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投影

私たちには好きな人と嫌いな人がいる(全ての人がそうだとは限らないかも知れないが)。そのため『好き』の反対語は『嫌い』だと思っている人が多い。しかし心理学的に言うと『好き』の反対語は『無関心』であり『嫌い』の反対語も『無関心』となる。では『好き』と『嫌い』との関係はどうなっているのかというと、実は同じものの裏表なのであり、その意味内容は『関心がある』ということだ。

ファッションに関心のある人は、こういうスタイルが好き、ああいうスタイルは嫌いと堂々と言う。車に関心のある人は、この車が好き、あの車は嫌いと平然と言う。ファッションに興味のない人も世の中にいるが、そういう人には好きも嫌いもない。車に関心のない人も世の中はいるが、そういう人はどの車種が好きだとか嫌いだとかはない。このように好き嫌いは関心の度合いを示している。

では人間に対してはどうか。これも関心があるから好きになったり嫌いになったりする。しかし好きな人に関心があるのは理解できるだろうが、嫌いな人に関心があると言われても納得しにくいだろう。これについて少し説明しよう。

人はみな他人の中に自分を投影して見ている。それは『理解』というものを例にとれば分かりやすい。相手の言わんとすることは自分も以前に考えたことがあったり、または同じような経験をしたことがあってはじめて理解できる。まったく考えもせず似たような体験もしていなければ理解は成り立たない。我々は相手に自分重ね合わせて、すなわち自己を投影して共通するものを探し出そうとする。意識的であろうと無意識的であろうと、そうした作業を通して理解を得る。

同じように、知り合いができてとても気に入り、友達になったとすれば、それは自分の中の好きな面をその友達に投影し、それを好きになったのだと言える。しかしその時点では自分の影を見ているのだとは気付かない。何故なら頭では相手は自分とは独立した別の人格だと思っているからだ。大抵の場合、人は友達を理解できたから好きになったと思うようだが、それは誤解だ。

人間には本人でさえ解らない(あるいは認め難い)無意識の領域がある。誰もが自分のことさえ解らないのに、他人のことなど簡単に解るはずはない。冷静に考えればそんなことは誰でも気付くはずなのに、多くの場合単純に友人を理解できたから好きになったと思うってしまう。これは今も言ったように、自分の好きな面を投影し、それを見ているからであって、もともと自分の好きな面であれば、それを好きになるのは当然だと言えるだろう。

逆に初めて会った人を嫌いだと思うのは、自分の嫌いな面を相手に投影し、それを見たからだと言える。普通我々はその嫌いな面を、彼または彼女の固有の性質だと思ったりするが、実は単に自分の無意識の中に抑圧された嫌いな自分を相手に投影し、その影を見ているに過ぎない。このように我々は常に周りの人に自分を投影し、その基準で好きな人・嫌いな人、良い人・悪い人を独善的に決めている。

さて投影は親子の間でも起こる。しかしこの場合は親が子供に投影するのではなく、子が親の影を引き受ける場合が多い。ひとつ例を挙げよう。

私の以前住んでいた町に衆議院議員がいた。彼は人当たりも良く人望も厚かったので、選挙運動の期間が始まり自宅前で出陣をする時には、近所の人たちが党派を超えて集まり、応援したものだった。その彼に二人の息子がいた。兄は品行方正で勉強もでき、よき青年の手本といった感じだった。一方弟は勉強もせず、ワルの仲間と付き合い、しばしば問題を起こしていた。

この場合、世間の人がどう言うか大体予想はつくと思う。そう、『兄は父親に似たのに、どうして弟は父親に似なかったのだろう』だ。しかし深層心理の説明するところでは二人とも父親によく似ている。何故なら意識と無意識の力学のところで説明したように、父親はペルソナ(社会的仮面)としては良き議員、良き父、良き夫であり、これが強く意識される状況に置かれているため、逆に無意識にはこれと正反対のものが増大し溜っていたと言えるからだ。すなわち兄は父親の陽(意識)の方に似ることとなり、弟は陰(無意識)の方に似ることとなった。これは言い換えれば、兄は父の陽の方に自らを投影したのであり、弟は陰の方に自らを投影したのだと表現される。

イメージこのように我々はあらゆる事柄に対して常に投影を行なっている。自分が幸福な状態にあるときは世の中が明るく見えるだろうし、ひどく落ち込んでいるときは暗いものに映るだろう。自分が幸せを感じている時は幸せな人ばかりが目につき、落ち込んでいる人を見ても何故落ち込まなければならないのか不思議に思ったりする。逆に自分が落ち込んでいるときは不幸な人ばかりが目につき、幸せそうな人を見ても何故あんなに能天気でいられるのかと思ったりする。

こうしてみると、我々はもしかしたら単に自分自身を見ているに過ぎないのかも知れない、と思われてくる。理解などというものは我々が作り出した幻想であり、実際は他人に投影した自分の影を見ているだけなのかも知れない。確かに現代哲学も、近代哲学が目指した『目もくらむような客観性』などというものはあり得ないと論証した。すなわち人間が客観的な視点を持ち、客観的な判断ができるなどあり得ないということだ。それは物理学でいう一般相対性理論と同じく、動くものと動くものの相対的関係でしかなく、人間の場合は常に変化するものと変化するものの相対的判断でしかあり得ないということだ。

しかし理解が存在しないとしたら、それは深刻な問題のように思われるかも知れない。何故なら人が理解されたいと思うのは本能的な欲求のように見えるからだ。もし人間どうしに理解が成立しないと分かったら、世の中は大混乱を来すだろうか。さらに多くの人が発狂するだろうか。

私はそんなことにはならないと思う。恋人にふられた人、子供を亡くした人、身体の一部を失った人に、そうでない人が『あなたの気持はよく解る』などと言ったら逆に憤慨されるかも知れないからだ。こうした場合、人はじっと相手を見守ることしかできないだろう。しかしこのじっと見守ることが相手の支えになるのではないだろうか。それが思いやりであり、優しさであり、愛だと思う。これがあれば我々は理解などなくても支え合って生きていけるのだと思う。

我々は実際、どこからどう見ようと孤独な存在だ。『人は独りで生まれ独りで死んで行く』という言葉があるが、しかし実際は生まれてから死ぬまで、我々はずっと独りのままだ。それでも生きていけるのは、誰かが理解してくれるからではなく、思いやりをもってじっと見つめてくれる人がいるからだと思う。理解や誤解は実は大した問題ではないのだと思う。人間が互いにじっと見守る心を持てるかどうかが問題であり、昨今凶悪犯罪が増えているのは、そのような人が犯罪を犯した人の周りにいなかったことが原因なのではないかと思われてならない。犯罪は社会が創り出したものでって、社会を構成している全ての人に責任がある。世間で事件が起きた場合、それを犯罪者だけの責任にするのは、我々が自分を善人であると位置づけたいがために、責任を転嫁しているだけなのだと思う。

我々はあらゆることに自分を投影している。もしマスコミの報道につられて犯罪者を憎んでしまうとすれば、それは自らの影を憎んでいることになる。そのことに気付かずに犯罪者にだけ責任があると思ってしまっては、一向に社会は良くならないだろう。また『自分は悪くないのに誰々のせいで......』といった発想も、ますます社会を住みづらいものにしている元凶だろう。悪なるものを見たらまず自らに責任を感じ、他人(ひと)に対してはじっと見守る気持ちを持つことが、住みやすい社会を作っていく力となるのではないだろうか。


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