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死と生の間

霊界に行った意識は再び肉体を持って生まれる間、すなわち死から生に至る間、一体何をしているのだろう。ここでは具体的な例を挙げて説明しようと思う。ただ昨今は幽界へ嵌る人が多いように見受けられるので、そうした人を例に採ることにする。

29歳の男性が交通事故で意識不明となり、3日後に死んだ。彼は学生の頃多少勉強はできたので、できれば一流会社に就職したかったが採用されず、二流会社も落ち、結局地方都市にある三流の無名の会社に就職した。自尊心だけは人一倍強かったため、彼には社員たちが馬鹿に見え、社長にしてもその軽薄さが許せなかった。彼は会社や仕事に誇りを持てず、常に不満を抱えていた。そして自分が正当な仕事に就けず、きちんと評価されないのは社会が間違っているからだと思うようになった。彼は社会と他人への怒りを募らせていき、ある時車で走っていて、前の車がもたもたしているのに苛々し、追い越しをかけた時トラックと正面衝突した。

彼は肉体から抜け出した時、怒りがピークに達し、止まった前の車のところへ行き、震えている運転手に大声で怒鳴りつけた。しかしその運転手は気が動転しているのか、彼の方を見ようとしなかった。彼は感情をこらえきれず運転手の胸座(むなぐら)を掴んだ。しかし何故か掴んだはずの胸座に変化はなく、掴んだ感じもしなかった。彼は何度か試みたが同じなので、しまいに殴りかかった。しかしこれも空振りに終わった。

イメージ彼は自分に何が起こっているのか理解できず、怒りを周囲にぶちまけていた。やがて彼は自分の葬式が行われるのを見て衝撃を受ける。自分は何も変わっていないのにこれが『死』であるはずはない。何故みんな自分を死んだと思っているのかと。そうこうするうちに地上ではあっという間に49日が過ぎる。(霊的世界では三次元で言う時間的経過はなく、変化が時間経過のように感じられるだけなので、彼の精神に変化がない限り地上的な時間経過を感じることはない。すなわち彼にとってはあっという間に49日が過ぎたことになる)

その後彼は引き寄せられるようにある街に入って行く。そこには彼と同じように常に苛々し、自分は悪くないのに周りのせいで自分は不幸な状況にあると思っている人が集まっている。彼はそこで地上と同じように暮らすことになる。仕事に行くといつもと違う仕事仲間がいる。しかし彼は自分自身にしか目が向いていないのでたいして気にも留めない。彼らは彼と同じように苛々し、何か起こると彼のせいにしようとする。それに彼は苛立ち、喧嘩になる。彼らは全員自分のことしか考えていないので争いは絶えない。そうした毎日が延々と続いてゆく。

三次元の地上で10年経ったか100年経ったかは分からない。しかし彼らに変化はないので、年を取ることも状況が変わることもなく、同じ生活が繰り返されている。やがて誰かがふっといなくなり、また急に一人増えたりする。だが彼らは誰かが会社を辞め、また一人入って来たくらいにしか思っていない。しかしついにある時、それは地上時間で300年かも知れないが、彼は自分がそうした生活に飽きてきているのを感じる。そしてもうこんな生活はやめよう、と思った途端、不意にその世界から抜け出る。

外へ出ると一人の見知らぬ人が彼を出迎えている。その人は指導霊(英語の書物ではguide=ガイドと表現されている)なのだが、彼にはそのことがよく理解できない。すると指導霊は『もう飽きたでしょう、上の方へ行きましょう』と言って彼を導き、霊界へ連れてゆく。

この指導霊が無理に彼を幽界から連れ出そうとしなかったのは、宇宙の持つ主体性の保持という原理に従っているためだ。霊的世界では神と呼ばれる存在でも、自分の意思を他人に押し付けないというルールに則(のっと)って行動する。したがって彼は本来ならまっすぐ来るべき霊界に、数百年をかけてようやく来ることができたのだ。

彼はある一室に連れて行かれ、そこで地上で染み付いた垢を落とされ、傷ついた魂の癒しを受ける。しかし地上で自分が作ったカルマや、それ以前の生で背負い、しかも今世で浄化できなかったカルマなどはそのまま残される。彼はそのカルマを浄化し高い魂の波動を得るために、再び三次元に行かなければならないと言われる。

彼は何人かの指導霊と共に次の生の計画を練る。しかしそれは自分の意思だけで作れるわけではない。最低限、自分のカルマを浄化するための場面が設定される。すなわち彼が苛々を募らせ、自分の不幸をすべて他人のせいにした時の状況が同じく設定される。これは彼がそのカルマを乗り越えない限り何度でも課せられる。

もう一つ彼は崇高な目標を立てなければならない。それは自分がより高い波動を得るために自ら課す試練だ。この計画作成時点では、多くの人は学びのための試練を勇気をもって設定する。それは霊界に身を置いている限り、階層的宇宙の構造と、生命が向かうべき方向がきちんと認識できるからだ。(すなわち地上でのいかなる劣悪な状況も、実は自分が自らに課した試練であって、高い波動を得ようとする決意の現れとしての状況だと言える)

