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東洋と西洋の心の違い

ここでは主にユングの深層心理学を基に話を進めてゆく。東西の心的構造の違いについては『意識』の項である程度述べたので、多少重複するところはあるかも知れないが、ここでは足りない部分を付け加えて話をしようと思う。

ユングが東洋人と西洋人の意識の在り方の違いに気付いたのは画期的なことだと思う。それまで論理的・合理的思考が優れていると思っていた西洋人にとって、必ずしも論理によって行動するわけではない東洋人は彼らの理解を超えた不思議な存在だった。しかし不思議であることは評価するこことは違う。ユングのような特別な人を除けば、多くの欧米の白人種は論理的ではない有色人種を劣った者たちと決めつけていた。これは言い過ぎではない。

実はルネッサンス以前の白人の黒人に対する差別意識はそれほどはっきりしていなかった。それがはっきりとした差別意識になってゆくのはルネッサンスの著名な思想家たちによるところが多い。このことは近年のアフリカ学によって明らかにされたことだが、明治から昭和にかけての日本の文化人が崇拝してきた西洋の哲学者・思想家などの殆ど全てが、このルネッサンス期に露骨に、しかも平然と黒人種の劣等性を公言し始めた(ルソーやデカルトもこの例外ではない)。今日の日本人は欧米崇拝の風潮に染められてしまったため、未だにこうした事実を知る人は少ない。

しかしユングが行なった考察の重要な点は、差別的な概念による比較ではなく、違いの概念によって東洋と西洋を比較して見せたことにある。現代の先進国の人々は何事も優劣によって判断することを強いられ、そのように洗脳されてきたので、単なる違い、あるいは多様性の現われとしての違いという捉え方ができなくなっているように思う。

例えば男と女には肉体的および感覚的違いがある。思春期以降筋肉の発達する男の較べ、女はそれほど発達しない。これを男が優れている証拠だと本気で思う人はいないだろう。女は初潮とともに子供を産む身体作りをしなければならないので、筋肉だけを発達させられないのだろう。また男は物事を論理で判断する傾向があるが、女は好き嫌いで判断する傾向がある。現代は論理が優先する社会になっているので、論理的な男の方が優れているように思われる傾向があるが、それには何の根拠もない。好き嫌いは一つの立派な判断基準であり、社会構造が変わればこちらの方が評価されることもあり得る。

このように男女の間には様々な違いがあるが、それはいわば宇宙の多様性の展開の一環として捉えることもでき、区別があるのは豊かさの証でもあると思う。これを差別と捉える多くの現代人は、幼い時から優劣の概念を植え付けられ、洗脳されてきたからに他ならない。

自我(ego)と自己(self) ではユングの言う東洋人(特に日本人)と西洋人の心の構造の違いについて具体的に見ていくことにしよう。ここでも彼は両者の優劣については言及していない。単に違いを明確にしているだけだ。

ユングの言葉には自我(ego)と自己(self) とがある。自我は意識の中心であり、外界を認識し、判断し、対処の方法を見つける働きをしているとされる。一方自己は意識と無意識を含む心全体の中心であり、意識と無意識の対立や、思考と感情、また男性的な要素(アニムス)と女性的な要素(アニマ)の対立などの統合を行なっているものとされる。

西洋人の意識西洋人は自我を中心とした統一体としての意識(ego)を持っている。これは日本人から見ると様々な形に現われて見える。例えば非常に論理的に見え、はっきり自分の意見を言える人間に見え、物事の理解が明確であるように見える。しかしこれは論理性を色濃く持つ文化を背負い、自我を中心とした意識構造を持ち、個人があくまで社会の単位だとする教育を受けてきた人たちに備わったもので、そこにはいくつか問題もある。

論理を最優先させた西洋人は機械文明の基礎を作り、その道の果てに環境汚染・地球破壊を招いた(「意識」の項を参照)。100年も前に論理の抱える矛盾が論理学で証明されたにも拘(かかわ)らず、その道を進むことしかできなかったのは、彼らが東洋的な観点を持ち得ず、それを学ぼうとしなかったことが大きな理由の一つと考えられる。

また自我(ego)を中心とした意識構造は極端な個人主義へと突き進み、『心の重なり』を持たない彼らは他との対立を余儀なくされた。他と対立すれば勝たねばならず、したがって他人も他国も自然も彼らにとっては支配の対象となった(「意識」の項を参照)。これだけが原因とは言えないが、世界に無数の対立が生み出されたのは、こうした西欧的な考え方が世界に蔓延したことが一つの原因だと思われる。

東洋人(特に日本人)の意識一方東洋人(特に日本人)は意識そのものに、言い換えれば心の表面に自我(ego)を持つのではなく、意識と無意識を含めた三次元的な心の中心に自己(self)を持っている。そしてこの自己(self)は意識と無意識を統合する役目を担っていると考えられている。そして長い間、欧米的な個人主義に穢されることがなかったので和の精神が育った。それは心の重なりを持つ日本人が、対立よりも相互扶助の方が容易に生きやすいことを経験的に知り、それを文化として育んだからだろう。

こうした言い方をすると国粋主義のような危険な考えと見做されるかも知れないが、そういう意図はない。逆から見れば個人性を薄めすぎたために、国民全体が簡単に纏(まと)まることも容易となり、それが間違った指導者のもとに一つの行動に出れば、第二次世界大戦時のような、一億玉砕といった馬鹿げた方向に暴走することにもなる。また欧米人と違って個人と神ではなく、人間同士の縦横の繋がりで成り立っている日本人の人間関係は、上官の命令は絶対的なものとなり、上に立つ者が命じればどんな残虐なこともしてしまう結果にもなる。

このように東西の心の構造には一長一短がある。しかし別の視点から見ると、日本的な和の精神(他人に対しても自然に対してもそうだが)は、もしそれが今も保たれていたとすれば、現在のような弱肉強食的な考えを是とする世の中にはなっていなかっただろうと思う。しかし結果は逆で、欧米的な対立の概念が世界に根を張ってしまったため、今のような敵対と抗争という世情を招いてしまったのだと思う。

私は日本人は欧米文化を崇拝したり、ただ猿まねのように真似るのではなく、日本人が本来持っていたはずの『調和の文化』をもう一度思い出し、再構築して、この貴重な文化を誇りを持って世界に発信すべきではないかと思っている。

欧米文化によって作られ、世界に蔓延した競争原理を基本とした現代社会は、今や破綻寸前にある。そしてその中で生きている人間たちも効率一辺倒の社会に、もはや窒息状態にある。本来の日本人や平和の民といわれるホピ族(ネイティブ・アメリカン)の考え方が世界に浸透し学ばれるようになれば、さまよえる人類にとって一筋の光明となるになるのではないだろうか。そしてそれを行動に移す人々が多くの国に現われてくれば、これは夢物語ではなく、実際に世界を変える力になるだろうと思う。


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