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波動と次元

物質は全て波動でできている可能性がある。仏教においても古代ギリシャ哲学においも原物質の探求は行なわれてきたが、仮説はいくつか作られたものの、その正体は突き止められなかった。現代物理学においても、なお究極の姿はつかめていない。一時「超ひも理論」が注目を浴びたが、最小単位の構成物が紐であるという仮説は証明されるに至らなかった。しかし電子や光は粒子でありながら波動でもあるという相矛盾する性質を持っていることは分かっているので、波動は究極の物質の姿を解く鍵になると思われる。現在、量子力学の分野の波動力学では全ての物質は波としての性質を併せ持つと言われている。

波動と次元問題はものによって周波数が大きく異なるということだ。電波などは周波数が低い(言い換えれば波長が長い)が、周波数が高ければ(すなわち波長が短ければ)光となる。光の中でも赤は周波数が低く、紫は周波数が高い。さらに高くなると紫外線になり、もっと高くなるとX線などになる。これらを大雑把に周波数の低いものから高いものへと並べると、
電波→マイクロ波→テラヘルツ波→赤外線→可視光線→紫外線→X線→ガンマ線
となる。しかし現在人類が知っているのはここまでで、それ以上の高い周波数がどのようなものか想像さえできないでいる。

私の考えを言えば、ガンマ線を遥かに超える周波数の波動は三次元に存在できず、次元を超えてしまうのではないかと思っている。具体的に言うと、そうした周波数を持つ物体は透明になり、さらに周波数が上がると見えなくなってしまう。これを一つの例で説明しよう。私が顔の前に掌をかざすと相手は私の顔が見えない。しかし私がその掌を左右に速く振ると、手が透けて私の顔が見えるだろう。それは手が半透明になるからだ。もしもっと速く動かすことができれば、回転する扇風機の羽やプロペラのようにほとんど見えなくなってしまうだろう。

UFOや異星人の目撃談には半透明になったとか、突然消えてしまったとかいう話が多い。それはその機体や人体を構成している原子の周波数が上がったためと思われる。現代物理学は原子や分子の波動の周波数は固有のもので、光や熱などの形でエネルギーを与えると電磁放射を起こすと言っている。これは放射を行なうことによって物質は一定の周波数を維持するという意味だ。我々はまだ放射を起こさずに周波数を上げる術を知らないが、もしそうした技術を手に入れることができれば、物体を半透明や透明にすることが可能となるのではないか。

またそうした技術を手に入れたなら、当然次元について具体的に考えざるを得なくなり、今の物理学の十次元理論が言うように、時間の一次元と空間の三次元だけを残して他の六次元は畳まれてしまったなどという訳の分からない説明は通用しなくなるだろう。

金星のアストラル界から波動を下げて三次元の地球にやって来たというオムネク・オネクによれば、宇宙は七つの次元によって成り立っているという。周波数の低い方から高い方に順に並べると次のようになる。
①物質界、②アストラル界、③コーザル界、④メンタル界、⑤エーテル界、⑥魂の世界、⑦神界
これらは別々の場所にあるのではなく我々の次元と併存しているのだという。もちろん四次元以上では我々が考える場所という概念は通用しなくなるのだが。ただ次元を超えて行き来するのは上層階の人たちにも容易ではないようだ。したがって彼らは個人的に波動を上げたり下げたりするのは大変なので、次元の門と呼ばれるものを作って、それを利用して行き来しているという。

オムネク・オネクが描くアストラル界は仏教の浄土三部経の一つ、『阿弥陀経』に書かれてある世界と驚くほどよく似ており、それ以上に絢爛たる世界だ。彼女によれば、霊体や、たまには肉体を持ってアストラル界を訪れた者は、あまりの素晴らしさにそこが天国だと信じてしまうそうだが、実際にはまだまだ上の世界があるのだという。そう、先ほど示したようにアストラル界はまだ下から二番目の世界に過ぎないのだ。

では我々が波動を上げて高い次元の存在になるにはどうしたらいいのだろう。方法はないわけではないが、ある人にとっては容易だが、ある人にとっては容易ではないだろう。何故ならそうなるためにはいくつかの関門があるからだ。古代の我々の祖先が宇宙の声を聞き、アカシック・レコードと繋がり、意識(魂)が肉体から離れて高次元の人々と会うことができた能力は遠い昔に封印されてしまったと言われている。まずはその封印を解かなければならないだろう。