彼は計画を練り終えると、次に生まれる時代と場所とを選択する。この場合、自分の人生計画が最も有効に実現されるように選ぶ必要がある。すなわち親や兄弟や子供など自分の家族もそうだが、友人や知人、以前の生でカルマやしこりを作った人々との出会いや、自分を支え導いてくれる人の出会いなども考えて選ばなければならない。したがってそれは指導霊や上級の霊たち(神々)の助言をもとに、あらゆることを考慮して選ばれる。

『袖振り合うも他生(たしょう)の縁』という日本古来の慣用句があるが、これは見知らぬ人とすれ違う時に袖が触れ合うのも実は偶然ではなく、過去世の何らかの縁による、という意味だ。宇宙は様々な因果、因縁の絡み合いを、ちょうど反物のように織り成す模様として、人間関係を編み込んでいっている。

さて全ての準備が整うと、彼は生まれる時を待つ人々の列に加わる。それが地上時間の10年であるかもしれないし500年であるかもしれない。しかし霊界には変化以外に時間経過を感じさせるものがないので別に苦痛ではない。そしていよいよ生まれる段になると、彼は霊界の記憶と全ての過去世の記憶を消される。それは地上での生活が試練であり、前世の記憶や霊界での計画作成の記憶があれば試練とはならないからだ。

イメージ彼はいよいよ三次元の母親の子宮に吸い込まれ、人間として生まれる。生まれたとき彼は以前の三次元世界のことを忘れているので、様々なことを学び直さなければならない。その努力も彼の試練なのだ。彼は自分がどんな親を選んだかも忘れているので、新たに向き合わなければならない。言葉を学び、躾をされ、学校で勉強し、社会に出るためのマナーを身に付けなければならない。これら全てが彼にとっての試練となる。しかし次々にやって来る試練に彼は押し潰されそうになる。彼は思春期から苛々を覚え始め、成人してもそれを乗り越えられず募らせてゆく。彼は勉強は多少できたのだが、結局一流会社には就職できない。二流の有名会社もすべて落ち、結局三流どころに納まる。実はこれら全てが、自己中心的な自分を変えるための機会、すなわち試練なのだが、彼はそのことに気付かない。こうしてある日車を運転しているときに決定的な場面を迎える。果たして彼は今度はどういう態度で臨むのだろうか。

もし彼がこの決定的な場面に至る前に自分の傲慢さに気付いていれば、この場面を乗り越え、別の人生を歩むことになるだろう。彼は結婚し子供をもうけて、妻との付き合いや子育ての中で新たな試練に立ち向かうかも知れない。また病気や老いの中で別の試練と向き合うかも知れない。しかし車を運転している時の決定的な場面を乗り越えられなければ、彼は何度でもこの試練を繰り返すことになる。


所長の見解

上の例について一言付け加えれば、彼が今回の試練を乗り越えられない場合、数百年後に今あるような車は運転していないだろうということだ。単に似たような状況がやって来るという意味だ。また彼の苛立ちは実は前世だけのものではなく、それ以前の過去世から引きずって来た可能性もある。そして過去世では車ではなく、馬車だったかもしれない。すなわち時代が変わっても人の心は物質的状況とは関わりなく、違う時代の別の状況の中で同じ試練と向き合う。実は技術的進歩などは表面的変化に過ぎず、それらが真の進歩であるかのように思っているのは現代教育によって植えつけられた幻想に過ぎない。心は物質的状況が変わっても継続してゆくもので、それは試練によってのみ変わり得るものなのだ。すなわち他を理解し、忍耐を身に付け、勇気を獲得し、宇宙との調和に気付くことによってのみ成長するということだ。

さて先ほども言ったように、死から生に至る間で、人は魂の向上に向けて来世の計画を練るわけだが、何故そうまでしてこの世に生まれて来なければならないのだろう。

理由の一つは霊界というところでは変化というものが非常に起こりにくいからだ。霊界や幽界では時間的制限や空間的制限を受けないので自分の意のままでいられる。他人との関係も、同じ波動の人が集まる所にいるのでそれ以上悪くなることも良くなることもほとんどない。すなわち霊界や幽界では進歩も退歩も起こりにくいということだ。

これに対して我々の三次元では時間も空間も固定されているので、あらゆる波動の人々が一緒に暮らすことができる。我々は(大抵の場合)数百年に一度この世に生れ、自分を高めるための貴重な機会を得る。しかしそこには逆の可能性も潜んでいる。それはより波動の荒い人に引き寄せられ、自分の本来の波動を低めてしまうこともあるということだ。

