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構造

死後の世界は一体どういう構造をしているのだろうか。これについても様々な考えがあるので、煩雑さを避けるためにまずは大雑把な分類をしてみよう。以下は現今の言説や書物を基にして分けたものである。

現界:我々の住むこの世、三次元世界、(霊界、神界に対する)人間界
霊界:あの世、死後の世界、霊の世界、非物質界
神界:霊界の上に位置する神々(または高次元霊)の世界
幽界:(以上の三つとは違って)人間の想念が創り出したもの

構造図現界については我々が生きている馴染みの世界なので、あえて説明する必要はないと思う。霊界と神界については一般には区別はなく、「あの世」としてひとまとめにされることが多い。しかし転生を認める立場から言うと、魂(あるいは意識)は生と死を繰り返していることになるので、その場合はあの世とこの世というより、霊界と現界を行き来していると考えた方が分かりやすい。そしてカルマ(人間の業=ごう)を克服し、もはやこの世に生まれる必要のなくなった意識は神界へ行くと考えられる。

さて生まれ変わり(=転生)があるという直接証拠はないが、状況証拠ならいくらでもある。ごく普通の疑問だが、なぜ生まれつき絵を描くのが上手な人と苦手な人がいるのだろう。計算が得意な人、苦手な人。ピアノの場合4、5歳から頭角を現す天才児、いくら練習してもうまくならない子。速く走れる子、走れない子、等々。例をあげればきりがないが、人には生まれつき違いがある。何故だろう。

中には足が速い遅いは身体が違うのだから当然と考える人もいるだろう。だとしたら精神的能力も頭脳が違うから当然と言えるだろうか。問題は身体的にしろ頭脳的にしろ、何故初めから能力差があるのかということである。「ショパンの再来」、「チンギスハーンの再来」などという言い方があるが、初めから秀でた能力を持つ人たちは、まるでその先人の生まれ変わりのように見えるものなのではないだろうか。しかし実際にショパンの生まれ変わりでなくとも、前世や前々世でピアノやそれに似た楽器に携わって努力をした人が、初めからそうした能力を持って生まれてくると考えれば、一つの穿(うが)った説明になるのではないか。

転生を間接的に証明するもっと具体的な例もある。これはテレビ番組でも紹介されたのだが、一つはイギリスの婦人が前世の記憶を持っていて、一度も行ったことのない町の家並やかつての自宅の見取り図なども描いて示すので、テレビ局のスタッフと行ってみることになった。彼女がそこへ行ったことのないのは、周囲の多くの人たちの証言によって間違いないということだった。実際に到着してみると家は半壊していたのだが、間取りなどはレンガ(または石材)の残骸から明らかになり、彼女が描いた見取り図と一致した。彼女はここに居間があって、ここに台所があってと懐かしそうに説明した。

もうひとつの例はインドの少年で、彼も生れた村から一度も出たことのないことは周囲の多くの人たちの証言で確かめられていた。彼は普段から自分の住む村からほど近い村に、かつての自分の家族や親戚が住んでいると言ってきかなかったため、大学の学者などが来て検証を行なった。そして彼は実際に彼の前世の血縁者と会い、その人たちの名前を言い当てた。また自分が何歳の時にどのように死んだかを告げ、かつての血縁者の証言によって彼の言っていることが間違いないと確認された。

こうした話は世界中にある。第三者を交えて証明していないものを含めれば数え切れないほどあるだろう。これらは何を意味しているのだろう。

転生など信じない、あるはずがないと言う人は、こうしたことにどのように答えられるだろうか。人生が一回きりで死んだ後は何もないと考える人は、自分が不幸だと感じれば人生は不条理で腹立たしいものと判断するしかないだろうし、また一回きりの人生なら、金儲けをして少しでも恵まれた生活をした方が得だと考えることだろう。また自分より不幸な人を見れば優越感を感じ、自分よりも裕福な人を見れば嫉妬に身をやつすかもしれない。だとしたら、こうした人たちこそ世の中を住みづらくしているのかも知れない。

さてもし転生があるとすれば、一つの生と次の生の間に人間の意識(あるいは魂)はどこにいるのだろう。そこをとりあえず霊界と名付けるなら、霊界でその意識は何をしているのだろう。

ほんの20年ほど前までは、霊界とはこういうところであるなどと言うと、どこかの宗教の信者のように見られたものだった。しかし最近では宗教とは何の関係もない人たちが霊界について色々言うようになった。宗教者でもないのに瞑想したり、ヨガをしたり、幽体離脱を体験したり、しまいには元々東洋の思想なのに、チャクラなどというアメリカから逆輸入した言葉を云々する人たちも増えてきている。

こうした現象が現れてきたのは、多くの人が宗教を離れた、真実のあの世を知りたいと思い始めた結果だと思う。もはや地球規模で情報を共有できるようになった現在、どの宗教が正しいとか間違っているとかは何の意味もなくなってしまったからだ。

こうした人たちには、転生は意味もなく起こるはずがないという思いがあるに違いない。だとすれば何らかの法則があるはずである。すなわちそこで次の人生の計画を練るのかも知れないし、前世で身に付いた垢を落としたり、あるいは充電したりするのかもしれない。

とは言え色々な意見があるだけでは何も見えてこないので、全体を統一的に説明する必要がある。次にそれを述べよう。


所長の見解

ここでは色々な人の意見や体験を取り入れ、私なりに考えた統一的な見解を述べようと思う。

まず前提条件として言っておかなければならないのは、我々が「死」と呼んでいるのは肉体の終わりに過ぎないということである。肉体の死の後も意識は継続して存在する。すなわち意識にとって肉体の死は、三次元との訣別を意味するに過ぎないということである。

