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資本主義経済体制の問題点

根っこにある問題の一つは資本主義経済体制だ。現在の資本主義経済はその構造にいくつかの欠陥がある。そしてその欠陥から様々な問題が生じている。社会主義の計画経済と違って、資本主義経済は自由競争をその基本原理にしている。現在の経済学では健全な経済活動は自由競争によって成り立つと教えている。これは多くの経済学者が今も公理としている信仰だ。しかし歴史を振り返えれば経済社会が健全な状態にあったとは言い難いし、現状を見る限り健全な状態にあるとも言い難い。

資本主義には貧富の格差や周期的な株価の暴落、投機による実経済からの遊離などの問題が付随している。中には自由競争を基本原理とする資本主義経済社会なのだから、所得に差が出るのは当然だと言う人もいるだろう。この意見は一見正しいように見えるが、実はいくつか致命的な誤りを含んでいる。

ソーシャル・ビジネスを提唱したムハマド・ユヌス氏が言うように、これまで人類は人間社会に貧富の差があるのは仕方のないことだと受け止め、その原因を突き止めて抜本的な改革をしようとはしてこなかった。社会主義革命は唯一この格差を解消しようとした果敢な挑戦だった。社会主義の方法は計画経済を実施し、富を平等に分配することによってこれを解消しようというものだった。しかし一時的に希望の光は見えたものの、結局成功には結び付かなかった。その結果を見て多くの人々は、たとえ格差が生まれたとしても、既存の資本主義経済体制を維持する方がましだと考えてしまった。

しかしその後も資本主義経済体制を維持した結果、貧富の差はますます広がり、今や社会や人間関係や人間そのものをも歪める結果になっている。こうした事態が決して良いものでないことは多くの人が認める事実だと思う。ただしこの「多くの人」という表現に我々は注意を向けなければならない。何故ならこの言葉に問題の鍵が隠されているからだ。現在の病める社会という感想は、実は多数を占める負け組と呼ばれる人たちの感想なのだ。数は少ないが、勝ち組と呼ばれる人たちにとっては、それは別に大きな問題ではない。というのも彼らは十分恵まれているし、自らの努力の結果として得た富にやましさはないと感じているからだ。勝ち組の大多数は、人が貧しいのは本人が愚かであるか、怠惰であるか、またはその両方であるくらいにしか思っていないだろう。

ここに重要な認識の欠落がある。飛躍して聞こえるかもしれないが、それは全てのものは関係し合って存在しているという認識だ。これを人類に適用して言えば、我々は一種の運命共同体として存在しているということだ。地球規模で考えれば、膨大な数の絶滅危惧種は、目先の便利さを求める行為や、一部の生物の一方的な繁栄が招いた結果であるのは明白だ。こうしたことは人類社会でも同じことで、一握りの人間が裕福で、大多数の人間が貧しいかぎりぎりの生活をしている限り、全体として社会は病んでいることになる。

貧しいまま見捨てられた人たちの中から犯罪に走る者が出てくるのはこのことを物語っている。スラムに住む人たち、特に子供たちは生まれながらに自分の能力を発揮する機会を奪われている。努力しようにも努力の場が与えられていない。にもかかわらず怠惰と愚かさのレッテルを貼られるとしたらこれを不条理と言わずに何と言うべきだろう。また職種に対する社会的偏見があれば、それも差別意識を生む結果になる。同じ会社においても、一部の高い地位に就く者を除いて、大多数は羨望と屈辱の中に置かれている。これも格差意識を生む温床となっている。また世界規模では国家が貧しくならないために資源を求めて戦争に走ったりもする。イラク戦争を例にとれば、これはアメリカが石油を求めて一方的に仕掛けたものであり、富を維持するための手荒い手段だったと言える。なぜならフセイン大統領は核開発などしていなかったし、戦後アメリカやイギリスがイラク中を探しても、大量破壊兵器などどこからも出てこなかったからだ。

所長の見解3-神の特性.2このように格差というものは様々な困難な問題の生まれる温床となっている。一方が富や権力、テクノロジーや軍事力を持ち、他方は貧困と食糧不足、失業者の増大と社会保障の欠如に喘いでいる。こうした現実が人類社会を歪め、人間関係を歪め、個々の人格さえ歪めている。このことを認識すれば、勝ち組と呼ばれる人たち、勝ち組と言われる国家も、安閑とその富や優越感に浸ってはいられないはずだ。

犯罪やテロリズムは貧困や心の傷から生まれるものだと解釈できる。これは大局的に見れば単なる悪ではなく、格差社会に対する差別された者たちの復讐と見ることもできる。言い換えれば、格差社会のゆがみを是正する力学的な寄り戻しとして、犯罪やテロリズムは働いていることになる。

さて資本主義経済のもう一つの問題は周期的な株価の暴落が起こるということだ。これは一般に避け得ないものとして受け止められている。未だにこれを回避する方法を経済学者は見つけていない。過去の代表的な例としては1929年、1987年、2008年の大暴落が挙げられる。

株に関わる人たちはガウス分布(正規分布)などの統計学理論に基づいて売買を考えると言われているが、今はこの数学モデル自体に欠陥があるのではないかと疑われている。また、ノーベル経済学賞を受賞した学者たちが証券会社に雇われて、さらに複雑な数学的モデルを使って株価を予測し、売買に加わったりしているが、誰一人大暴落を予測できていない。しかも株取引においては、こうした学者を抱える証券会社も、個人投資家も、何故か同じような成果しか上げられないでいる。この現実を評して、『プロフェッショナルがしのぎを削る戦いをしているのだから、アマチュアと大して変わらない結果しか得られないのは当然だ』とかばう人たちもいる。しかし果たしてそうだろうか。複雑な理論や難解な統計学を用いているため、経済学はあたかも高度な学問のように思われているが、物作りを離れて金で金を稼ごうとする株の売買は、結局はギャンブルでしかないため、こうした結果しか得られないのではないだろうか。

資本主義経済においてもっとはっきりしたギャンブルは投機だ。投機は株だけでなく様々な商品、不動産、通貨、債券などを対象にしている。特に商品に関しては、穀物や貴金属だけでなく、盆栽や洋ラン、クワガタや絵画など、数え上げればきりがないほど、その時代時代の様々なものが投機の対象となっている。今や投機は完全に実体経済から遊離していると言っても過言ではない。物を造るわけでもなく、サービスを提供するわけでもない人たちが、昼間から賭博に一喜一憂していながら、世間的には立派な仕事をしているかのように見られている現実が、はたして歪んでないと言えるだろうか。ものの本によると、投機はかなりギャンブル性が高いにもかかわらず、法律に賭博に属さないとの一文があるあるため、彼らは逮捕されないのだという。


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