いずれにしても我々は様々な波動の人が集まる、まるで波動の坩堝(るつぼ)のような世界に来ているわけだ。我々はこの世界で多くの違った波動を持つ人と接することによって、様々な、幅広い、貴重な体験をすることができる。もしこの世へ来ながら自分の殻に閉じこもり、自分の気に入らない人は避け、自分を許してくれる人だけと接するなら、千載一遇の機会をみすみす無駄に過ごしてしまうことになる。

我々は様々なことを学ぶためにこの世にやって来た。来たのはもちろん初めてではない。しかも自分に合った学びと試練のために自ら計画し、自ら選んでやって来た。このことを知れば我々は与えられた貴重なこの生で、多くの本を読み、多くの人と付き合い、多くの挑戦をし、多くの学びをしてその機会を生かすことができるだろう。

霊界にいた我々が何故何度もこの世に生れて来なければならなかったのか、その第二の理由は魂の器の拡大と浄化にあると思われる。何千年、何万年という時の経過の中で、良いも悪いも、酸(す)いも甘いも、幸も不幸も、あらゆることを体験し、正邪、陰陽、表裏のからくりを知り、転生を繰り返しながら魂の器を広げ、しかもいくつもの生で付いた垢を落とし、その魂を浄化するために何度も生まれ変わる必要があったのだろう。この浄化によって、人は自分が何者だったかを思い出し、それによって世界が終焉を迎えつつあるこの生で、高い波動を得て神界へ旅立つことができる。

主に*ニューエイジ思想によれば、人の魂(=精神=意識)はいくつかのところからやって来たという(*ニューエイジ:アメリカで1970年代後半から80年代にかけて生まれた霊性復興的な運動。チャネリング、リーディング、瞑想、前世療法などの活動があり、ヒッピーの後の時代を担うものとしてファッション化し流行した。彼らはプレアデス系星人によるメッセージだという触れ込みで書物を出版したりもしている。彼らの活動には宗教的な面があり、書物や教えの中にも明らかな嘘があって、色々物議を醸している。アメリカでの衰退から20年ほどを経て、現在日本で流行している)。このニューエイジたちのチャネリングによれば、他の星から来た魂もあれば、高い次元から次元下降して来たものもあり、この地球で育まれたものもあるという。それらの魂は初めは皆純粋無垢で、人々はこの地上で平和に楽しく暮らしたそうだ。ではなぜその後人々は歪んだ心を持ち、殺し合い(戦争)や所有欲や羨望や憎しみにまみれていったのだろう。

私の考えでは、宇宙は自らの壮大な展開の中で、魂がそのまま純粋無垢であることを良しとしなかったのではないかと思う。何故なら魂は幸も不幸も酸いも甘いも体験することによって、正邪、陰陽、表裏のからくりを知り、それによって宇宙は無数の魂をその本質である愛と歓喜に至らしめることを望んだからではないだろうか。

その目的のために、太古においては人は死ぬことがなかったか、あるいは寿命を非常に長く設定されたのだと思う。その長い人生の中で、人は様々な欲に駆られ、他の生命を食い物にし、隷属させ、また自ら隷属する方向へと落ちていき、(それによって人は陰陽・表裏の道理を知るのではなく)単に自我に執着し、自らの波動を荒げただけだったのだろう。

これを知った宇宙は人に死を与え、過去の記憶を消し、出直す機会を与えたのだと思う。すなわち輪廻転生を与えたのだと思う。しかしこれでも人は立ち直るどころか、邪な波動に吸い寄せられ、自ら波動を低めていった。そのため宇宙は高い次元の霊を受肉させ、人々を導く者を遣わしたりした。釈迦、イエス、マホメットなどはその例と言えるかも知れない。

とはいえ人々は初めの内は彼らの指導のもと、正しい道を歩むかにみえたが、聖者が死んだ後は宗教組織を作り上げ、上に立つ者は自分の権益を増大させることに夢中になり、それを守るために教えを歪曲し、そうして聖者たちの意図を台無しにしてしまった。

こうして時代を経るにつれ人々の邪念はさらに強まり、その波動がエネルギー場を発生させ、幽界という当初はなかった世界を形成してしまった。多くの邪(よこしま)な魂は死後、その世界に引き寄せられ、指導霊の手に余る状況となった。これが幽界を含めた現在の現界の状況だと思う。

現代社会イメージ本来の目的や意図を忘れ、自分のことに精一杯の人間たちは、今のこの地球の破局的な状況の中にあっても、あくまで自分にこだわり続けている。我々はこの地球の破滅的な流れに加担するか、それとも様々な経験を積んで器を広げた魂を、今ここで磨いて本来の自分と本来の目的を思い出し、高い次元に旅立つか、そのどちらかの選択が迫られているだろう。

死と生の間にある『死後の世界』は、このように長大な時間の中で検証しなければその全体像は見えてこない。千載一遇のこの生で、あなたは何を選択し、どう行動するだろうか。

<死後の世界の項 終わり>


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