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所長の見解3-神の特性.1

神は宇宙そのものであり、我々は神の分身であると述べたが、では全てのものに特性があるように、神にも特性はあるのだろうか。最近はいくつもの宇宙が存在すると言われているので、だとすれば神が展開・発展した宇宙にもそれぞれ違った特性が備わっているのだろうか。我々はこの宇宙しか知らないので、この宇宙の特性がどんな特性を持っているのかだけを探っているが、我々の宇宙の特性が必ずしも他の宇宙にも普遍的に当てはまるとは限らないかもしれない。

現代物理学でも多宇宙論は存在するが、それだけでなく、幽体離脱した人が信じられない数の宇宙を見てきたという報告をしたり、異星人と接触した人たちが他の宇宙のことを教えられたと報告したりもしている。では無数に宇宙があるとしたら、果たしてそれらは同じ秩序、同じ特性を持っているのだろうか。それとも違う秩序、違う特性を持っているのだろうか。

決定的なことは言えないが、少なくともそれらの宇宙は全く同じではないだろうことは想像がつく。何故なら全く同じものが存在するなら、その中で展開することも同じことになり、私と同じ人間が何人もそれぞれの宇宙にいることになり、これでは複数の宇宙が存在する意味がなくなってしまうからだ。現代物理学も全く同じ宇宙はないだろうと予測している。全く違うのか少しだけ違うのかは分からないが、とにかくそれぞれが違うのだとしたら、我々の宇宙はどんな特性を持っているのかが問題となる。

我々の宇宙を見る限り、神は自らを展開する前に一定の秩序または法則を決めた可能性が高い。それは神が混沌(カオス)を望まなかったということではなく、神が意識体であり生命体であるために、必然的に宇宙も秩序的になったということではないだろうか。ただしそれは全てが秩序に従い、細部までが法則のもとに展開していくようなものではなかったはずだ。すなわち最初から終わりまで完璧な計画のもとに始まったわけではないはずだ。何故そう言えるのかというと、我々に自由意思があるからだ。

神には自由意思があると一般に考えられている。何故なら神が宇宙を創造したという観点に立てば、自由意思なしにそのようなことはできなかったはずだからだ。だとしたらその分身である我々には当然自由意思が備わっていることになる。これは神が与えたという意味ではなく、神に自由意思がある以上、それが展開した宇宙は自由意志を持っており、その分身である我々も当然自由意思を持っているということだ。

我々に自由意思があるなら、全てが決められたように計画的に世界が展開してゆくわけではないだろう。我々が考え選択することにより、我々の意志と想念によって世界も変わってゆくと考えられる。したがって我々の世界には現に不幸や悲劇があるけれども、それらを作ったのは我々以外の何ものでもないということになるだろう。すなわち人間の不幸や悲劇は、我々の誤った想念や選択の結果だと言えるのではないだろうか。

これを逆さから見れば、不幸や悲劇を作り出した我々が神の分身であるなら、神にも間違いや失敗があり得るかもしれないということになる。果たしてそうなのだろうか。神の間違いによって我々の不幸や悲劇が生まれたと言えるのだろうか。しかしこれにはもう一つ別の見方が可能だ。それは神が描いた最終ゴールに、神の分身である全てのものを導くためには、不幸も悲劇も必要なものとして存在するのかもしれないという考え方だ。

所長の見解3-神の特性.1私が自然を見つめ、周りの人間や自分自身を見つめた限りを言えば、どんな現象も無駄に起きているわけではないと思われる。これは言い方を換えれば偶然は存在しないということになる。もう少し詳しく言うと、生きていることに意味があるという前提に立てば、一つ一つの出来事に意味がなければならなくなる、したがって運がいいまたは悪いという言い方は根拠を失って、全てが必然でなければならなくなる。逆に言えば、人生の出来事の一つでも偶然に起こっているとするなら、我々の意志やカルマとは関係なく人生は展開していることになり、これではどこにも意味を求めようがなくなる。

まずは私自身のことを話してみよう。私は若い頃どうして自分には災いや悩ましいことが付きまとうのだろうと思っていたが、今から考えれば現在のこの自分があるためには、それらすべてが必要だったからそうしたことが起こったのだと感じられる。すなわちそれらは無駄に私に降りかかったのではなく、今のような自分があるためには欠くことのできないものだったからだと思われる。

次に百獣の王と言われるライオンについて考えてみよう。アフリカのサバンナでライオンが草食動物を食べまくって大繁栄するということは起こっていない。実際にそんなことが起こればライオンは食物を失って絶滅するしかなくなるだろう。またライオンのような肉食獣がいなければ、草食動物は大繁栄して草も木も食べ尽くし、それによってこちらの方も絶滅するしかなくなるだろう。しかし自然を見る限りこのようなことは起こっていない。このことは何を意味しているのだろう。それはそれぞれの生き物には役割があり、様々な生き物によって全体の調和が保たれていることを意味している。それは自然が無駄を作ることもなく、偶然によって支配されているわけでもないことを示しているのではないか。

私の周りには様々な悩みを抱えた多くの人がいる。その中には自分が不幸で悩ましい状況にあるのは運が悪いせいだと思っている人もいる。運が悪いと思うのは、先ほども言ったように、物事は偶然によって起こるという考え方が前提にある。こうした人たちは自分の境遇を恨むだけでそこから何も学ぼうとしない。したがって往々にして状況はますます悪くなる。しかし中にはそうでない人もいる。自分の不幸や悩みを試練として受け止め、それを乗り越えるために必死に努力している人もいる。彼らは与えられた試練は不幸や不運ではなく、自分を成長させるための機会と捉えて切磋琢磨している。こうした人たちは、時間のかかる人もいればかからない人もいるが、その多くは自分の状況を良くしていっている。このように考えれば、不幸や悲劇は我々にとって必要なものとして存在しているのではないかと思われてくる。

だがそれでも人よっては、それは単なる遠回りではないかと言うかもしれない。何故なら様々な悩みや試練にさらされることなく、物事が容易に解って正しい智恵を得ることができれば、それに越したことはないと思われるからだ。しかしここにはもう一つからくりがある。

生まれた家が大金持ちで、多くの人が欲しいと思うものは何でも揃い、何でも手に入るとしたら、その人は一つ一つの家具やテーブルや自分の部屋や食器などに歓び、感謝することができるだろうか。大人になって初めて自分は恵まれているのだと感じ、感謝する人も中にはいるかもしれない。しかし多くの人はそれを当然と思い、単純に優越感に浸るかもしれない。一方で非常に貧しい家に生まれた人は、一枚のセーター、一脚の椅子、一台の電子レンジにも、ようやく手に入れたことの歓びと、長い間待ち望んだことが実現したことへの感謝の気持ちでいっぱいになるのではないだろうか。

すなわち物事は最初から理解できたり、完全な知識が与えられていたりするのではなく、また人間も初めから完成された人格を持って生まれてきたり、苦労もなしに立派な人間になったりするのではなく、長く辛い道を歩んだ結果として得られるところに感激があるのではないだろうか。この道程は歓びを味わうためには欠かせないもので、単に無益な遠回りではなく、最終ゴールが感激に満ちたものであるためには必要不可欠なものなのではないかと思われる。


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