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存在の真偽

これまで地上のほぼすべての国や地域で死後の世界について語られてきた。けれどもそれは宗教として語られてきたと言っていい。宗教を毛嫌いする人、宗教に関心のない人たちは死後の世界の話など鼻つまみものと考えるかも知れない。では宗教以外で死後の世界について語られた記録や言説はあるのだろうか。

神話は一応死後の世界について触れてはいるが、宗教のようにこの世とあの世を較べその関係性を述べているわけではない。宗教とは何かという定義にもよるが、神話が宗教かどうかは微妙な問題だ。他に宗教以外で死後の世界について語られているのは伝承の類だろう。伝承の中には様々な次元の話があり、教訓的なものや心の真実に光を当てたもの、また宗教や神話に影響を受けたものなど多岐にわたっている。混乱を避けるため、これら宗教と神話と伝承について大雑把に分類しておこう。

イメージ一般に認められている宗教・宗派の多くは、我々が生きているこの世界と死んだ後の世界とをはっきり分けている。そしてそれらの関係について説明している。ただキリスト教に関してはあの世についての言及がないのではないか、という人もいるかもしれない。しかしイエスが残したとされる言葉の中には、あの世あるいは転生を暗示するものがいくつかある。

キリスト教の一般の信者は組織の上層部の数人が解釈したことをそのまま鵜呑みにしているので、人生は一回きりで死んだ後は霊として最後の審判を待つだけだと思っているようだ。しかし聖書には最後の審判については書かれてはいるが、人生が一回きりだとは書かれていない。いずれにせよ聖書は天国(来たるべき新しい世界)についてははっきりと記述している。

これについてまとめると、宗教に関する限り、死後の世界を認めているということだ。

次に神話について考えてみよう。一般に神話には神々の世界と我々人間の世界とがある。そして多くの場合黄泉(よみ)の世界が登場する。しかしこれらには宗教のようなはっきりした境界はなく、いわば陸続きのように繋がっている。天と地を行ったり来たり、また黄泉の国に行って帰って来たりということもしばしばある。

神話は生と死に言及しているというより、神々と人間の関係や民族の由来について多く言及している。かつて人間は神話の世界観・人生観に沿った生き方をしていたと言われている。すなわち神話は今でいう宗教と同じような機能を持っていたと言えるかも知れない。近代に入って科学がこの宇宙について神話とは別の成り立ちを説き、物質世界に別の説明を加えるようになってからは、神話は科学に取って代わられてしまった感がある。現代の先進国に生きる人々が精神の安定を失っているのは、こうした神話の喪失によると説明する学者もいる。ただ本論からはずれるが一つだけ付け加えておくと、宗教はその教えに善悪の基準を置いているのに対し、神話には善悪の基準はないということだ。

これについてまとめると、神話にはあの世もこの世もあるが、宗教ほどそれらに隔たりはないということになる。(ただし、神話における神々の世界が何を意味しているかは別問題だ。これについては異星人の項で詳しく述べる)

では伝承についてはどうだろうか。先にも言ったように、単に伝承といってもその範囲は幅広く、定義するのは容易ではない。また多くの場合、伝承は民族の持つ神話や宗教を色濃く反映しているので、伝承独自の発想をその中から区別するのも難しい。しかしここでは伝承の分類が目的ではないので、このことには深く踏み込まないことにする。

伝承には神話や宗教にはない、庶民の知恵と笑いによるアイロニー(irony=皮肉)が表現されている。そして特に書物などにまとめられていないものの中に、死後の世界に関する多くの言及がある。その中には宗教の影響の少ないものもあって、独自の見解を示すものもある。また幽霊話や怪奇譚など神話や宗教にない要素も含んでもいる。

これについてまとめると、伝承には宗教や神話の影響を受けながらも、それらにはない死生観が含まれているということになる。

さてルネッサンスと共に始まった西洋近代哲学と、産業革命以来の科学万能主義が今や全世界を席捲している。しかしいつ始まったとも知れない人類の長大な歴史から見れば、これらはまだ新参者に過ぎないだろう。考古学が説くところでは現生人類は少なくとも数万年の過去から歴史を刻んできている。ところがあらゆる生物の系統樹にはミッシング・リンクがあり、一つの種は次の種にとって代わられるまでほぼ同じ状態が続いている。「進化論」の項でも言ったように、進化は常に新しい種と置き換わることによって起きたのであり、一つの種が継続する間は変化はあっても進化はなかった。すなわち人類も他の種にとって代わられるまで、誕生した時点から現在まで何ら進化はしていないことになる。

このように考えてくれば、近代に生まれた思想や科学技術などは表面的な変化に過ぎないと言えるだろう。これらは長い歴史の検証を受けて生き残ったものではないし、今後の長い歴史の中で検証され、淘汰されて初めて評価が定まるだろう。例えば西洋哲学をとってみても、あれだけ世界中でもてはやされたにも拘わらず、長い歴史どころか、僅か300年という期間で破綻に至っている。現在の科学万能主義も、歯止めのかからない地球汚染などを考えれば、近い将来破綻する可能性は大いにあると思われる。

