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所長の見解3-神の特性.2

ここに来てようやく神の特性が解ってくる。他の宇宙の特性は知り得ないが、少なくとも我々の神は、そしてその神が展開したこの宇宙は、歓喜という特性を持っているのではないかと推測される。神は歓喜であり、それが展開した宇宙は歓喜であり、その一部である我々も本質は歓喜だと思われる。我々の苦労や艱難は歓喜のために存在するのであって、単に深い闇の底に沈むためにあるのではないだろう。我々が今歓喜を味わえないでいるとしても、それはいつか花開くだろう歓喜への階梯を、一段一段着実に上っていることを意味していると思われる。ただし歓喜に至るためには苦難や苦悩や悲しみを限りなく味わわなければならないということではない。

我々はこれまで数え切れないほどの転生を繰り返してきている。そして無数の人生の中で多くのことを経験してきているはずだ。にもかかわらずその輪廻転生のサイクルから抜け出せなかったのは、たった一つの認識が持てなかったからだと考えられる。それは悟りだ。悟りとは理屈としての認識ではなく、心底納得のいく形での認識だ。悟りさえ得られれば我々は誰でも今から歓喜を味わうことができるようになる。ではその悟りとはどんなものか述べることにしよう。いくつか表現の違いはあるが、みな同じことを意味しているのでその本質を読み取ってほしい。

一つの表現は『全てのものは関係しあって存在していることを理解すること』だ。これは最近よく言われることなので、そんなことは知っているよと言われるかもしれない。しかしこの言葉の意味は何段階かの深さを持っている。もし人が素潜りで20メートル潜ることができたとしたら、そこを深い海と感じるに違いない。もし40メートルも潜れたとしたら、もはやまぎれもない深海と感じるだろう。だが海はさらに深い。何百メートル、何千メートルの深海もある。このように言葉にも深さがある。

全てのものが関係しあって存在しているということは、宇宙が一つの生命体であるということを意味している。人体の全ての部分、全ての細胞が関係し合って活動しているように、宇宙においてもあらゆる星が、あらゆる生命が関係し合って活動している。これを地球や人間に限って言えば、自然を破壊することは自分を破壊することであり、他人を傷つけることは自分を傷つけることを意味する。

ユングは『投影』という言葉を用い、他人に愚かさや欠点を見つけた時、腹立たしさや優越感などを感じるが、実はそれは自分自身を相手に投影して、自分の愚かさや欠点を見ているに過ぎないという内容のことを言っている。これはユングが深い思索の末に発見したメカニズムだが、しかしもっと深い解釈をすれば、相手も自分もより大きな規模で自分自身なのだから当然ということになる。言い換えれば、相手も自分も宇宙という巨大な生命体の一部なのだから、互いに自分自身を見ているに過ぎないことになる。

地球上では多くの人が相手を非難したり中傷したり罵倒したりしている。国どうしでは戦争という名のもとに公然と殺人が行なわれている。しかしこれも自分自身を傷つけ、自分の一部を抹殺していることにすぎないことになる。我々は右足にとって左足が邪魔になったからといって、左足を切ってしまったりしない。何故なら両方が協力しなければ歩けないのを知っているからだ。これは一方が他方を殺すのではなく、自分にとって悪人と思える人でも協力しつつ生きていかねばならないことを意味している。

所長の見解3-神の特性.2悟りを得るための方法を表わすもう一つの表現は、『私は私は』、『自分が自分が』という【我】を捨て去ることだ。これができれば多くのことが見えてくる。我々は自分にこだわっている時、自分という色眼鏡を通して物事を見ている。それは自分の好みや自分の判断基準によって見ているということだ。したがって白い画用紙を茶色のサングラスをかけて見ているようなもので、決して白くは見えない。しかしサングラスを外してしまえば、すなわち我を取り去ってしまえば、物事は容易に正しく見られる。道元禅師は心を空にして無念無想となれば、全てが正しく心に映ると言っている。これは富士山の麓の湖が波一つ立たなくなれば、富士の姿がそのまま映るというふうに譬えられる。少しでも波があれば富士は当然正しく映らない。この波こそが我だということだ。したがって我を離れ、あるいは我を滅却した人は正しく物事を判断し、智恵を得て悟りに至る。逆に我の強い人ほど物事が見えず、判断を誤り、悟りから遠ざかることになる。

とはいえ我を捨てるというのは容易なことではない。それは誰もが感じていることだろう。では我を捨てること以外に悟りへ至る道はないのだろうか。特別な修行によらず、強い意志を持っていなくても悟りを得るなどというのは虫のいい話なのだろうか。実は虫のいい話の通り、容易な道が用意されている。その道とは感謝だ。

左手を怪我して使えなくなった時、人はどう思うだろうか。ある人は左手が使えないことに苛立ち、腹立たしさを覚えるかもしれない。しかし別の人は今まで左手が使えたのがどんなに便利だったかと左手に感謝するかもしれない。この人たちの中には、右手だけでも使えることにさらに感謝する人がいるかもしれない。

感謝には不思議な力がある。感謝を心がけていると次第に心が穏やかになり、物も人もいとおしくなってくる。その具体的な魔法の言葉は『ありがとう』だ。物に対しても、物事に対しても、生き物に対しても、他の人に対しても、自分に対しても、『ありがとう』ということによって自分が変わり、状況が変わってくる。こう言われても半信半疑の人は、自分で実践してみるといい。一ヶ月も経たないうちに、自分や自分の周りに変化が現れてくるのに気が付くだろう。

心穏やかになると色々なことが冷静に見られるようになり、我を張らなくても生きていけることに気が付く。そしてこれを続けてゆくと知らず知らずに我が弱まってゆき、じきに周りを見れば、我の強い人と我の少ない人が見分けられるようになる。ここまで来るとどんどん智恵がついてゆき、物事の本質やからくりが解るようになる。もちろん相手の中に強い我が見えても、それを非難したりはしなくなる。それをすれば再び自分の我が復活することになるのが解るからだ。このように感謝の道は我を無理矢理取り除こうとするよりも、はるかに容易な悟りへ至る道だと言えるだろう。

我々は悟りを得ることによって宇宙の本質である歓喜を味わうことができる。それは歓喜が神の本質であるがゆえに宇宙の本質であり、したがって我々の本質でもあるからだ。最近日本では感謝の道を実践する人が増えてきているように思う。その流れが大きな潮流となり、世界に波及してゆけば、地球は信じられない変化を遂げるに違いない。その行き着く先は、互いを許し、思いやり、助け合い、生かし合う、歓喜に満ちた世界だろう。
                                             
<神の項 終わり>


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