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所長の見解1-神とは何か

これまで見てきたように神の概念や解釈はいくつもある。しかし神とは何かと考えるとき、決して神には含まれないものがある。それは異星人だ。彼らがどんなに優れた精神を持ち、どんなに高度なテクノロジーを持とうと神ではない。知的生命がみな神の霊を宿し、それを発現できた人々がいたとしても、やはり神そのものではない。もし最終ゴールが神との合体だとしても、その途上にある生命体はやはり神そのものとは言えない。

ひと頃よりは少なくなったが、現在なお異星人を崇拝する人々がいる。これは多くの出版物による影響もあるが、世界のいろいろな国にそうした人々が集まって宗教的様相を呈している集団もある。我々は精神的技術的に優れた異星人には謙虚に学ぶべきだが、だからと言って神のように崇拝したり祀り上げたりするべきではないと思う。

またこれまで述べてきたように、シュメールの神話やギリシア・ローマ神話に見られる神々も異星人と考えざるを得ない。冷静にそれらを読めば、彼ら異星人の傲慢さと支配欲と人間蔑視の言動の数々に唖然とさせられるだろう。人間に火や智恵をもたらした神は、神々の世界では悪者とされていることがある。ギリシア神話のプロメテウス、聖書の創世記に出てくる蛇、シュメールの粘土板に出てくるエンキなどがそうだ。これは異星人の世界における支配者が、人間が自分たちと同等になるのを不快に思っていた証拠とも言えるだろう。

では異星人ではない神とはどのようなものなのだろう。もちろんエホバのような固有の名を持つ唯一神などではない。ちなみに先ほども言ったが、アッラーは固有名詞ではなく単なる「神」という普通名詞だ。イスラム教では唯一絶対の神に固有名詞を付けるのは神を限定することであり、神への冒涜に当たると考えているようだ。しかしモーゼ五書を聖典と認めているので、あえて言えばエホバということになる。
 地球上においては一応この二つの宗教が唯一の神を唱えている。しかしこの宇宙には現代物理学が教える限り、2000億×2000億の恒星(太陽)がある。その太陽を回る惑星に知的生命が何パーセント住んでいるかは解らないが、もし1パーセント住んでいるとすれば、2000億×2000億×0.01で、2000億×20億=4兆の惑星に知的生命体が住んでいることになる。そのそれぞれに唯一絶対の神を主張する宗教が一つか二つあるとしたら、全宇宙にどれだけの唯一絶対の神がいることになるのだろう。

宗教とは他の考えを拒絶することを基本姿勢とする思想だ。したがって信者たちは他の一般の人たちの議論に加わったりしない。彼らは何を言っても聞く耳を持たないし、議論によって自分の考えを修正したり発展させたりする気もない。すなわち彼らは自らの成長に励まない。ただひたすら教えを記憶し、それに沿って物事を判断しようとするだけだ。

彼らが信じるような唯一絶対の神など存在するはずがないということについて、別のもう少し哲学的な面から説明してみよう。

前にも述べたが、神が宇宙を創ったというなら、いったい神はどこにいて宇宙を創ったのだろうという疑問が湧く。この宇宙の外にいて宇宙を作ったのだろうか。だとしたら神がいたところは宇宙には含まれていないことになる。しかしそこも宇宙に含めなければ宇宙全体とは言えないだろう。こう考えてくると神は宇宙の外側で宇宙を創ったという言い方は矛盾することになる。では神は宇宙の内部で宇宙を創ったのだろうか。だとしたらこれは明らかな矛盾だ。なぜなら宇宙の中にいて宇宙を創ったなら、すでに宇宙があったことになるからだ。

もうひとつ誰もが思う疑問がある。それは神が宇宙を創ったのなら、その神は一体何者が創ったのかという疑問だ。それが誰であれ神を創った存在がいるなら、さらにその神を創った存在はいったい何者が創ったのかという疑問が湧く。さらにさらに神を創った存在を創った存在は何者かということになり、これでは永久に答えが出ない。こうした疑問に対しては、さすがの論理を得意とする欧米人もお手上げとなった。けれども宗教は議論を拒否するという性質そのままに、どうしても神を必要とした欧米人は "God is God." と訳のわからない理屈で自分たちを納得させようとした。

これらとは別に、論理的に矛盾しない唯一の考え方がある。それは一種の汎神論だが、初めに神あるいは霊なるものがいたとしても、それ自体が宇宙だとする考えだ。神なるものが自らを変化させ、展開させたのがこの宇宙だと考えれば矛盾はなくなる。

