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資本主義と社会主義.1

資本主義経済と社会主義経済の特徴

資本主義は資金を提供する資本家と、その資金を元に製品またサービスを設計・製造し利益を得る企業家と、その現場の仕事に従事する労働者によって成り立っている。企業は自由競争によって市場を奪い合うため、より質の高い商品やサービスを供給するよう強いられ、健全な経済活動が行われるとされる。また商品やサービスは供給過剰になると売れ残るため、生産調整が行なわれ、自動的に需要とのバランスが取られるとされる。これを市場原理と呼んでいる。

一方社会主義経済は土地も会社も個人のものではなく、国や組合の所有のもとに管理され、商品開発から生産、販売まで、国の計画のもとに行われる。このため社会主義経済は計画経済とも呼ばれる。農業に関しては旧ソビエトでは集団農場(コルホーズやソホーズ)が組合や国の管理のもとで運営され、給料は組合または国から支給された。


資本主義経済の問題点

資本主義経済は初期の段階ですでに様々な問題を抱えていた。産業革命が1760年代に始まったイギリスでは、地方の地主であったジェントリと呼ばれる階層が工場を持ち、労働者を長時間働かせた。やがて紡績工業が盛んになると、一般労働者よりもよりも低い賃金で雇える婦女子を信じられない条件で働かせた。

1832年のイギリス児童労働調査委員会の報告書には次のような児童労働の実態が報告されている。要点だけ挙げると次のようになる。

・6週間に渡って、少女たちが朝3時から夜10時ないしは10時半まで働かされた。
・5分でも遅刻すると、賃金を4分の1がカットされた。
・事故で指を無くした少女もいたが、その段階で賃金の支払いが停止された。

この少女たちとは10代前半の子供たちだ。一般の大人も13時間から18時間も働かされた職場がほとんどだった。見かねたある有力者が労働時間の短縮を提案したが、資本家、企業家、マスコミの猛反対に合った。とはいえこの時の提案された労働時間はそれでも12時間だった。

資本主義は自由競争の中で生産調整がなされるとされるが、全体の生産量が見えないため、たまたま他のところで生産していないものを生産した時には高値で売れるが、多くのところで生産していた場合は原価を割る暴落の憂き目に合う。これは現在でも頻繁に起こっている。

例えば農家では前年玉葱に高値が付いたため、翌年多くの農家が玉葱を生産する。すると供給過剰になって値段が落ちる。出荷すればするほど梱包代や運賃で赤字になるため、膨大な量の玉葱が野晒しにされるということが実際に起こっている。また工場ではある製品の売れ行きが好調なため、設備投資をして生産ラインを増やす。すると途端に売れ行きが止まり、投資金が回収できずに終わるということも起こっている。

こうした現象は経済学者にとっては単なる数字の推移に過ぎず、このような過程を経て生産調整がなされるのだと他人ごとのように言うが、現場の生産者はたまったものではないだろう。

資本主義経済は常時インフレやデフレの脅威にさらされている。銀行の貸出しや政府による貨幣の供給量、輸出入による貨幣の流通量、賃金と物価のバランスなど、様々な要因によってインフレやデフレが起きる。政府や専門家の諮問会議などで議論はされるが、事が起こってからの話し合いになるため、対策が常に後手に回ることになる。

金融資本(銀行資本と企業資本が一体となったのも)が経済の中枢を牛耳る今日の状況においては、物造りやサービスから離れた巨額の金が、国際舞台で株や様々な産物の売買や先物取引などによって金で金を生むマネー・ゲームを行ない、一国の命運を左右するまでになっている。例えば比較的小さい国にファンド・マネーが大量に注ぎこまれ、その時点でその国は活況を呈するが、しかし買い込んだ株や金融商品が値上がりすると一斉に売り抜け、ファンド・マネーが引き揚げるため、その国の経済は壊滅的な打撃を受けることがある。こうしたことは歴史上何度かあり、現在もほぼすべての国がこうした危険にさらされている。

このようなことが起こる理由の一つは、多くの国が様々な法律で国内市場に規制をかけているにもかかわらず、国際舞台では何のルールもないためだと言われている。これは例えれば自転車が主流の交通手段の国に、突然大型トレーラーがやってきて好きなように走り回る状況に似ている。嵐が過ぎ去った後では、国じゅうの自転車がめちゃくちゃに壊され、作りかけの道路やビルがそのまま放置される事態となる。

資本主義では最大の利益を求めるのが当然とされ、この数十年その傾向はますます強まっている。このため仕事を持つ全ての人たちが超多忙な状況に置かれ、ゆっくりと食事を取る余裕も趣味を楽しむ余裕もなく、本を読んだり自分を見つめる時間もない日々を送っている。イタリアの田舎町で始まったスロー・フード運動の宣言文には、現況を憂う次のような文言がある。

『我々みんながスピードに束縛され、そして我々の慣習を狂わせ、
家庭のプライバシーまで侵害し、
"ファーストフード"を食することを強いる"ファーストライフ"という
共通のウィルスに感染しているのです。
いまこそホモ・サピエンスは、この滅亡の危機に向けて突き進もうとするスピードから、 自らを開放しなければなりません。
我々の穏やかな悦びを守るための唯一の道は、
このファーストライフという全世界的狂気に立ち向かうことです。
この狂乱を効率と履き違えるやからに対し、私たちは感性の悦びと
ゆっくりといつまでも持続する楽しみを保証する
適量のワクチンを推奨するものであります。
我々の反撃は、"スローフードな食卓"から始めるべきでありましょう。』

このせわしなさは単に個人の生活を侵しているだけではない。職場の人間関係、友人関係、家族関係までも侵し、ノイローゼ、引きこもり、家庭崩壊などの現象を惹き起こしている。経済発展こそ人間生活の充実を保証するものだといったまやかしの幸福論をぶち上げ、経済最優先の社会を作り上げた人類は、いま地球環境破壊という大きなツケまで負っている。

こうした異様な世相に多くの人が不安を抱き、世界の終末を予感する人も増えてきているように思う。人類が破滅の危機にあることを多くの人が認めつつあるということだろう。これが資本主義経済社会が行きついた姿であり、金と物質的豊かさのみを求め続けた結果の姿だと思われる。

ではこうした状況を変えるにはどうすればいいのだろう。政府や専門家と言われる人たちは抜本的な改革を本気で考えてはいないだろう。常に不景気やインフレや物価や消費者の購買力など、目先のことだけに右往左往しているからだ。

この資本主義経済に欠陥があることは多くの人が感じ始めている。まずはそれを見極めることから始めなければならないだろう。後にムハマド・ユヌス氏の考えた「ソーシャル・ビジネス」を紹介するが、私はこれが一つの有効な改革の道となるだろうと思っている。ただ問題の根はもっと深いはずで、人間存在のあり方から、また人間の生活のあるべき姿から考え直さなければ本当の改革にはならないだろうと思っている。


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