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予言の背景

先に予言には二種類あると言った。ひとつは古い記録を読み解くもので、これは人間的な能力によるものに過ぎなく、極端な言い方をすればどう解釈しようとその人の勝手だ。もうひとつは本人が自発的に述べる場合で、これには様々なタイプがあり、一種の催眠状態で述べる場合、その人に懸かった霊的な何かが書かせたり言わせたりする場合、夢の中で言葉や映像を受け取る場合、あるいは故意に特定の霊や神を呼び出して言葉をもらう場合などがある。

イメージまず一つ目のタイプについて言うと、古文書の解釈は大変難しいということだ。記録を読み解く場合、その字面だけを解釈すると大きな間違いを犯す。文書というものは時代背景の下に書かれるものであって、その時代の影響を考慮に入れなければ正しい解釈はできない。なぜならいかなる人間も時代の子であり、時代を超えて存在することはできないからだ。しかも読み解く側も自分の生まれた時代の影響下にあり、したがって自分の時代を超えて解釈をするのは難しい面がある。具体的に言えば、我々は民主主義の洗脳を受けているため、ヨーロッパ中世の王国の一般庶民や、日本にかつてあった藩の一般庶民がどういった生活感覚を持っていたのかを理解するのは大変難しいということだ。本当に理解しようと思ったら今の価値観を捨て、その時代のその町の人になりきる努力をしなければならないだろう。

近年ノストラダムスの『諸世紀』に書かれた1999年に関する詩を終末予言と解釈し、その解釈本を出版した人が、実際には終末が来なかったので批判を受けたりしたが、こんなことは歴史上いくらでもある。世界中のあちこちで終末を信じて全財産を使い果たし、結果その終末が来なかったので憤慨し、予言者を裁判に訴えるということもしばしば起こっている。

古文書をひも解いて解釈した人たちは厳密には預言者とはいえない。何かを読んで終末が何年後に来ると言っても、所詮は推量にすぎないし、従ってその年代が外れたとしても驚くにあたらない。また解釈した人の言葉を真に受け、それが外れたからといって憤慨する人も、自分が結局は信じてしまったわけだから、外した人を責めるのは責任転嫁ということになるだろう。また怠惰で自暴自棄になった人が終末でも来ればいいと思っているところにそうした予言が転がり込んできて、これぞとばかり飛び付く場合もあり、それが外れたからといって責めるのも、同じく責任転嫁でしかないだろう。

このように人間的判断には多くの間違いが伴うもので、解釈された予言を安易に信じることによって、自分の愚かさを露呈する結果になることもしばしばある。

予言のもう一つのタイプは本人が自ら公言する場合で、先にも言ったようにこれには色々な種類がある。出口なおのように御筆先(おふでさき)といって神の言葉を無意識に書き記す場合、エドガー・ケーシーのように一種の催眠状態で何者かの言葉を語る場合、聖書の預言者やジュセリーノのようにある場面の映像を見る場合、イタコのように特定の霊を呼び出してその言葉を述べる場合などがある。

この中で出口なおやケーシーの場合は、本人は学問や専門的な知識がないにもかかわらず、学者が舌を巻くような専門的な知識を伴なった内容を書いたり述べたりしている。現代科学のいかなる分野の方法論をもってしても、こうしたことに説明を加えることはできない。したがって学者はこうしたことには触れずに無視している。

幻視について言えば、聖書の預言者やジュセリーノのような特別な人でなくとも、多くの人が大なり小なり体験していると思う。ただ一般の人は公言しないだけだ。こうした能力についても現代科学は説明できないので無視を決め込んでいる。

イタコについて言うと、彼女たち(または彼ら)は生まれつき盲目や弱視だったため、生活の糧を得るためになったのがそもそもの始まりだと言われている。ただしイタコになるためには相当厳しい修行が必要で、現在では苦労をいとわない若者がいなくなったため、イタコのほとんどは高齢化し、後継者がいない状態になっいる。彼女たちは口寄せと呼ばれるものを本業としている。それは尋ねてくる人の先祖の霊などを下ろして自分に乗り移らせ、その言葉を語るもので、現在これは国の指定選択無形文化財になっている。