我々日本人は欧米人のように宇宙を単に物理法則によって動いている機械だとは思わないし、人間の精神も単に脳内の化学反応や電気的反応によって生み出されたものだとも思っていない。我々は心は霊的なものであり、動物も含め生きとし生けるものはみな霊的なものだと感じている。それは理屈ではない。親や子や友人や飼っている犬猫を見て、物理的・化学的・電気的に動いている複雑な機械だとは思わない。たとえそういう面を認めても、生命はそれ以上の何かだという感覚を我々は持っている。

この地球に生命が溢れている事実は、他の星にも生命が溢れていることの証(あかし)でもあるだろう。それは神が生命であり、その神が宇宙自体なのだから、当然宇宙は生命に満ち溢れていることになる。神が生命であるなら、その神が無機的な宇宙となって展開するはずはない。宇宙全体が、そして宇宙に存在する全てが有機的であり霊的であり意識的なのは、神自身が展開・発展した結果だからだ。

かつての日本人はこのようなことを感覚的に解っていたと思う。現在残っている数少ないシャーマンもそうした感覚を持っているからこそ、動物とも植物とも話ができるのだろう。日本人は大きな岩や山を拝む習慣を今も持っている。富士山などはその対象の代表例だろう。それは山にも意識があり、あるいは霊を宿すという認識があるからだろう。論理一辺倒で塗りつぶされたように見える現代でも、このようになお日本人の心には、そうした霊的意識が受け継がれていると思う。

所長の見解1-神とは何かこの神自身が宇宙であるという矛盾のない考えに立てば、いくつかの重要な謎が解けてくる。その一つは我々は何者なのかという古くからの哲学的命題だ。歴史上のどんな哲学もこれについては決定的な答えを導き出せなかった。しかしこの宇宙が神自身であり、その神が展開・発展したものであるなら、我々は神の分身であり、神の分霊だということになる。だとすれば我々は誰しも神の本質を宿していることになり、神のような能力も備えていることになる。すなわち、我々は何者かという問いに対しては、我々は神なるものの本質であると言うことができる。そしてその本質とは、光であり、愛であり、歓喜だということになる。これについてはもう一度最後のところで説明することにしよう。

さて超能力という言葉が使われるようになって久しいが、これは別にトリックでもなんでもなく、特別に選ばれた人間だけが持っている能力でもない。神の分霊である我々は皆そうした能力を持っているのだが、それを引き出すことのできた人が超能力の持主と言われているだけだろう。では具体的にそうした能力を引き出すにはどうしたらいいのだろう。最近何人もの人がそれについて言及しているが、共通して言っていることは無欲の大欲と利他の精神(言い換えれば愛)を持つことだという。

無欲の大欲とは、たとえば自分が実現したいと思っていることがあるとすると、まずその目先の実現したいという欲を捨てることだという。そしていったん捨ててしまったら、次にはもう実現してしまっていると思うこと。すなわち「~したい」という欲に囚われず、もう実現したのだから、その結果に対して感謝の気持ちを持つことだという。ただしこの際、欲は微塵も残っていてはいけないと忠告している。

卑近な例だが、Beginner's Luck (ビギナーズ・ラック)ということについて考えてみよう。これはギャンブルで初心者が慣れた人より幸運に恵まれるという意味だが、ではなぜ初心者にツキがまわるのだろう。それは初心者は試しにやってみるだけで、しかも詳しいことは解らないので、やり方やコツを覚えるのに精一杯で欲を出す暇などないからではないだろうか。こうした無欲の勝利は先程の無欲によって実現するという説明とよく符合する。しかし初めは勝てても、だんだん勝てなくなるのがギャンブルの運命のように見える。それはやり方が解ってくるとだんだん欲が出てくるからだと思われる。しかも負けるとさらに欲が出て、取り返したい、勝ちたいという目先の欲に囚われ、多くの人が蟻地獄に落ち込むようにのめり込んでゆくのだろう。

超能力を持つ人たちの多くは、無欲の精神状態を作り出せば誰でも自分のような能力を発揮できると言っている。彼らにとっては超能力などではなく普通の能力で、人間の様々な欲がその発現を阻んでいるに過ぎないという。

我々が神の分身・分霊であるなら、そのような能力は当然備わっているはずで、多くの人はそれを認めようとしないためにそうした能力を発揮できないのだと思う。しかし世の中にはそうした能力をもともと発揮できたり、何かをきっかけに発揮できるようになった人がたくさんいる。次にここ数十年間に現れたそうした人たちについて述べることにしよう。


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