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二元論的世界と支配

我々は二元論が支配的な世界に生きている。陽と陰、プラスとマイナス、男と女、生と死、善と悪など、この世は二元論的概念で溢れている。我々はその中で育ってきたので、大人になるまでにはそうした概念が骨身に浸み込んでいる。そのため生活のあらゆる場面で二元論的な考えを用いる。身近な例を挙げれば、富と貧困、勝ちと負け、明晰と愚鈍、老いと若さ、美しさと醜さ、満腹と空腹、暑いと寒い、難しいと易しい、等々いくらでもある。

では現実の中に見られるこのような対立的な様相は永久に固定された、変わりようのないものなのだろうか。それとも我々のものの捉え方がこのように物事を対立的に見せているのだろうか。そもそも二元論以外に現実を捉える概念はないのだろうか。まずは二元論の歴史をざっと見ることから始めよう。

二元論的世界と支配二元論は長い歴史を持つ。宗教の分野ではその発祥は3000年前のゾロアスター教に遡ることができる。ゾロアスター教には善なるものが人格化された善神と、悪なるものが人格化された悪神が登場する。この考えはグノーシス主義やマニ教などに受け継がれていった。

近代西洋の精神哲学では物質(肉体)と心(精神)に分けた心身二元論がある。有名なのはデカルトの実体二元論で、彼は法則に支配された機械論的な物質と、自由な思惟実体とを対比させた。この流れから現代西洋の物理的な物質と、意識的体験としてのクオリアの概念となっていった。しかしクオリアといっても日本語で言えば「感じ」ということであり、これを脳科学や認知科学の手法を用いて電気信号や化学反応に還元しようとするのが現代科学であり、私に言わせればこれも物質至上主義的な方法論だと思う。

中国には古くから陰陽思想があり、これに対応するものとして、光と影、昼と夜、剛と柔、男と女などがある。しかしながらこれは西洋の宗教や哲学に見られるような対立的概念としての二元論ではない。陰陽思想ではこれら対となったものは調和するもの、あるいは調和すべきものとして捉えられている。

仏教哲学では究極の目標である悟りの境地に至るには、以上に述べた全ての二元論的な概念を乗り越えなければならないと説かれている。それは物事を対立的に捉えるのは平面的な把握であり、こうした概念を用いていては何事も究極の解決には至らないと考えるからだ。仏教思想では物事を立体的に捉え、この対立的な世界を鳥瞰的に見つめ、一段高い次元で解決に至らしめようとするのであり、そのための道を説いて涅槃すなわち悟りに至らせようとしている。

私が人類の持つ様々な宗教や哲学などの考えを見る限り、唯一この仏教の教えの中に解決の方向が示されているように思う。近代西洋哲学にも論理としては弁証法といって、一段次元を上げて解決を見るという方法論もあるにはある。これはヘーゲルが考え出し、マルクスが史的唯物論に適用し、レーニンによってロシア革命という形で実践に移されたものだ。しかし歴史を見れば分かるように史的弁証法がマルクスやエンゲルスの思惑どおり機能しなかったのは明らかだ。そもそもヘーゲルの弁証法は仏教思想に見るような内的洞察から生まれたものではない。彼は認識や思考の経緯を解析し、結果的にそうした過程を経て判断に至ると言ったまでなのだ。

さて現在の世界に目を転じよう。

今日の世界を見る限り、どの国においても親が子供に教える最初の社会的判断基準は善悪だろう。子供たちは判断能力を身につける前の無垢な心に、いきなり善悪という基準を刷り込まれる。そして学校へ行くと試験の結果によって成績付けが行なわれ、競争心という破壊的な感情が埋め込まれる。そしてこれによって差別化という不条理な世界へ投げ込まれる。学校という世界では成績が絶対的な基準となっているので、優等生は神格化され、劣等性は奴隷のような屈辱を味わう。

子供たちが学校を卒業して社会に出るまでに、善悪と競争心、優越感または劣等感が完璧なまでに埋め込まれることになる。そして実際に社会へ出ると、それらを実践の中で強化しなければならない状況に置かれる。人々は会社や団体や様々な組織の一つまたは複数に身を置き、その中で互いに競い合うことを余儀なくされる。そして少数の勝ち組だけが多くの人の上に立つ権利に与る。現在我々が見ている世の中はこのようにして成り立っていると思われる。

