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魂と霊的世界

一般に霊と言えば死後の世界の意識体というイメージがある。では生と死の関係はどうなっているのだろう。また霊的世界と死後の世界はどう違うのだろう。

日本人の中にも他の国々の人の中にも死後の世界を信じない人はいるだろうが、ここではそういう人は相手にしない。そのような人を説得するのは労力の無駄であり、時間の無駄でもあるからだ。物質世界が唯一の現実だと思っている人の多くは、家や土地や金や肩書や権力に執着し、それらを持つことによって持たない者に優越を感じて生きている場合が多い。逆に持たなければ、持つ者を羨んで自分の不幸を嘆き、世の中を恨んで生きているかも知れない。こうした世界観・人生観がこの世のあらゆる問題の元凶となっていると思われる。もちろん彼らは物事に執着するということを、魂の進化の道のりでの試練として経験しているのだろうが、しかしここではそうした人たちを諭すことが目的ではないので拘わらないことにする。

魂と霊的世界さて生と死は陰陽論的に同じものの裏表だと言えるだろうか。一見そのように見ることも可能かも知れないが、色々な情報から判断するとそう単純ではないようだ。近年異星人からのメッセージを伝える人たちの中に、肉体は魂の乗り物だと語る人がいる。これは死後の世界や転生に初めて触れる人にとっては新しい考えに聞こえるかも知れない。しかしこのような発想は古代エジプトや古代仏教、仏教以前のヒンズー教など、世界各地に数千年前から存在する。これらの教えに共通しているのは人間の意識は死後も変わらず存続するという見方だ。

そこから類推されるのは、魂なるものはこの世で肉体と結びついてはいるが、いわゆる物質として存在しているのではなく、別の形で存在するということだろう。この三次元では全てのものが朽ち、あるいは死んでゆくが、魂だけはおそらく永遠とも思える時の中で存在し続けるのだろう。したがってそれは三次元に一時的にやっては来るが、本来は別の世界または別の次元にあるのではないかと思われる。複数の次元が重なって宇宙が成り立っているのだとすれば、魂は別の次元にありながら何らかの形で三次元の我々の肉体と結び付いているのだろうと思う。

そういう前提に立って考えれば、この三次元で肉体が滅びた後、魂は再びこの三次元で別の肉体に宿るか、でなければ別の次元で肉体を得るかのどちらかを選ぶことになると思われる。いずれにしても低い次元では魂は何らかの形あるものに結びついて存在するしかないようだ。このような意味では、古代エジプトで言われたように肉体は魂の乗り物なのだろう。しかしもっと高次元に至れば、すなわちオムネク・オネクの分けた6番目の「魂の世界」のような次元に至れば、もはや形あるものと結び付く必要はなくなるのかも知れない。もしそうだとすると「生と死は陰陽論的に同じものの裏表」などという説明は意味がなくなり、死とは単に肉体が滅びる瞬間を言い表した言葉に過ぎないことになる。

では魂とは何なのか。一つの考えとしては、魂は意識そのものであり、その意識は宇宙を生んだ巨大な意識の片割れだと推測できると思う。意識は脳科学が推論するような物理的過程によって発生するものだとは思えない。それは原初の宇宙誕生に関わるものであり、宇宙の本質である創造と同義だと思う。これを図式的に表現すると、『原初の意識=神=創造=魂』ということになる。

魂には生も死もなく、永遠とも思える時の中に存在し、様々な形あるものに宿りながら自らの可能性を探っている。そう考えれば魂はあらゆる次元に通じ、創造そのものの本源にも通じ、あらゆる情報を得ることが可能だということになる。

しかし現実には我々は意識的に全てに通じることができないでいるのは、生命なるものがなし得る可能性を試すために、一時的に真なる情報を遮断する必要があるからではないだろうか。我々はそういう意味で盲目なのだと思う。もし目が見えれば問題なく行動でき、正しい道を選んで行くだろうが、盲目であることによって予測のつかない道に迷い込み、それによって何かを発見することもある。目を開けて歩ける人は一筋の道しか歩まないが、盲目の人は広い範囲を歩き回り、多くの体験をし、様々な糧を得る。そして目を開けて初めて正しい道の有り難さも知る。

ただここで注意しなければならないのは、肉体に閉じ込められている時だけ盲目なのではないということだ。物(金、名誉、異性、家、車、等々)にこだわり執着したまま死を迎えると、意識はそのまま継続するので、その意識の波動に合った世界へ引き込まれることになる。浮遊霊となって現界をさまよっている者や幽界で執着した生活を繰り返す者などはこの例だ。このように肉体を抜け出てもなお盲目のままでいる場合もある。

逆に肉体を持ちながら魂の声に目覚め、生死のからくりを知り、宇宙の本質を見極める者もいるだろう。そうした人たちは歴史上で様々な運命を味わったと思われる。古代においては寺院に連れて行かれ、王のために生涯天の声を聞く役目を強いられた者もいる。古代エジプトや古代ギリシアではこうしたことが行なわれていたようだ。中世ヨーロッパでは魔女や魔男として捕えられ、火あぶりで処刑されている。ただ中には宗教集団の中で高い地位を得た者もいて、歴史に名を残した者もいるようだ。しかし彼らもその能力に溺れ、庶民を騙して詐欺的行為をしたり、権力と結びついて支配階級の一角を担ったり、宗教組織を乗っ取って私物化したり、といったことをした者もいるようだ。

さて先ほども言ったように、一般に霊的世界という言葉は死後の世界と同じ意味で使われてきたように思われる。しかし現在は少し変わりつつあって、波動の高い次元に対しても使うようになってきているようだ。そうした意味では高い次元にある霊的生命も、魂の視点から見れば我々と変わらない生命体だと言えるだろう。

