、あくまでも物質現象を対象とし、論理のみに頼って解こうとする態度なのだと思う。

もし脳が高い次元からの情報を受け取り、またこの次元で得た情報を高い次元に送り返して相互作用しているのだとしたら、気付きや閃きについての新しい解釈の道が見えてくるだろう。

日本語では『すべての生き物に霊が宿る』と言い、人間のことを『霊長類』という。この『霊』というのは生き物が物質以上のものであることを意味している。英語にはこうした表現はない。霊長類と訳されている英単語は primate であり、この単語はprime(重要な、最高位の)からきている。そのためprimateはキリスト教の大主教を意味する単語にもなっている。彼ら欧米人には、この物質以上ということが理解し難いようだ。イエス自身は東洋人で黄色人種だったせいもあってか、霊については何度も言及し、人間が霊的な存在であることを伝えようとしている。

人に霊が宿っているなら、当然その霊は霊界と通じているわけで、脳は霊界からの通信を受け取る役目を担っていると考えるのが自然だと思う。脳は松果体を通して物質界の情報を送り、霊界(あるいは高次元)でそれが受け取られ、精査されてこの三次元に送り返されて来る。もしそうした過程があるなら、我々の多くは三次元しか感知できないので、それを受け取った時、閃きや気付きとして感じられるのではないだろうか。

脳は発信し受信する。一度この前提に立てば様々な謎に切り込むことができる。たとえば正夢や予感なども、高い次元から発信されたものを脳が受け取ったということかもしれないし、初めて行った場所なのに見たことがあると感じるような経験も、脳が高い次元にアクセスして、前もって記憶していたことを自己実現したということかもしれない。これは見方を変えれば『未来の記憶』として解釈できる。

また旅行などで初めて訪れた国や場所に非常な懐かしさを感じるといった場合も、前世や前々世などでそこで暮らしたことがあり、過去の自分の想念や行動様式などがエネルギー場として異次元に残されていて、そこに脳がアクセスして記憶が呼び覚まされた、ということかもしれない。

クモの巣一旦この前提に立てば、推論は人間に限らなくてもよくなる。たとえば蜘蛛が誰にも教わらずに(くっつかない)縦糸と(くっつく)横糸を分けてきれいに巣を作るのも、一種の神懸かりのような状態で高い次元から情報を得て行なっている可能性がある。また魚の鮭が大洋を回遊したのち生まれた川に戻ってくるのも、鳥のキョクアジサシが北極と南極の間を行き来するのも、さらには今まで謎とされてきた様々な生き物の生態にも、容易に説明を加えることが可能となる。

さて覚醒時に気付きや閃きは起こるが、眠っているときに意識は霊界に行っているという説がある。もともとなぜ多くの生物が眠らねばならないのか解っていない。現代医学でさえ、疲れを取るためなら横になっているだけでほとんど体力は回復すると説明している。眠らない生物もいくらもいる。では我々は何のために眠るのか。

一つの考え方は、意識は何らかの形で肉体と結びついてはいるが、時空を越えて移動できるということではないだろうか。すなわち眠っている間、我々の意識は霊界あるいは高次元に行き、この世の垢を落としたり学びを得たりして帰って来るのかもしれない。しかし肉体に戻った時にはその記憶は脳ではなく魂に埋め込まれた状態となっているので、訓練を積んだ特別な人しか思い出すことができない。しかしいずれにせよ意識は時空を超えて移動できるので、我々が肉体にこだわることをやめれば霊界または異次元に意識を移動させることは可能だと思う。

脳だけを見ている限り、学者はこうした考察の広がりを持つことはないだろう。彼らは物質に捉われ過ぎているので、三次元を超えた自由な発想ができなくなっている。しかし、もしこの三次元のしがらみを解き放つことができれば別の地平が見えてくるだろう。それは『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』という問題にも答えられる、新たな地平となるのではないだろうか。

<意識の項 終わり>


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