イメージでは人類の持つ真の知恵はどこに求めればいいのだろう。もしそういったものがあるとすれば、何千年、何万年という歴史の検証に耐えてきたもの以外にないだろう。我々が知る限り、それに該当するのは神話、宗教、伝承の類だけだ。他の項でも言ったように、我々は進歩を続けているわけではない。現代が人類史上もっとも優れた政治制度や社会制度を持ち、最も優れた知識を持っているなどというのは、支配者が一般大衆に植えつけた幻想に過ぎない。時代は常に進展と後退を繰り返し、しかもその種が存続する限り、知識の集積や改善はあっても、質的な進化は起こらない。それは生物学者ルパート・シェルドレイクの、蝶の子は蝶であり、蛙の子は蛙であり、人の子は人であるという言及と同じだ。

人間の由来や死後の世界についての言及、すなわち人類の文化遺産と言うべきものは、神話や宗教や伝承の中にしかないというのが認めざるを得ない事実だ。ただしそれらの中には互いに相反する言及も含まれているので、すべてが正しいというわけではない。しかし歴史の検証に耐えてきたのはこれ以外にないので、これらは我々が真実を学び得る数少ない人類の知恵だと言える。果たして我々は死後の世界について、それらから何を学び得るだろうか。


所長の見解

我々が生きているこの時代において、もはやどの宗教が正しく、どの宗教が正しくないかなどという疑問は過去のものとなった。なぜなら我々が知りたいのはどの宗教・宗派が正しいかではなく、何が真実なのかということだからだ。

いくつかの宗教が歴史の検証に耐えてきたとはいえ、現在世界には何十万という宗教・宗派が存在する。誰一人としてこれら全てを学び、比較検討して一つの宗派を選んだ信者はいないだろう。ほとんどの場合、親が信者だったから、兄弟に誘われたから、先輩や友人に誘われたからなど、信者になった動機はたいてい単純なものだ。にもかかわらずいったん信者になると、彼らは平気で他の宗教・宗派を批判するようになる。一体そういう人たちはどういう神経をしているのだろうか。何故そんなに簡単に洗脳されてしまうのだろう。私の考えでは、その根底には不安から逃れるための決定論を渇望する心理が働いているのだと思う。彼らのやり方は、進化論のところで話した正統主流の学者たちのやり方とそっくりだ。自分たちに都合のいい情報は受け入れ、都合の悪い情報は無視するというやり方によって彼らはドグマ(dogma=独断的な信念)に陥るのだ。

どの宗教・宗派が真実を語っているのかなど検証できるものではない。比較宗教学という学問もあるが、その分野の学者が行なっているのは分類と比較であって真実の探求などではない。しかも彼らにとっても、毎日生まれてくる新興宗教の全てを検証することなど不可能なので、主に古くからある宗教について比較検討することに精を出している。

近年、もはやカビの生えた伝統宗教を離れ、流行のスピリチュアルな集団に身を置く人もいる(アメリカで始まったニューエイジはその典型だ)。しかしこれも怪しげな宗教と変わらず、『気付き』や『魂の目覚め』や『アセンション(次元上昇)』などといった訳の分からない言葉を弄して、専門的な知識も警戒心もない人たちを丸め込んでお金を巻き上げている。中には宗教法人にはなっていないものの、自分たちの考えを絶対であるかのように説き、他の集団を批判するといった、いわゆる宗教と同じような傾向を帯びているものもある。さらに中には徐々に伝統宗教の儀式に似たものをを取り入れ、宗教的雰囲気を醸し出そうとするものもあり、、それらは規律のない緩やかな宗教集団といった様相を帯びる傾向にある。

神話について言うなら、現代は世界規模で情報が行き交うようになったため、特定の民族についての物語である神話は、その価値と普遍性を失ってしまったように見受けられる。また日本の神道(しんとう)もそうだが、本来神話は民族の出自・由来を語り継ぐものであって、教えを説くものではない。それが証拠に、宗教組織の上に立つ人たちは皆説教をするが、神道の宮司は説教をしない。説話さえしない。一般に神話を語るのは親や祖父母であり、また多くの人生の先輩たちに過ぎない。また神道には経典もなく、布教活動もしない。これらが神話(神道)が宗教ではないと言われる所以(ゆえん)となっている。日本の神道の宮司は日本人が歩んできた人としての道を、身をもって示しているにすぎない。

最後に伝承について言うと、これらの中には異界について語るものもあるが、多くは日常における人間の生き様やそれに対する皮肉や教えといったものが多い。我々がこの世で生きてゆく上で、多くの示唆と教訓をそれらの伝承から得ることができるだろう。

現代社会イメージさてこれら神話と宗教と伝承に共通しているのは、その表現形態は違うにしても、死後の世界を認めているということだ。現代社会は日常から死を疎外してしまったため、その対極にある生が存在の根拠を失ってしまった感がある。人類の文化遺産であるこれら三つは、その存在の重みを失うと同時に、我々の生の重みも失ってしまったように思える。死を見つめることによって生の輝きを知ることができるように、かつては死後の世界を認めることによって、生の在り方を模索することができたのではないだろうか。

人類の歴史や文化を顧みることなく、欧米人が作り出した人間機械論的な考えに洗脳され、死後の世界などないと言い切る人たちは、自らの生き方を現世に限り、物とお金と自分にだけこだわる人生を生きているように見える。それは自分の見識の狭さと利己的な生き方を世間にさらけ出しているようなものだろう。我々は死後の世界について、単に否定することによって解決するという愚行を犯してはならないと思う。それは単なる無視であって、解決ではないからだ。我々はこの世の物質的観念の呪縛から自分を解き放ち、真摯な態度で見つめ直すことによって、そこに秘められているものを見出さなければならないと思う。


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