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善悪のからくり

これまで二元論について全般的な話をしてきた。一見二元論には様々な表れ方があるように見えるが、その根本にある概念は善悪だと思う。たとえば長短、明暗という言葉も、長いや明るいは漠然と良い意味になるし、短いや暗いは漠然と悪い意味になる。

もう一度現実に目を向ければ、いかに世の中が善悪の概念で溢れているかが分かる。テレビの長寿番組『水戸黄門』、毎年のように映画化される『赤穂浪士』、世界的なヒット作品『スター・ウオーズ』などに見られる善と悪の勢力のせめぎ合いは代表的なものだ。しかし実際にはこんなものに止まらない。『アンパンマン』、『ポケット・モンスター』、『ドラゴンボール』などのアニメばかりでなく、日常的なテレビ・ドラマや小説、映画や舞台劇など殆どの作品に善悪のせめぎ合いが描かれている。まるで善悪がなければドラマは成り立たないかのようだ。

日常会話の内容もこうした作られた作品に引けを取らない。良い人、悪い人は他人を判断する基本的な判断基準となっているし、世の中の出来事もほとんど良い悪いで判断されている。他人の行動、態度、言葉に関しても、自分の行動、態度、言葉に関しても常時善悪の基準が持ち込まれる。人間関係は互いが判断する善悪の複雑な絡み合いで身動きが取れないような状況を呈し、全ての人を悩ましている。ではこれだけ我々の生活の隅々まで根付いた善悪というものは一体どのような構造を持ち、どのように成り立っているのだろうか。

善悪のからくりまず最初に浮かぶのは善悪の基準というのは絶対的なものかという疑問だ。我々が用いる善悪の基準はどこにその由来があるのだろう。親から子へと伝えられたその基準は、おおむね宗教にその起源を求めることができる。日本の場合、それに相当するのは仏教ということになるだろう。一般的に仏教における善悪観は勧善懲悪だ。これは善を勧め悪を懲らしめるという意味で、『水戸黄門』などはその典型的な例と言えるだろう。しかし実は最初期の仏教において、すでに「善悪を超越する」という考え方があったことを知る人はあまりいない。その意味するところは善にも悪にも捉われず、善悪の対立を超えるという考えだ。仏教にはこのように、「勧善懲悪」と「善悪の超越」という、歴史的に二つの考え方がある。

ここで少し私の考えを述べることにしよう。
善悪には政治的な側面からの判断と、精神的な側面からの判断があると思われる。政治的な側面から見ると、為政者にとって支配に都合のよい言動が善であり、支配に都合のわるい言動が悪ということになる。これは歴史上、支配をめぐる戦いに負けた方が必ず犯罪者にされてきたことからも分かる。戦う者たちはどちらも正義を掲げるが、正義に根拠などあるはずはないので、常に勝者が正義となってきた。

一方、精神的な側面から見れば、善や悪は単独では成り立たない。すなわち悪があるから善は成り立つのであって、善だけの世界に善という概念は成り立たず、悪だけの世界にも悪は成り立たない。したがって自分は善人だと思う人は、悪人がいてくれるから善人でいられるということを知ねばならない。『水戸黄門』の番組に黄門様側の人たちしか登場せず悪人が登場しなければ、善人の代表としての黄門様の立場は成立しなくなるだろう。

このことから分かるのは、善悪はあくまで相対的なものであり、互いに依存し合う関係にあるということだ。これを政治や宗教に適用して言えば、自分たちの政党が政権を取れば良い社会ができる、あるいは自分たちの宗教が世界宗教となれば平和と幸福が訪れるといった考えは、こうした相対性に考えが及ばない教条主義的判断であり、根拠のない幻想ということになる。