さて肉体の死後、人は皆「天国」へ行く。この天国というのは自分の望む世界、すなわち自分の波動に一番合った世界という意味である。

魂あるいは意識の波動の最も高い者は、いきなり神界へ行く。するともうその人は人間に生まれる必要はなくなる。そして高次元の霊たち(我々はこれを神々と呼んでいるが)と共に、もっと波動の低い者たちをより高い段階へ導くための活動に就く。こうした高い波動を持つ人たちは他人(ひと)の役に立つことが目的で生きてきたので、その望みに適った世界、すなわち天国へ来たことになる。

もう少し意識の波動の低い者は霊界へ行く。彼らは人間的な我欲や虚栄心、物欲や羨望などを持っているので、霊界から同じ波動の世界、すなわち人間界に再び生まれることになる。彼らは様々な執着を持っているので、望んだ通りの世界である天国(現界)に再びやって来るのである。

さらに波動の低い者は幽界へ行く。彼らは憎しみや嫉妬、怒りや恐怖心を持ち、隷属や支配欲にまみれていて常に自分のことしか眼中にないため、自分のことしか眼中にない人々の集まる世界へ行く。

この幽界はもともとは存在しなかったのだが、人間の想念がその想念波のエネルギーによって創り出したものである。したがってこの幽界は無数の世界に分けられる。飛び降り自殺した人は死ぬ瞬間の強い想念をそのまま持って行くので、幽界でもその想念の世界に吸い込まれる。すなわちその人は自分の望んだ天国に行き、その世界で何度も何度も飛び降り自殺を繰り返すのである。

手首を切り続けた人が死ぬと(いわゆるリストカットなど)、暗く狭い世界に行き、そこで何十年も何百年も手首を切り続ける。(ただし幽界には三次元的な時間感覚はない)

政治の世界で権力闘争に明け暮れ、金と賄賂にまみれ、駆け引きと策謀の中で生きた人は、その人の望む、同じような人々が集まる世界へ行く。すなわち彼らは彼らの天国へ行くのである。そういう人たちは地上での生活と同じように政敵を誹謗中傷し、自分の方は賄賂にまみれながらも、有権者の前では清廉潔白を装い、厚顔無恥な生き方を延々と続ける。

宗教にのめり込んだ者たちは、同じ宗派の人々の集まる世界へ行く。これらの人々は、彼らを救おうとする神界の人たちにとっては最も始末に負えない人種だという。何故なら彼らは自分たちだけが正しいと思っているので、どんな説得にも応じないからである。彼らは毎日祈りを捧げ、自分の過ちを神に懺悔し、自分の欲深さを悔い、毎日毎日神に許しを乞う。けれども彼らはそうした自分に満足し、その欠点を受け入れているので、一向に自己改善はされず、したがって何百年経とうとその世界から抜け出すことはできない。

またこの世界の神父(または僧侶)も、地上でしてきたように物欲、肉欲、金の欲にまみれ、しかも信者に対しては清く正しい者であるがごとく振る舞い、それによって尊敬を集めて満足しているので、結局同じようにその世界から抜け出すことはできない。これらの人々は信者にしろ神父または僧侶にしろ、自分に執着することに喜びを感じているので、彼らの望む天国へ来たのだと言える。

このように自家撞着が強く、自分は善人だとまやかしの説得を自分にし続けている人たちは、はっきりと自分は間違っていたと認めやすい自殺者よりも始末が悪いかもしれない。

イメージこのように幽界は人間の想念のエネルギーが創り出した世界なので、いうなれば想念の種類だけその数はある。また現界からきちんと霊界に行く人よりも、幽界に嵌(はま)る人の方が多いのかもしれない。だとしたら神界の高級霊は、三次元のこの世界よりも、幽界の手助けのためにより多く奔走している可能性がある。

神界、霊界、幽界は見方を変えれば単に精神(または魂)の波動の違いによって区分けされた世界だとも言える。そして幽界を除けば、神界と霊界は互いに波動を送り、受け取るという相互依存的な関係によって成り立っているのだと思う。

宇宙は初め十次元として生まれた、というのが現代物理学の見解だが(十一次元という考えもある)、この考えはほぼ間違いないだろうと私も思っている。ただし現代物理学は宇宙開闢の初期に、時間の一次元と空間の三次元を残して他の六次元は畳まれてしまった、との訳の分からない理屈を述べている。しかし私はすべての次元はそのままあると考えている。

三次元から十次元まで同時に成り立つためには、どの一つの次元も欠けてはならない。したがってそこには優劣、良し悪しの別はないと考えられる。あるとすれば互いの違いであって、それは宇宙が、その特性である多様性を展開してゆくために必要だったからである。

すべての精神=魂は最終ゴールへ向けてそれぞれの道を歩いているのであって、違いは単に先を歩いているか後を歩いているかに過ぎない。例えば一軒のスーパー・マーケットを考えてみれば、そこへは多くの人がやって来る。彼らはそれぞれに違う道筋を選び、違う時間に来る。しかし誰も先に来た者は優れていて、後に来た者が劣っているなどとは思わない。結局は皆そこへ辿り着くだけである。

我々は同じ崇高な目標に向かって、それぞれの魂の道を、それぞれのペースで歩み続けている。時には歩けない者に手を貸し、時には自分も助けてもらい、時にはその道のりで喧嘩をし、時には反省して和解する。三次元の我欲にまみれた我々はまだ捨てなければならない多くのものを抱えているだろう。しかしやがては自分が本当は何者なのかを思い出し、宇宙の本質が何なのかを知り、そしてこのことに目覚めた時、この次元からより精妙な次元へと旅立つのだと思われる。


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