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スロー・ライフ

スロー・フード運動は人口2万7千人のイタリアの田舎町で始まった。その小さな団体は今や世界中に6万人の会員を抱える大きな組織となっている。田舎町の名はブラ。ブラの本部事務所には『スロー・フード宣言』なるものが掲げられている。以下にその文言の一部を紹介しよう。

『我々の世紀は工業文明の下に発達し、
まず最初に自動車を発明することで、生活のかたちを作ってきました。
我々みんながスピードに束縛され、そして我々の慣習を狂わせ、
 家庭のプライバシーまで侵害し、
"ファーストフード"を食することを強いる"ファーストライフ"という
共通のウィルスに感染しているのです。
いまこそホモ・サピエンスは、この滅亡の危機に向けて突き進もうとするスピードから、 自らを開放しなければなりません。
我々の穏やかな悦びを守るための唯一の道は、
このファーストライフという全世界的狂気に立ち向かうことです。
この狂乱を効率と履き違えるやからに対し、私たちは感性の悦びと
ゆっくりといつまでも持続する楽しみを保証する
適量のワクチンを推奨するものであります。
我々の反撃は、"スローフードな食卓"から始めるべきでありましょう。
ぜひ郷土料理の風味と豊さを再発見し、
かつファーストフードの没個性化を無効にしようではありませんか。』

この場合のファーストはfast (速い、性急な)であってfirst(第一の)ではない。我々は忙しい日々に追われるうち、手間暇をかけて料理を作り、ゆっくり食を楽しむことが少なくなった。これを助長したのがfast-foodであり、現代の忙しさを象徴する言葉ともなっている。それに敢然と反旗を翻し、そのための標語として作ったのがslow-foodだ。しかし彼らが目指すのは単なるslow-foodに止まらず、我々の現在の生活をslow-lifeに変えようというものだ。

我々の多くは日々労働に追われている。労働から離れた時間はストレスの解消と体を休めるためにだけ使われている感じがある。家族や友人とゆっくりお喋りをし、自分の趣味に打ち込んだり社会的な奉仕に費やす時間があるのはテレビドラマなどの架空の現実の中だけのように思われる。それでも多くの人はお金を稼ぐためには仕方のないことと諦めてきた。その結果が『ファーストライフという全世界的狂気』となってしまった。

では改めてゆとりのある生活とはどんなものか考えてみよう。ブラのスローフード協会を訪ねた島村菜津氏によれば、彼女がそこに着いた時、スタッフは村祭りの準備もあって大忙しだったそうだ。電話は鳴りっぱなし、パソコンのキー・ボードを打つ音、両手に受話器を持つ女性の声など、事務所は喧騒で溢れ返っていたそうだ。これでどこがスロー・フードなのだろうと彼女は思ったそうだ。しかしやがてスタッフと話を重ねるうち、少しずつ理解していった。

問題は忙しさの意味だ。天職のような自分に合った仕事に就いている人にとって忙しさはそれほど苦にならないだろう。それどころか忙しい方が嬉しいかもしれない。しかし皆がそのような仕事に就けるわけではないし、自分の天職が何かさえ分からない人も多い。単に生活の糧を得るために義務的に働くのと、好きな仕事に就いて生き甲斐をもって働くのとでは、同じ忙しさでもその負担の度合いは大きく変わるだろう。

所長の見解3-神の特性.2私の描くスローライフは、忙しい忙しくないとは関係ない。問題は心のゆとりだ。たとえば単なる庭いじりでも、自分で設計図を描き、草花の色や木の高さやその配置、咲く季節などを計算して何年も手を抜かずに可愛がり、見た人が唸るようなものを作り上げていく。こうしたことを実際に行なうのはとても忙しいに違いない。しかしそこには創造の歓びがあり、出来上がってゆく達成感がある。ふと手を休めて改めて見たとき、自然と自分が共同して作り上げた庭の美しさに感動するに違いない。そうした心の感動を得られることがゆとりなのだと思う。

即ち食べ物に限らず、人生そのものをじっくり味わおうというのがスロー・ライフなのだ。

一方定年退職した人が『悠々自適の生活』などと言って、散歩やパークゴルフや囲碁・将棋、酒にパチンコなどと遊び呆け、たまに暇つぶしにちょこっと何かをやるくらいのことを私はスローライフとは言わない。単にぶらぶらしていることが別にゆとりではないだろうからだ。そうした気の抜けた生活をしていれば、たいていは早くボケてしまうだろう。

必要なのは学びや創造、新たなことへの挑戦、他との感情の分かち合いなど、要するに生きていることの充実感だと思う。パークゴルフ自体が良くないのではなくて、それがきつかった仕事から解放してくれる一つの逃げ場になっているのなら、好ましいとは言えないということだ。長い間奴隷のように肉体も精神も酷使され、退職した後はひたすら逃げ続けているようでは、『悠々自適の生活』とは言えないだろう。

言い過ぎと思われるかもしれないが、我々はまるで雑巾がカラカラになるまで絞られるように、会社という化け物によって心と体から徹底的にエネルギーを絞り取られている。厳しい職場で頑張り抜いた人は、退職後早死にするとも言われている。経営者も重役も一般の労働者も、文字通り骨身を削って働き、寿命を縮めている。一体こんな社会を誰が望み、誰が作り出したのか。