宗派や政党に限らず組織というものは、外部からの批判が激しければ激しいほど内部での結束が強固になるという力学を持っている。例えば「エホバの証人」や「創価学会」の信者たちは自分たちこそ真理の代弁者であり善を代表するものであって、外部の批判勢力は真理を知らない愚か者であり悪そのものであるかのごとく思っていて、それが彼らを強固に結びつける力となっている。しかしもし彼らの宗教が世界を席巻したとすれば、外部的な圧力は消え、自分たちが善である根拠を失ってしまう。しかも外圧がない状況では内部的結束は失われ、信者たちはバラバラになってゆく。ではその後どうなるか。彼らはそれでも善を成立させておかねば落ち着けないので、信者同士の間で比較や差別化をしなければならなくなる。すなわち彼らは徒党を組んで分派を作り、以前他の宗教を悪として批判したように、互いに他の分派を批判し合うことになるだろう。そして以前と変わらない善悪を基準とした社会を築き上げるのだ。

宗派や政党がこのような経過をたどると推論できれば、善を主張することがいかに空しいかが解る。これは宗教や政党に限らず、すべての組織について言うことができる。知り合いに紹介されて入った会社、友人に誘われて入った社会的な活動団体、たまたま入った学校、親兄弟に勧められて入った「○○クラブ」や「○○の会」、スポーツ・チームの応援団、等々。例を挙げれば限がないが、多くの人はよく調べることなくそうした組織に入り、しかも一旦入ってしまうとその組織を評価し擁護する発言をするようになる。これは不思議なことだがよく見られる現象だ。このように我々は客観的な視点を欠いたまま組織に入る場合が多い。そして次には自分の入った組織に味方し、他への非難を平気で行なうようになる。この根拠のない言動はどこから来るのだろう。その心的構造を説明すれば、何かに依存することによって不安から逃れようとする心理が働いているためだと思われる。

さて善と悪が一組の対としてしか存在できないのであれば、善がある限り悪はあり、悪がある限り善はあるということになって、この世は決して善だけの世界にはならないことになる。それは我々が善悪にこだわっている限りその通りだろう。しかし善悪という平面的な捉え方から一歩飛躍して、両者を高い次元から見つめることができれば話は違ってくる。

一段高いところから見つめれば、悪を憎むその心が悪であって、視点の取り方によってはどちらも悪なのだ。ここに大きな落とし穴がある。自分は善人だと思っている人は『水戸黄門』を見て登場人物の悪人を憎々しく思う。しかし一段高い視点で見れば、憎むその心がすでに悪と変わらなくなっているのだが、多くの視聴者はそのことに気付かないようだ。

別の説明をしよう。北海道の人は秋から冬に変わる季節、「寒くなりましたね」と挨拶する。この時の気温が大体16度だという。そして冬から春に変わる季節、「暖かくなりましたねと挨拶するが、この時の気温が大体6度くらいだそうだ。寒く感じるのは16度で、温かく感じるのが6度というのはどう見てもおかしいのだが、それはこれまで慣れ親しんできた気温と較べているから出てくる言葉なのだろう。善悪もこのように相対的なものなのだ。自分を基準にしてもっとひどいことをする人は悪人に見えるが、一方自分は大して悪い人間だとは思っていなくても、もっと高潔な人から見れば悪人に見えるだろう。すなわち平面的に見る限り、どこに基準を置くかによって善にもなり悪にもなるということだ。

では具体的に古代の仏教でいうように善悪を超越するにはどうすればいいのだろう。一つはもちろん鳥瞰的な視点を持つことだろう。これは空を舞う鳥が下界を見下ろすように双方を、あるいは全体を見つめるという意味だ。しかしこれだけで善悪を乗り越えることは難しい。もう一つ必要なのは時間的経過の中で見つめる視点だ。これは10年20年を指すこともあるし、何回もの転生を含んだ時間経過を指すこともある。何を言いたいかというと因果応報、すなわちカルマだ。