問題を煩雑にしているのは、死がある世界(または死ぬ生命体)と、死がない世界(または死なない生命体)の区分けができていないからだと思う。アストラル界の金星の人々にも死があり、プレアデイス・プレヤール人にも死がある様子が窺える。ではどこまで次元が上がれば死はなくなるのだろう。あるいはどんなに高い次元でも死はあるのだろうか。

多くのスピリチュアル系の本には、三次元の我々地球人の死後の世界については語られているが、高い次元の生命体の死後の世界については語られていない。もっと厳密に言うと、死については言及している本もあるが死後の世界については言及しているものはない。死について言及している本自体が少ないので、読者の中には高次元では死は存在しないのだと思っている人もいるかも知れない。しかし実際はそうではないようだ。

私は一定の高さの次元までは死はあると思っている。オムネク・オネクがアストラル界の金星に住む実の父親が死んだという連絡を受け取っているので、彼らの世界では死があるのが分かる。『ひふみ神示』には、半霊半物質の世界に移行する時の働きによって、その後の末代続く役割が決まるということが書かれている。「末代続く」ということは世代交代があることを意味しているので、やはり死があることになる。

ではもっと高い次元の生命体はどうなのだろう。天国に行けばもはや死ぬことはない、と説いている宗教はあるが、異星人のメッセージでそのように明確に述べているものはないと思う。一つの考え方として言えるのは、まだ学びの必要な世界には死があり、もはや学びの必要がない世界には死はないということではないだろうか。もはや学びの必要がない世界が果たしてどんなものかは我々の想像を超えているが、言葉で言えば究極の世界、創造そのもの、神なるものとの一体化、宇宙の終わりの時、などと表現できるかもしれない。もしそうしたところまで魂が進化してしまえば、もはや学びのための転生は必要なくなるのは納得できる。ただ、宇宙の終わりといっても我々が知っているのは一つの宇宙であり、こうした宇宙が無数にあるという意見もあるので(現代物理学でもそういう考えはある)、はたして全体的な宇宙に終わりがあるのかどうかは分からない。

魂と霊的世界魂が創造そのものの(あるいは神なるものの)分霊であるならば、生命体が進化した暁には魂が完全に開かれ、究極の存在と一体になることもあり得るだろう。その時は進化した生命は創造そのもの、神と呼ばれるものと同等だと考えられるので、宇宙自体を創り出すこともできるかも知れない。もしそうしたことができるとしたら、宇宙には終わりがないだけでなく、これまで計り知れない時の長さを、次々と宇宙を創りながら経過してきた可能性もあり、始まりの時など遙か彼方に見えなくなってしまう。これは仏教思想の中の、宇宙には始まりもなく終わりもないという考え、また現代宇宙論の「平坦な宇宙」の考えと似ていると思う。

以上をまとめると次のようになるだろう。

原初に何らかの意識体があり、自らの分身あるいは分霊を生んだ。分霊は自ら変化して宇宙を形作り、をさらに自らを分けて様々な生命となった。原初の意識体は自らの可能性を探るために生命に生と死を与え、盲目の生命が何をなし得るか確かめようとした。これによって生命に充ち溢れる宇宙に無数のドラマが生み出された。多くの生命が生と死を繰り返しながらドラマに参加し、数々の役割を演じた。あらゆる可能性を探りながら多くの役柄を演じ終わった魂は、無数の体験と自らの広がりを携えて再び原初の意識体に回帰し、今度は自らの経験を生かして新しい宇宙作りに励むことになる。

これが大局的に見た全宇宙のあらましの一つの姿ではないかと思う。

最後に少しだけ善悪と霊的世界がどう繋がるか説明しておこう。ドラマに参加する際、生命は全ての役を演じなければならないので、微生物であろうが植物であろうが人間であろうが何にでもなる。低い次元の基準で見れば善人にも悪人にもなるし、強い人間にも弱い人間にもなる。全ての役を演じなければならないので、長い歴史の中で何度も生まれ変わることになる。そして一つのステージが終わると、次の段階の(すなわち次元の高い)ステージに上り、再び様々な役を演じることになる。こうしていくつものステージを経験し、多くのステージを駆け上がって行く。高い次元では低い次元の生命を導く役柄もあるだろう。それも経験の一つなので失敗することもあるに違いない。しかしそれを糧としてさらに高いステージを目指すことだろう。

現今、多くのチャネラーや霊媒が異星人または高級霊と名乗る者のメッセージを受け、伝え広めている。しかし高いステージの生命体も一つの学びの段階を歩んでいるに過ぎないのだとすれば、我々はもっと慎重に彼らのメッセージを受け取らねばならない。上のステージの生命も学びとして役を演じ、我々もまた学びとして役を演じているのであれば、どちらにも失敗や間違いはつきものだろうから。

<参考資料>
・善悪と霊的世界の関係
  一次元的意識の段階→ 鉱物、液体、気体などを経験→ 善悪はない
  二次元的意識の段階→ 微生物、昆虫、植物などを経験→ 善悪はない
  三次元的意識の段階→ 動物を経験→ 魂が進化し感情的体験をする→ まだ善悪はない
  四次元的意識の段階→ 人間として他との関係を経験→ 相対的善悪が存在する
  五次元的意識の段階→ 比較(差別化)をしないので相対的善悪は意味を失う
  六次元以上の意識の段階→ 善悪ではなく叡智に至る

<善悪と霊的世界の項 終わり>


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