今まで述べてきたように、こうした現実が生まれた元をたどれば、効率主義と限りない利益追求にたどり着く。我々が誤った資本主義経済体制を是認してきたツケが、いま奴隷のような生活を強いられるという形で回ってきている。きつい労働のために身体は壊れて病気になり、心は壊れて鬱病になり、多くの人がこんなのは人間の生活ではないと思いながら、何をどうしていいのか分からないまま現状に身を任せている。私の見る限り、すでに人々は発狂し始めていて、また多くの人が発狂寸前にあると思う。

では何をしなければならないのだろう。大袈裟に聞こえるかもしれないが、しなければならないのはこの崩壊の瀬戸際にある社会における奴隷解放だと思う。現代はマスコミや教育による巧妙な洗脳が行なわれていて、人々は自分が奴隷同然だと言うことに気付かないよう仕組まれている。まずは自分の置かれた状況がいかに悲惨なものであるかに気付かなければならないだろう。多くの労働者はいつか大金が手に入らないものかと夢見ながら、日々こつこつと働いているかもしれない。だが少しばかりお金が溜まれば、何かが壊れたり何かの必要が生まれたりして出て行くようになっている。

奴隷につてもう少し言うと、歴史上奴隷制度は古代より現代まで世界のいたるところに存在した。戦勝国が敗戦国の民を民族ごと奴隷にした場合もあれば、貨幣経済が発展すると借金や没落によって奴隷の身分に落ちる者も現れた。古代では肉体労働から自らを解放するために奴隷が用いられたが、近代では家庭用労働を担うものとしての価値も生まれ、奴隷貿易が行なわれた。リンカーンがアメリカの奴隷を解放したとして英雄のように称えられているが、それはヒスパニックなどの移民たちの方が安く雇えるようになったという状況が背景にある。当時は奴隷の値段の方がヒスパニックの労賃よりも高くなっていたのだ。奴隷は現在でも、人身売買その他のかたちで、世界に2700万人いると言われている。

自由があるないだけで分ければ一見奴隷はこれだけの数かもしれない。しかし生活の中身を考えれば、世界にはとてつもない数の奴隷がいることになるのではないだろうか。人々は何の奴隷になっているのだろう。それは言うまでもなく金だ。企業にとっても個人にとっても目先の利益、目先の金が全てに優先する獲得目標であり、その結果労働者も経営者も家庭の主婦も失業者も、あらゆる人が金の奴隷となっている。

では現代社会でこの奴隷を解放するために何をしたらいいのだろう。もはやモーゼがエジプトから民を連れ出したり、ネブカドネザル王の死によってユダヤ人が解放されたり、リンカーンが内戦で勝利したりといった形での解放は成就しない。現代では我々は自分が自らを解放しなければ人間らしい人間として復活することは出来ない。その具体的な道がソーシャル・ビジネスであり、スロー・ライフだと思う。

ではその内容について話をしよう。スロー・ライフは地域あるいは地方が主体になって始められる。そこでは農業が中心となり、地域住民の食を支える。多くの人が農業に関わり、他の生活必需品を作る人は僅かとなる。生活必需品とは椅子や食卓であったり、家であったり、衣類や鍋・釜・食器であったりする。そこの住民は、現在テレビで機関銃の弾のように次々と打ち出されてくる新製品のようなものは買わない。洗脳され購買欲を植えつけられて新製品に走るのでは、再び金の亡者の世界を作り出すことになるからだ。そうではなくて、自分や地域の人が作ったものを利用し、高い安いではなく、その心を味わいながら使う生活をする。

また地域での生産は、農業生産・工業生産の両方において化学薬品などの地球と人体を汚す可能性のあるものは避ける方向を目指す。そしてなるべく地域のものを利用することにより、輸送コストを下げ、ガソリンの使用料を減らす方向を目指す。

人は金を持ったからといって幸せになるわけではないので、そこでは地域住民どうしの触れ合いが重要となる。自分の趣向を凝らした作品や生産物を分かち合うことによって、より味わいのある生活を送ることができるだろう。こうした生活が食を味わうだけでなく、人生を味わう道へと繋がると思う。

私の近未来の予感を述べておこう。

経済ばかりに異様に偏った今の世界は間もなく崩壊するだろうと思う。もしそうしたことが実際に起こるとすれば、崩壊はまずは都会から始まるに違いない。何故なら都会は変化を最も早く反映するからだ。我々の時代は過去の時代の10倍もの速さで変化していると言われるが、今や100倍と考えても差し支えないだろうと思う。したがって我々は先の読めない状況の中で生きている。この100年間に起きた大きな株の暴落を予言した専門家もいないし、政治分野ではソ連の崩壊を言い当てた専門家もいない。誰もが1年先のことさえ分からない中で生きている。豊かな感性を持った人ほど、人類がどこを漂い、どこへたどり着こうとしているのか疑問に思い、不安を抱いているに違いない。

我々がソーシャル・ビジネスやスロー・ライフを実現するのが先か、この世界が崩壊するのが先か、今そのせめぎ合いが佳境に入っている。


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