ある言動によって他人を傷つけた場合、またはある言動によって他人のために役立った場合、この我々の三次元ではすぐにその報いは現実とならない。それは三次元という世界が時間の枠にはめられているからだ。これを理解するにはもっと高い次元を考えるとよい。たとえば四次元や五次元(またはアストラル界)で金の鯱鉾(しゃちほこ)が欲しいと思った場合、それを明確にイメージすることによって現実化するという。すなわち現れるという。それは想念が全てに優先し、全てを操るからだ。下層のアストラル界では、憎しみや怒りや執着に満ちた者はそうした想念によって世界を作り出すので、我々から見ると地獄のような世界にいるように見えるだろう。(これらの現象は時間の枠にはめられていないために起こるのであって、そこに住む者にとっては変化が時間のような役割を果たしているが、それにしても正しくは時間ではないので、三次元における時間経過に当てはめることはできない。)

もしこの三次元で想念がすぐ現実化するとしたら様々な不都合が起きるだろう。誰かがふざけて全国で一斉に火事が起こればいいと思ったりすると、本当に起こる。奇怪な怪物が現われて人間を喰ってしまう事件が起きればいいと思えば実際にそうしたことが起こる。巨額の金が欲しいと思うと本当に現れる。そんなことを皆が思ったら超インフレが起きて金はただの紙切れになるだろう。では誰かが世界中の人間が死ねばいいと思うと一体どうなるか......。

三次元はこうした邪(よこしま)な人間が住む世界でもあり、そうした人々は想念の力も宇宙の本質も霊的エネルギーの法則も解らないので何を起こすかわからない。何十億という人間の中にはとんでもないことを考える者もいるはずだから、想念が即座に現実化するとしたら人類の生存は三日と持たないだろう。したがって三次元では人々を時間という枠の中にはめておく必要があったのではないだろうか。

しかし宇宙の本質自体は基本的に変わらないので、想念は時間をずらして、すなわち時間をかけて実現してゆくことになる。何十年も一つのことを思って追い求め、ついに実現したという話はよく聞く。しかしそのようにして物事を成し遂げたことのない人は、そうした話を聞いても本心から信じられない。また人によってはそうした事柄を努力や運や才能などの要素に分解して、たまたま実現したのだと結論付ける。彼らは想念の持つエネルギーがいかに強力か理解できないため、長い間の希求と努力が必ず何らかの形で実を結ぶことが信じられない。

高い次元の生命体から見れば時間や空間が固定されているのは特殊な状態なのだという。物事が辿る世界線(道筋)はいくらでもあるのに、一つの世界線だけが選ばれてゆくのが三次元であり、実に狭い道を歩んでいることになる。したがって選択も二者択一的で二元論的であり、物事の判断も善悪、正邪、優劣など平面的な捉え方になる。

もし空の上から大地を見下ろすように我々の二元論的世界を見ることができれば、善人も何かにこだわった悪人であり、悪人も何かから解放された善人であったりして、それら双方とも絶対的なものではないことに気付くだろう。黄門様も悪を挫くことにこだわった一種の偏執狂であり、悪人がいてくれるせいで自分が善人でいられることに気付いていない愚か者と見ることもできる。両方を客観的に捉えられないのは物事に拘泥(こうでい)している証拠で、そうした人は賢者とは言えないだろう。

『水戸黄門』にもう一つ決定的に欠けているのは、悪を生み出す社会の歪みを見る視点を欠いていることだ。我々がこの三次元で悪という場合、実はそれは生まれるべくして生まれている。犯罪者は孤独に打ちひしがれていたり、家族の血の通った愛情を受けていなかったりと、何らかの理由があって社会に復讐する気持ちから犯罪をおこす。したがって社会構造そのものに原因があり、その社会を構成している全ての人間に責任があることになる。いくら犯罪者を捕らえても、そうした歪んだ社会を変えなければ次々と犯罪は生まれ、根本的な解決にはならない。

また『水戸黄門』には誤った前提がある。賄賂を受け取る人たちが目先の損得にこだわり大局を見ていないのは解るが、彼らが自分だけ金儲けをして、それで幸せになれるかのような幻想を視聴者に与えている点だ。もちろんドラマでは黄門様が天誅(てんちゅう)を下すので実現はしないが、もし黄門様がいなければ彼らは私腹を肥やして幸せになれるかのような前提に立っている。