このイタコについても学者は無視を決め込んでいるが、中には深層心理学を持ち出して、無意識からくる自分の声を聞いている、といった説明がされることがある。彼らは学問の権威を振りかざし、時には侮蔑の意味を込めてそのように言うこともある。そんな軽薄な解釈のために学問を持ち出していいものだろうかと私は思ってしまう。無意識を最初に説いたフロイトや、無意識の探究に生涯を捧げたユングなどが生きていたら、さぞかし迷惑だと感じることだろう。

では現代科学が解けないこれらの事実をどう解釈したらいいのだろう。これまでも言ってきたように、それは物質界の論理にこだわっているから解けないのであって、もし物質界だけにこだわる科学的手法を捨てる勇気があれば、物事の真の姿が別の地平から見えてくるのではないかと思う。


所長の見解

終末予言を除けば、一般に予言は当たることもあるし当たらないこともある。日本語の慣用句に「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるが、実際的中率100%という予言者は現れていない。しかし全て出鱈目で、的中したのは偶然だと単純に片付けてしまったのでは、何の解明にも繋がらない。では一体どう解釈すれば予言に関する矛盾のない全体像は得られるのだろう。

解決の一つの鍵はアカシック・レコードにあると思う。これは私の言葉に置き換えて言えば想念場だ。他の項でも言ったように、アカシック・レコードは宇宙の全ての記録が蓄えられた次元だと説明さる。しかし記録といっても単にノートやハード・ディスクに書き込まれたような固定的なものではない。これは銀河の無数の星からやってくる新しい情報(生物の想念も含む)によって変化し、作り変えられていくものなのだ。

ルパート・シェルドレイクの形態形成場やC・G・ユングの集合無意識、プラトンのイデア論でいう『真なる世界』も、実はこれと同じものを指しているのだろうと思われる。彼らはそれぞれ自分の専門分野からこうしたイメージにたどり着いたのだろう。名前や意味内容が少しずつ違うのは、アカシック・レコードという大きな構造の、一つの局面を切り取ったためではないかと思われる。

注意しなければならないのはアカシック・レコードを含む宇宙全体も、実は固定されたものではなく、常に変化発展してゆくものだということだ。しかも宇宙は階層的な構造をしているので、地球には地球規模の、太陽系には太陽系規模の、銀河系には銀河系規模のアカシック・レコードがあると思われる。そしてそれらは互いに有機的に繋がりながら、無数の想念や様々な情報を交換しつつ自ら変化しているのだと思う。

我々は日常において気付かずにこれらのシステムに参加している。すなわち我々が『思う』ことによって地球規模の想念場が形成され、それが太陽系規模の、さらには銀河系規模のアカシック・レコードに影響を及ぼし、そこで精査され変容されたものが同じルートを経て送り返され、今度は我々の想念が影響を受けるのだと思われる。しかもこのアカシック・レコードは多次元的な構造をしているので、他の次元からの干渉や影響によっても集約や変容がなされるのだと思う。したがって我々のもとに送り返された時には、こうした他次元からの何らかの影響もあると考えられる。

イメージさて予言者と呼ばれる人たちは、このアカシック・レコードに何らかの形で繋がったのではないだろうか。そこには過去から未来に至るまでの全ての記録が、変化・進展しながら保存されているので、将来起こることを垣間見ることもできると思う。しかしアカシック・レコードは言わば有機的に成長してゆく立体的な生き物のようなものであり、それを垣間見る人間の側は平面的な断面としてしか見ることができないので、完全な未来像を把握するのは不可能だと思う。したがってどんな有能な予言者も予測を外すことがあり、またアカシック・レコードにアクセスした時点では確かな未来であっても、アカシック・レコード自体が変化・進展するので、時が経てば当たらなくなってしまうということも起きるのだと思う。

さらにもうひとつ付け加えるなら、予言者が持っている波動の次元によってアカシック・レコードの見え方が違ってくることも考えられる。お金を取って個人の占いなどをする場合など、占う本人の魂が欲に穢れている可能性があるので、そうした場合にはアカシック・レコードが歪んで見えるため、歪んだ予言または占いをしてしまうこともあるだろう。

