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文化

文化という言葉はとても幅が広いのでここでは芸術という意味で使いたい。文化全般について一言触れておくなら、多様性という意味では地球は大変豊かだと思う。しかしこの場合、良い悪い、質の高さ低さは問題にしていない。他の項でも話したように地球には様々な星からの移民があり、数多くの人種が住み着いて混血した経緯があると思われるので、多様な言語、神話、伝統、祭り、慣習などが存在する結果になったのだろう。これが多くの人を色々な固定概念で縛り付けている面もあるが、心を開いている人には貴重な学びの教材となり得るだろう。そうした両方の意味を含めて地球の文化は多様性豊かだと思う。

文化さて地上での芸術は多岐にわたっている。一般には音楽、絵画、文学、造形などに分けられるが、これらに属さないものもある。一方演劇や映画などは様々な分野の芸術が必要とされるので総合芸術と呼ばれることもある。では他の星の生命体はどのような芸術を持っているのだろうか。果たしてそれは我々の芸術という概念で捉えることのできるものなのだろうか。

ゼカリア・シッチンがシュメールの粘土板文字を読み解いて主張したニビル星のアヌンナキはどのような芸術を持っているのだろうか。彼の読み解いた内容は政治的なものが主で芸術的なものはほとんどない。彼が伝えているのはニビルでクーデターがあったこと、地球へ金を求めてやって来たこと、金鉱の労働力を得るために猿人と自分たちの遺伝子を混ぜ合わせて人間を造ったこと、地上で核攻撃を含む壮絶な覇権争いをしたことなどだ。シッチンが意識的に翻訳を避けているのでない限り、その内容に芸術に言及しているものはない。これはどういうことだろう。ただ、何も言及していないということは一つの事実を示唆しているのかも知れない。それはもしかしたら芸術など存在しない星も宇宙にはあるということなのかもしれない。

では如何なる芸術も持たずに科学技術を発達させるということはあり得るのだろうか。ジャン・ピエール・プチがウンモ星人からの手紙を読み解いた限りでは、芸術的なものが彼らの星には存在しない可能性があるという。彼らは自分の星の植物のイラストを手紙に描いて送って来ているが、それを見ると地球人のように感性を働かせて絵画的に仕上げようとした気配は全くないという。すなわちそれは植物図鑑と同じようなものなのだ。しかし地球にも実際に植物図鑑はあるわけだからこれは解らないわけではない。しかし問題はここからだ。彼らがイラストで曲線を描く時には先にいくつかの点を施し、それに定規を当てて繋げているというのだ。これは我々に言わせれば、小学生以下の稚拙な描き方ということになる。

さらにプチによれば、ウンモ星人ユミットにはユーモアのセンスが全くないという。ユーモアを発するのも解するのも、高度な知的活動の証だと地球では解釈されている。しかしもしそうしたものがないとしたら、彼らの生活は一体どんなどんなふうなものなのだろう。ある意味ぞっとするものを感じさせられる。それだけではない。ユミット自身が言っていることだが、自分たちには造形芸術も音楽もなく、芸術的建築などという概念もなく、それらの言葉は死語に等しいというのだ。こうしたことが事実だとすればもはや我々の想像を超えているが、こんなことを平気で伝えてきていること自体が不気味としか言いようがない。

芸術とは意識と無意識の葛藤の表現であり、無意識を意識化する過程であると言えるかも知れない。これはプチの意見でもある。もし芸術の存在を必要とせず生きていけるのだとしたら、彼らの精神には無意識がない可能性がある。全てが合理的論理的に解釈され、合理的論理的に行動に移される。彼らはそれぞれ脳の松果体を通して集合無意識にアクセスできるらしいが、果たして彼らの集合無意識とはどんなものなのだろう。深層心理学的には集合無意識は個人の無意識の集合体と解釈できるので、我々がもし彼らの集合無意識を覗くことができたとすれば、彼らの合理性のみによって作られた凹凸(おうとつ)のない平坦な、味もそっけもない世界を見ることになるかも知れない。

先にも話したが、彼らの社会では個人よりも全体が優先されるので、個人の発想は特別のものではなく、全体に対するアンチテーゼにはなり得ないのではないかと思う。この様子を我々が描くとすれば、味気のない集合無意識に操られたまま動く一種のロボットの集団のようなものになるのではないだろうか。我々が彼らと話をしたり感情を分かち合ったりするのは不可能なことに思われる。プチなどは、彼らと対話するくらいなら蟻塚とでも議論した方がましではないか、とさえ言っている。

覇権争いに明け暮れるアヌンナキはたとえ芸術的なものを持っていなくても、その攻撃性や支配欲は彼らの遺伝子を受け継いだせいか、我々にも理解できないことはない。しかしユミットにはユーモアのセンスや芸術性がないだけでなく、ものの捉え方そのものが違うようで、我々の理解を超えているように思う。にもかかわらず両者は我々よりも進んだ科学技術を持っている。これが意味するのは、科学というものは愛や利他の精神など必要とせず、それらとは関係なく進歩し得るものだということではないだろうか。