一方、我々の多くは他人(ひと)に対する親切や優しさを教え込まれるが、こうした社会状況の中で真に思いやりを持ち、他人のために尽くそうとするのは至難の業に違いない。とはいえこの世は鬼ばかりの修羅場ではなく、おおむね友人・知人の間で心遣いを実践してきたように思う。

しかし時代の変化につれ、現実の中にどっぷり浸かり、目先のことしか見ようとせず、漠然とした矛盾は感じるものの、自分は一体何をしているのかと自問することのほとんどない人が増えているようにも思う。こうした状況を憂うるかのように、知ったかぶりの人たちは他人に優しくし、世の中に愛と平和を実現しなければならないと言ったりするが、具体的に善悪と勝ち負けの基準が支配するするこの世の中で、どうやってそれを実現するかについては言及していない。

私が思うには、愛や優しさというものは世の中がどんなに間違っていようと、自分がどんな逆境に置かれていようと、決してへこたれない強い信念を持っていなければ実行できるもではないと思う。単に自分の味方だから許す、好きだから優しくする、慕ってくれるから何かしてやる、などというのは単に自分の都合による行動であり、自分を可愛いがっているに過ぎない。こうしたことばかりを多くの人がしていては、世の中に愛や平和が実現するはずはないと思う。

一般大衆を支配する者たちはマスメディアを使ってまやかしの愛と優しさを蔓延させ、無数のお人よしを作り出している可能性がある。テレビに出てくる学者やコメンテーターや何々の専門家という人たちも善人の代表のように、あるいは真理を語る聖人然として人の怒りや暴力を諌めるが、かといってこの世で愛と平和を実現するにはどうしたらいいかについては何の答も示さない。そんな方法を彼らは知らないのだ。

また支配者たちは宗教を使って、これもまたまやかしの愛と優しさを吹き込み、宗派によってはさらに罪の意識をたたき込んで恐怖心を煽り、教団の指示のままに何でも言うことを聞くお人よしを作り出しているように思われる。しかも次々と違う宗教・宗派をはびこらせて信者たちが互いに批判し合い、憎しみ合うよう仕組んでいるようにも見える。それは世界の大多数の人々が一致団結し、支配者を批判するのを防ぐためだと思うのだが、それでも能天気な信者は、自分たちの宗教が唯一の世界宗教となれば、愛と平和が実現するに違いないと信じて疑わないようだ。

二元論的世界と支配この世の中の下層世界では良いか悪いか、正しいか間違っているかの基準によって判断がなされている。しかし政治の世界やさらに政治を陰で操っている人々にこのような基準はない。彼らにとっては大衆に気付かれずに支配することが最優先課題なので、自分たちの存在を知られたり批判されたりということにならない限りどんなことでもする。一般大衆は陰の支配者が愛や優しさなど全く意に介せず、善悪の基準さえ持っていないことは想像もつかないので、こうした話が時々世の中に出ても信じようとしない。逆にこうした見解を述べる人に憎悪の感情を向け、あってはならないことを述べるという理由で、このような人に得意の悪人のレッテルを貼る。このようにして大衆は騙され続け今日に至っている。

さて陰の支配者はネガテイブな意味で二元論を超越している。彼らはもともと善悪に大した意味などないのを知っているので、悪に恐怖心を抱いたり善に喜びを感じたりしない。生死のからくり、すなわち死後の世界についても十分知っているので、人がどれだけ死のうとこだわらない。一般の人々には理解しがたいことだが、彼らの究極の目的は人類の完全な支配、しかも永続的な支配だ。そのためには彼らは二元論的な価値基準など意に介せず何でもする。

では我々はこうした彼らのやり方にどう対処すればいいのだろう。我々には二元論が骨身に浸み込んでいるので、なかなか超越的・鳥瞰的に物事を見つめることが出来ない。すなわち善悪について言えば、それを立体的に捉えることができない。そうした視点を持つことによって初めて善悪を乗り越える道が見えてくると思われるのだが、果たして我々にはそのような手段が与えられているのだろうか。

ではこの点についてもう少し掘り下げてみよう。


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