予言を解くもう一つの鍵は、異次元に存在する霊的生命体を想定することだろう。霊的生命体には波動の高いものから低いものまで様々あり、聖書に出てくる神も最高の波動を持った霊的生命体だとは言い難い。旧約聖書にある『私は嫉妬の神である』という言葉、またエジプトで『すべての初子を撃つ』と言って、罪のないエジプト人の長子を全て殺してしまった行為(のちにこれはユダヤ教の過越の祭りとなった)などを見れば、エホバは全知全能の神のイメージとはほど遠いのが解る。

多くの霊能者と呼ばれる人は、一体どの程度のレベルの霊的生命体と交信しているのだろう。日本語には審神(さにわ)という言葉があるが、これは神(あるいは神慮)を審察するという意味だ。多くの霊能者は『私には誰それが憑いている』、または『私は誰それの生まれ変わりだ』と神の名を騙(かた)ることが多い。大日如来、阿弥陀如来、観世音菩薩、天照大神、キリスト、マリアなど例を挙げれば限(きり)がない。

「ひふみ神示」によれば、三度名を尋ねれば本当のことを言うという。それは霊というものは想念がそのまま実現する世界にいるので、三次元のように嘘を吐き通すことができないからだという。他にも審神(さにわ)のための判断基準はある。怪しげな霊の場合、往々にして次のような特徴を示すという。

・高い次元の神の名を騙る
・物事について断言的な言い方をする
・態度が横柄である
・全体的に見て下品である

これらの特徴は地球人が交信していると言われる異星人の場合にも当てはまるだろう。

イメージ我々の三次元がいくつもの次元と重なっているとしたら、本人の持つ波動に見合った霊的存在が憑依するだろうことは容易に想像がつく。低い波動を持つ人は多くの低級霊が憑きやすく、しかもそういう人は高級な霊が憑いたと勘違いしやすい。一方高級霊の場合は本人にも周りの者にも分からない状態で憑依するという。これはちょうど芸術家がものを作り出す時の状態に似ている。それは天啓とも言うべきもので、我々は一般にこれをインスピレーションと呼んでいる。これは偉大な芸術作品が生まれる時や偉大な発明がなされる時にやってくる気付き、あるいは閃きのようなもので、それを憑依だとは本人も周りの者も思わないだろう。高い波動の霊体が憑くときはそのようなものだと考えられる。

これらのことを概観すれば、予言は他に求めれば自分を失い、自己の中に求めれば活かされる、ということではないだろうか。自分の外からくる声や指示ばかりを追い求め、それに従っていては、やがて自分を失い、声の主に人生を預けて、結果的に誰の人生を生きているのか分からなくなってしまうだろう。

逆に自分の内なる声に耳を傾ければ詩人や小説家がそうであるように、『湧き出る』言葉に自分を見出し、充実感を味わうだろう。内なる音に耳を傾ければ、作曲家がそうであるように『湧き出る』旋律に喜びと満足を覚えるだろう。また発明家の多くが言うように、金儲けのためではなく、誰かのために役立ちたいという思いが、結果的に閃きを招き入れたのではないかという感想にもあるように、愛や思いやりの波動が高度な閃きを生むのではないだろうか。

このようなことは特別な人にだけ起こるわけではない。我々が静寂の中で魂の感動を味わおうとすれば、誰にでも起きることなのだと思う。一度テレビもラジオも異性も金も忘れ、多忙や喧噪やしがらみを遮断し、静かな部屋で自分の声を聞こうとすれば、誰にでも高い波動の霊体が、真の神憑りとして訪れてくるかもしれない。それは言い方を変えれば、真にアカシック・レコードと繋がることでもあるだろう。

予言の全体像はこのように多次元的な視点をもって見つめなければ浮かび上がってこない。我々がこの三次元にしがみついている限り、様々な想定や発想ができないばかりか、推論の広がりも持ち得ない。我々は恐れることなく三次元の枠を超え、新しい地平を切り拓かなければならない。そしてアカシック・レコードと繋がった者たちに単に『霊能者』というレッテルを貼るのではなく、自分にも卓越した能力が備わっているのだと受け止め、本来の高次の自分の姿を思い出す努力をすべきだろう。それは同時に波動の低い霊能者に対する崇拝や追従から自らを守ることにもなる。

<予言の項 終わり>


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