しかし宇宙に存在するのはこのような非芸術的な星ばかりではないようだ。プレアデイス=プレヤール人の言うところでは、地球の歌ほどひどいものはないそうだ。地球人の歌は音楽ではなく、ただ怒鳴り叫んでいるだけだという。彼らにとって音楽は芸術のいろいろな分野の中でも特に重要で、精神の高揚と平衡をもたらす上で大変価値の高いものだという。そのため彼らは他の知的生命と比べても非常に発達していると自認している。したがって彼らの地球の音楽対する感想はかなり手厳しいものとなる。彼らに言わせれば地球人の間で音楽と称されているものは音楽とは何の関係もない、作られた騒音に過ぎないとさえ言っている。そのような音楽を作る者も聴く者も、その精神と思考および人生観が破壊されていて、そうした人たちは人生に否定的で、集団的に破壊への道を辿るだろうという。

文化このため、もしそうした地球人がプレアデイス=プレヤール人の音楽を聴いたらなら、あまりの美しさにうっとりし、長時間は耐えられないだろうという。何故なら地球人は完璧な調和の広がりの中にいると、満たし得ない渇望に陥り、一種の中毒症状を起こすからだそうだ。このためビリー・マイヤーは彼らの星を訪れた際、その音楽を録音して持ち帰ることが許されなかったと言っている。

プレアデイス=プレヤール人の間では芸術家は確かに尊敬されてはいるが、地球の場合のように褒めそやされたり崇拝の的となったりということはないという。また芸術家自身も自分を特別な人間だとは思わず、一般の人と何ら変わらない生活をしているという。

私の考えを言えば、これには通貨がないことが大きく関わっていると思う。地球上ではあらゆるものの価値がお金で置き換えられている。したがって高額なものほど価値が高いという、とんでもない常識が出来上がってしまっている。これが人間関係をゆがめ、社会をゆがめる原因にもなっている。もし通貨のない社会を構築できたなら、我々は利害や羨望を抜きに、本当に良いものを良いと判断する能力を養おうとするのではないだろうか。

アストラル界に次元上昇した金星では様相がかなり違う。アストラル界では想念がそのまま物質化するため、信じがたい美しい造形で溢れているという。たとえば家は各人の好みによりドーム型や円柱型や球形など様々なものがあり、広い敷地には色々な星の多様な草花や木々が植えられ、滝や小川や噴水がある。家の中はたとえば、見た目は大理石だが感触は羽毛のように柔らかい床、虹色の空が見えるよう透き通った天蓋、座ると音楽が奏でられる椅子、様々な装飾が施された家具など、それら一つひとつが芸術作品となっているという。

チュートニアという都市には人は住み着いていないが様々な色と形の公共施設があり、多くの人が訪れて来るという。一般に個人の住宅は二階建て程度だが、都市には高層建築があり、塔型、ドーム型、風船型、ピラミッド型など異国風の建造物が集まっている。それらは学びのための学院や博物館、コンサート・ホールなどで、パステルカラーのものが多いが、中には様々な宝玉をちりばめた象眼模様のものもある。しかもアストラル界では全ての存在が輝きを放っているので、何もかもがカラフルで鮮やかな彩りに満ちているという。

それらの建物は特に優れた芸術家がデザインしたものだが、しかし各家庭の家や庭もそれぞれに個性があって美しく、金星人は皆が芸術に勤しんでいるという。人々は想念を磨きあげ、例えば一脚の椅子を造り出すにしても、その細部まで明確にイメージし、素材や感触や彩りなどを決め、どういう機能を持たせるかも心の中で描き切る。するとそれが実体化するのだという。彼らは家、庭、家具、衣装などを芸術作品として製作し、家の上空の色合いまでも想念によって造り出すという。雲や雨や風までも好みによって造り出し、その風情を楽しむ。時には想念によるのではなく、製作の過程を楽しむために自らの手作業によって造ることもあるが、それは人々が三次元にいた頃の郷愁に魅かれるからだという。

オムネク・オネクはアストラル界の金星の美しさはどのような表現を用いても地球の言葉では伝えられないと言っている。私は彼女の描写を読んでいて仏典の阿弥陀経を思い出した。阿弥陀経とは浄土三部経の一つで、極楽浄土の絢爛たる美しさを描いたものだ。長い間私はこの経典は信徒を増やすための飴の役割を果たす夢物語か、でなければ悲惨な現実に喘ぐ人々の狂的希求によって造り出された世界だろうと思ってきた。しかし彼女の話す金星の様子は阿弥陀経の内容とそっくりというか、勝るとも劣らないものだった。オムネク・オネクが阿弥陀経を読んでいたかどうかは分からないが、私にはそれは大きな驚きだった。もしかしたら阿弥陀経は仏陀が幽体離脱して見に行った、アストラル界の金星の様子を描いたものではないかとさえ思われたのだ。いずれにせよアストラル界の金星では芸術活動が人々生活の中心になっているようだ。

以上見てきたように、広い宇宙には芸術がまったく存在しないような星もあれば、すべてが芸術であるような星もあるらしい。非常に政治的で覇権争いに明け暮れている星では芸術は盛んではないし、合理性のみが支配し全く芸術など存在しない星もあり、またその感覚が我々の理解を超えている知的生命体の世界もあるようだ。

地球人としての私の判断だが、科学技術は別として、精神的な面に関して言えば、高度な精神性を持っている星ほど芸術は盛んであり、そうでない星は芸術は盛んでないようだ。『ひふみ神示』にも書かれているが、我々が高い次元に飛躍する道は、この地上では芸術くらいしかないそうだ。私はこの言葉はそれなりの真実を含んでいると思っている。


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