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一神教の神

一神論はユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の概念で、これらの宗教においては神は唯一絶対、かつ全知全能であり、この神が宇宙を創り全ての生き物を造った、と説明されている。

ユダヤ教が生まれた頃は、世界のどこにも一神教は存在しなかったと言われている。多神教が一般的だった当時、西アジア(中東)で起こったこの一神教は、当時の情勢から見ても、歴史的に見ても、非常に稀有な宗教だったと言わざるを得ない。しかもこの宗教の神は古代ユダヤ人とだけ契約を結んだ民族固有の神であり、そういう意味では神話的なのだが、かといって神話のような多神教ではなかった。このようにユダヤ教は奇異な特徴を持って生まれたが、それはもしかしたら何か特殊な理由があって一神教という概念を持つに至ったためかもしれない。

ユダヤ教成立から千年以上も経って、ユダヤ民族のこの神はイエスによって人類全体の神にまで高められようとした。イエスが育ったのはユダヤ教の環境であり、聖書によれば当時パリサイ派とサドカイ派という宗派が存在したことが分かっていたが、近年死海文書が発見されたことにより、エッセネ派という宗派も存在したことが新たに分かり、イエスはこの派閥に属していたことが明らかになった。

私の感想を言えば、イエスはユダヤ教という民族宗教を普遍的な教えに、すなわち世界宗教に改編しようとしたわけだから、イエスの教えを引き継いだ者たちは、イエスがユダヤ教の一宗派に属していた事実は不都合と考えたのではないかと思う。イエスが生きていた当時はもちろん彼がエッセネ派に属していたというのは周知の事実だったろうが、歴史のある時点で世界制覇の野望を持った者がキリスト教の最高指導者になった時、何らかの手段を用いてその事実を抹消したのだろうと思う。

しかしそれはそれとして、イエスが当時のユダヤ教の司祭たちを激しく批判したのは確かで、イエスを神に祭り上げた人々はこれをもってイエスを新しい宗教の開祖だとしたのだろう。実際はイエスはユダヤ教そのものを否定したわけではなく、儀式に捉われ、本来の教えを忘れた当時の宗教界を糾弾したに過ぎないと思う。それというのも彼は説話の中で旧約聖書を頻繁に引用しているからで、またその神・エホバもきちんと認め崇拝しているからだ。そういう意味では彼は真に新しい宗教の開祖とは言えないと思う。

イエスは(現代にも存在する超人のように)奇跡を起こせたわけだから、弟子たちが集まり信奉者が増えるにつれて、後戻りできなくなった可能性もある。もしそうであれば彼は単なる改革者のつもりが、成り行きで教祖的存在になってしまったとも考えられる。とはいえ彼はこの宇宙の成り立ちや人間の本質について一定の悟りを得ていたのは間違いないだろう。というのも彼なりのやり方で必死に自分が得た認識を伝えようとしている様子が聖書から窺えるからだ。

私はイエスの言葉は人間社会の分析や宗教的研究から生まれたものではなく、彼の内的洞察から生まれたものだと思う。そうした繊細な内容のため、その言葉の意味するところが正確に伝えられたのはイエスの死後わずか数十年ではなかったかと思う。おそらく使徒の中でリーダー的存在だったペテロの死後には、すでにイエスの思いは伝わらなくなっていたと思う。その後聖堂(教会)が建てられた時点では、もはや形式や儀式にとらわれた人たちが権力の座に就いていたはずなので、イエスの思いはほとんど失われていただろう。それ以来2000年近くもの間、形骸化した教えが何億人、何十億人もの人々を支配するために用いられてきたと思うとぞっとする。強大な現世的権力を持つ教皇がヨーロッパからアジア、中南米、アフリカへと勢力を拡大し、世界制覇への道をひた走る事態になったが、私はそうしたことをはたしてイエスは望んでいたのかどうか疑問に思う。

イエスの没後およそ600年経ってアラビア半島にムハマンド(マホメット)が現れ、イスラム教を開いた。しかしこれも真に新しい宗教かどうかは疑わしい。何故ならコーランの内容は多くの点で聖書そっくりで、しかも旧約聖書のモーゼを預言者として認め、モーゼ五書も聖典として認めているからだ。ただしイスラム教徒はムハマンドを地上に現れた最後で最高の預言者としている(これはすなわちムハマンドがモーゼやイエスより格上だという意味)。旧約聖書のモーゼや新約聖書のイエスを預言者として認めているにもかかわらず、彼らは普段、神をエホバ(ヤーハウェ)とは呼ばない。彼らはひたすらアッラーの言葉を唱えるだけだ。実はアッラーというのは単に『神』という意味であり、イスラム教徒は神を固有の名で呼ぼうとしない。しかし彼らはモーゼ五書を経典として認めているわけだから、あえてその名は何かと質せば、エホバと答える以外にないだろう。

一神教の場合、神はこの宇宙で唯一絶対の存在だから、名前がどうあろうと宗派が違おうと、結局は同じ存在を指すことになる。にもかかわらずユダヤ教徒とそこから派生したキリスト教徒は仲が良くない。さらにこの双方とイスラム教徒は非常に仲が悪い。愛と施しを説くこの三つの宗教が千年も二千年もの間いがみ合い、殺し合いをしてきたのだから、いったいそれらの教えは何だったのかと疑わざるを得なくなる。

ここで宗教(信仰)というものについて一言付け加えておこう。

一神教の神『信教の自由』という言葉があるがこれは一体どういう意味なのか。普通の社会では、考えや思いはお互いに議論するなかで是正され、高められてゆくものだろう。ところが宗教となると議論し合い互いを高めるどころか、一方的に押し付け、信じるか信じないかを迫るだけなのが古来からのやり方だ。しかも現在はそれが『信教の自由』という言葉で守られているのはどう考えても納得がいかない。世界中に何十万、何百万という宗教・宗派があり、しかも互いに否定し合っている現実がありながら、それらを法的に守っているというのはどういうことなのだろう。本来あるべきなのは『思想の自由』であって『信教の自由』ではないと思う。

日本だけで五万の宗教法人があると言われているが、これらの団体は納税を免除されている。自分たちが勝手に信じていることを、単に他人に押し付け洗脳することでお金をかき集め、そして自らは納税もせずに法的に守られているというのはどういうことなのか。互いに考えを批判し合ったり改め合ったり、そうした切磋琢磨もしないで教理を信じることに一心不乱の集団が、社会的には何の制裁も受けずに、逆に評価さえされることがあるのはどういうわけか。『宗教』という看板を掲げるだけで、すべての批判から社会的に守られるという今の状態が到底正常だとは思えない。

もしこうした集団から『宗教』という看板を剥ぎ取ってしまったらどうなるだろう。単なる偏屈で頑固で凝り固まった考えを持った異様な集団、または勝手な自分たちの思い込みを世界で最も正しい考えと主張する狂信的集団と看做(みな)されるのではないだろうか。少なくとも一般の人々が社会の中で揉まれ、批判や中傷に晒されながら、それでも自分の考えを持とうと努力しているのと比べると到底公平とは思えない。では誰がどんな理由で宗教を特別扱いにし、保護するような策を講じたのだろう。後に述べるが、そこには当然理由があり、策を講じるに至った背景がある。


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