我々は本来聞こえていたはずの魂の声を閉じ込めているらしいが、この心の内奥に潜む魂と呼ばれているものは様々な次元と通じていて、ハイヤー・セルフや指導霊や銀河の声を我々に届ける役割を果たしていると言われる。まずはこの魂の扉を開かなければならない。しかしその鍵はどこにあるのだろう。

仏陀は慈悲を説き、イエスは愛を説いたが、それらは魂の扉を開く直接の鍵ではないと私は思っている。彼らはその鍵を得るための道を示したにすぎない。本来、慈悲や愛は頭で考えて解るものではない。理屈としては分かる人もいるが、それでは本当に理解したことになはならないだろう。実はこれは単なる優しさでもないし、単なる気持の表明でもない。すなわち相手が望むことをしてあげることでもないし、好きだ・愛していると宣言することでもない。強い意志をもって、相手が望むと望まざるにかかわらずその人のために行動することであり、しかもそれは押し付けになってはならず、自分が良いことをしていると自惚れてもならない。また嫌われたから、侮辱されたからといって諦めるようでは慈悲や愛は実践できない。しかもあらゆる人に対して持続的に行動できなければならない。

以下は個人的な感想だが、私の体験を基に述べてみよう。上のような実践を続けていると不思議なことに自分の心身が変わっていくのに気付く。これが鍵への第一歩だと思う。心身と言ったのは体調が良くなり、また色々なことがよく見えてくるからだ。この鍵に至る道を得たならば、次に自分が持っている固定概念を捨てなければならない。人間とはこうである、こうあらねばならない。世間とはこういうものだ、こうでなければならない。夫婦とは、先生とは、学生とは、男とは、女とは、歴史とは、進化とは、宇宙とは、等々。これら一切の事柄に対する固定概念を覆し、払拭することが第二段階だと思う。これができてくると、そのできた程度に応じて物事の本質が見えてくる。

この段階ですでに波動は上がっているはずだが、しかしここで注意する必要がある。もし野心や満心や自惚れがあると、このとき色々な良からぬ霊からの干渉や憑依が起こる。もっともらしい啓示や声が聞こえたり、神や賢者を名乗る者が現れたりなどだ。不快な音を出して存在を知らせるのは下等な霊の仕業なので、自分の心を省みて邪(よこしま)なものがあれば清めなければならないだろう。

波動と次元高次元の霊は三次元に直接かかわることが困難なので、それなりの高い次元にある下級霊を媒介にしてメッセージを伝えるらしい。その媒介する霊も我々の次元のそばにいるわけではないので、伝達されたメッセージは微弱なものとなる。すなわちそれは芸術的な努力の途上でのひらめきや、一つのことに切磋琢磨しているときの悟りといった形で伝えられるようだ。時には他人が話す言葉の形で伝えられることもあり、しかも繊細で鋭敏な感覚を持っていなければ気付かずに聞き流してしまう平易な言葉で語られることも多い。

さて次の段階は静寂を得ることだ。これは静かにしてボーっとしているという意味ではない。テレビを消し、本を閉じ、雑念を追い払って感覚を研ぎ澄ませ、くつろいだ姿勢で静けさを得ると言う意味だ。そして心の中で沈黙を膨らませていくと、やがてその沈黙の中枢にある扉が、高い波動の光を放ちながら開かれることになる。しかし当初は扉も光も視覚的に見えるわけではなく、ずっと後になってから、あのとき扉は開いたのだ、あのとき光がやって来たのだと気付くだけだ。

高い波動を得た人であっても、自分が高い波動を持っているとは気付かない場合が多い。というのは、そうした人たちはもはや奢りを持たなくなっているからであり、他人と較べたりするような精神状態ではなくなっているからだ。彼らは心を洗い清めることに専心しているので高慢になることもなく、さらに魂を清めようと思っているだけなので、自分がどの程度高い波動を得ているかなど眼中にないからだ。

もし多くの人がこうした道を歩み、我を捨て、愛を実践し、魂を清めたとするなら、世の中は信じられないほどの速さで、信じられないほどの変化を遂げるだろうと思う。我々が不可能と考えている思いを捨て、世の中も世界も変わるのだという信念を持って日々淡々と自分の出来ることに邁進すれば、必ずや自分の周りから変わっていくに違いない。


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