実際は黄門様が罰しなくても彼らは幸せにはなれないのだが、このドラマではまるで黄門様に罰せられなければ贅沢と至福の中で生きていけるかのような描き方をしている。真実を伝えるつもりなら、そうした不正な金では一時的には幸福を味わうかも知れないが(それも歪んだ幸福感だが)、最終的には幸福になれない事実を表現しなければならないだろう。だがそうしたもっとも重要なメッセージが欠けている。歴史を見れば他の人々の犠牲や不幸によって得られたものなど、いかにもろく短命なものであるかが理解できるだろう。たとえ運良くそのまま一生を終えたとしても、転生の中でそのカルマの報いを支払わなければならなくなるだろう。しかし視聴者はそこまで考えることはないようで、出てくる悪人を憎み、憎むことによって自分も悪なる存在になってしまっている。

最後にもう一つ問題点を言えば、視聴者は黄門様が悪を裁くことで胸がすっきりし、警察や裁判官よりも黄門様みたいな人がこの世にいてくれればいいのにといった、とんでもない幻想に浸るようになることだ。こうした幻想を抱くことで現実に起こる事件に関して深く考えることはなくなり、具体的にどう対処したらいいのかという面倒な問題から逃避してしまう結果になる。このような影響を与えている『水戸黄門』は結果的に社会の悪を是認する働きをしていることになり、ひとつの悪だと言えるのではないだろうか。

善悪のからくり不思議なことに私はこれまで『自分は悪人だ』と本当に思っている人に出会ったことがない。世の中には至る所に悪がある、ということになっている。にもかかわらず一人も悪人だと芯から思っている人に出会ったことがないのはどういうわけだろう。だが考えてみれば二元論的なこの世では、視点を変えることでどんな人も悪人にもなり善人にもなり得るのだから、実は何も不思議ではないのかも知れない。おそらくこの真相は、本人は自分の善的な面は認め、悪的な面からは目を背けているということに過ぎないのだろう。

さて、では善悪を超越するには具体的にどうしたらいいのだろう。第一歩は人は誰しも善悪両面を持ち、ある時は善的な面を現わすが、ある時は悪的な面を現わすということを認めることにあると思う。この場合も善悪を絶対的なものとは捉えず、人間が作り出した便宜的な基準であり、じつは実態のないものだという認識を持たなければならない。

次の段階は悪を憎む心を克服することだと思う。悪を憎むことによって悪に拘泥するのだから、それによって自分も悪の仲間入りをすることになる。これは主に他と自分を比較するところから生まれてくる。それは自分がしないような悪事を見ると憎悪が湧いてくるということだろうが、しかしその悪事をする人と同じ環境、同じ状況に置かれたら、自分もしないという保証はないのではないだろうか。そういう視点を持つことが必要だと思う。善人面しても悪人面しても実は大して意味はないのだと思う。例えば背が高い低いと気にする人がいるが、飛行機で上空から見下ろせば瑣末なことでしかない。鳥瞰するとはそういうことなのだろう。

さらに次の段階では、善も悪も魂の長い進化の道のりにあっては一つの経験に過ぎないという認識を持つことだと思う。物を盗むのはこの世では立派な犯罪とされるが、しかし何十回、何百回と生まれ変わりながら一度も盗みをしたことがなければ、盗みがどんなものか理解できないし、その分、魂の可能性の幅は広がらないままだろう。これはべつに犯罪を勧めているわけではない。小説ではあるが、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンは一切れのパンを盗んだために19年間監獄につながれ、その後様々な経験をして人間的成長を果たしてゆくが、そのように人はあらゆることを経験して大きな視野と寛容な心を持てるようになるのも事実だだろうと思う。

宇宙は夥しい生命を生み、それらに様々な経験を強いているかのように私には見える。もし我々が宇宙の本質を宿し、宇宙そのものの意思を代行しているのだとすれば、宇宙は自らの可能性を、我々生きとし生けるものを通して探らせようとしているのではないだろうか。


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