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幼児・学童教育

子供は二歳までは溺愛されてよいと言われている。いや溺愛されなければならない。盲導犬候補の子犬がパピーウォーカーの許で一年間、愛情たっぷりに育てられる。これによってその犬は生涯人間を好きであり続けるという。人間の子供もまず人間が好きになるためにたっぷりと愛情を注がれなければならない。人間が人間を好きになることはとても重要だが、このことはそれだけでなく、将来感情的精神的に安定を失わないためにも欠かせないものだと言われている。不安は大なり小なり誰にでもあるが、たっぷりと愛情を注がれることによって、それは極限的な状況の中でも精神的に瓦解しない一つの歯止めとして機能するらしい。

しかし三歳になった時点で子供は突き放されなければならない。親の側からいえば、身をもって子離れを実践しなければならない。子供は三歳という年齢で自分からは親離れが出来ないので、親の方からこれを行なわなければならない。しかし現在の日本では子供の数が少ない家庭が多いので、これがなかなか難しい状況にある。親が子離れできないのであれば、それなりの教育方針を持った保育園や幼稚園に入れて、保育士さんなどと連携しながら実践しなければならないだろう。ではそうした適切な指導をしてくれる園はあるだろうか。もちろんないわけはないだろうし、それぞれの園が様々な創意工夫をして充実した教育内容の実現のために努力しているだろう。

しかし理想はあっても保育園や幼稚園の経営が、父母の支払う料金だけではなかなか成り立たないということがある。特別なカリキュラムを売りにして高い料金設定をしているところは別として、小規模の園はぎりぎりの収支で経営している。かといって公的機関からの援助金を得ようとすれば、それなりの規定や方針に従わなければならない。きめ細かな指導をしようとすれば当然人件費がかさむので、無認可の私立の園は一般的な料金で斬新なカリキュラムを組むことは難しい現状にある。

これは私立の高校や大学についても言える。教育というものはどうしてもお金がかかるので、政府の援助なしで運営するのは不可能と言っていい。どこの高校も大学も国や自治体の援助を受けて成り立っている。しかし援助を受けるためには国の定めたカリキュラムを守り、国の定めた教科書を選んだりしなければならないため、独自の教育はなかなか難しい。国は教育機関を紐付きにすることによって国民に一律の知識を学ばせ、統治しやすいようにしている。

もし安い料金で充実した内容を持つ園の運営をしようと思えば、他からの援助が欠かせなくなる。それには公的機関からではなくて、民間レベルの援助が必要だ。そこにソーシャル・ビジネスによって得られた利益を充当すれば、思い通りのカリキュラムと健全な経営が実現する。

話を元に戻すと、人間の基本的な性質や能力は3歳から8歳くらいの間に育まれると言われる。独自の幼児教育でマスコミを賑わした久保田カヨ子氏や横峯吉文氏によると、この間に思いやり、忍耐力、集中力を身に付けると、それは生涯失われずに機能し続けるという。このお二方の他にも、数は少ないが画期的な教育方針を実践している園がある。たとえば国語辞典を全員が持ち、本を読んだり作文をする中で、引いた単語のところに付箋をしてゆくようにする。すると園児はその付箋の数が増えることによって、勉強したことの実感を味わえ、やる気を出すという仕組みだ。これによって小学校に入る前に多くの子が漢字を読めるようになり、学童保育に進んだ子は、小学校で新聞が読めるようになる子も出てくるという。

所長の見解3-神の特性.2現在全国一律に行なわれている公立の学校教育では年齢に応じたカリキュラムが組まれ、その水準に達しない子は置き去りにされ、一方で能力を発揮する子は一定の水準を超えないようにされている。小学校から高校までは教科書があるため、この基準は厳正に守られるよう強いられている。したがって子供が持つ様々な能力を引き出すことは出来ないようになっている。

もう一つ日本の教育には重大な問題がある。これを読んだ方は周りの人に聞いてみてほしいが、いま大人になっている人がどれだけ学校で習ったことを覚えているだろうか。もし覚えていたとしても、それをどれだけ活用しているだろうか。英語など、多くの人は最低でも6年間は貴重な時間を費やして学んだにもかかわらず、読める人も話せる人もほとんどいない。英語に限らず数学も社会も科学も国語も、その専門の道に進んだ人は別として、習ったことの5分の1でもしっかり覚えている人がいるだろうか。貴重な子供時代、そして多感な青春時代を学校で学び続けながら、大人になってそれがどれだけ残り、どれだけ役に立っているだろうか。多くの人は勉強していたはずの時代を振り返って、膨大な時間の浪費に不快感と虚しさを覚えるのではないだろうか。

一般の人がこうしたことをおかしいと声を上げて言わないのには理由がある。もしそれを言えば、自分が劣等生であり、怠惰であったことを公表することになると思ってしまうからだ。支配者は人々が自信を持っておかしいものはおかしいと声を上げることのないよう、差別化を教育の中に組み込んだ。すなわち一部の優等生に関しては、彼らが勝ち抜いてきた教育システムを根底から否定することのないよう、他の多くの劣等生に関しては、自信をもって教育の現状を批判できないよう仕組んできた。また勉強の成績という一律の基準による人間評価をして、優等生と劣等生という根拠のない人間評価を定着させた。一体どれだけの人がこの劣等感に悩み、自信を失い、才能を埋もれさせ、自分は大したことない人間だと思い込まされてきたことだろう。この根拠のない有害な差別化をなくするためには、政府に頼らない教育システムが必要だと思う。

さて三歳以降、子供は突き放されて育てられる必要があるが、その間に親や先生や保育士は子供たちからその能力に応じた興味を引き出すのが重要な仕事となる。『これをしなさい、あれをしなさい』というのは、子供たちのやる気や興味をどんどん削いでゆく。様々な取り組みをしている現場の人たちによると、子供たちは興味を持つことによって自分から勉強するようになり、やる気を起こすという。だから大人のやるべきことは、その興味を起こさせるスイッチを入れることだと。

子供は本来様々なことに興味を示す。『これは何、あれは何』、『これはどうして、あれはどうして』と子供は際限なく聞いてくる。それに対して大人はうるさいと思ったりせず、またすぐに答えたりせず、ヒントを与えて考えさせることが重要となる。すなわち自分で考えて気付かせるのだ。すると気付いた時に子供は大きな喜びを味わう。これを何度か繰り返すと、子供は発見と気付きには快感が伴うことを理解する。するとその快感に誘われていろいろなことを考えるようになり、色々なことを調べたいと思うようになる。これがスイッチが入るということだ。

そしていろいろなことを憶えると、人はそれを誰かに伝えたいという欲求を覚える。すなわち教えたいと思うようになる。そこで年長の子に、下の子の面倒を見させるようにする。これは江戸時代に寺子屋で用いられていたシステムだ。物知りの年長の子は教えるためにもっと学ばなければならないと感じ、さらに勉強するようになる。下の子は物知りの年長の子に憧れと敬意を抱き、自分もそうなりたいと思うようになる。下の子は上の子のすることや言うことを真似て、上の子が調べたり勉強したりする姿を恰好いいと感じて同じことをするようになる。ここまで来ると先生や大人はもう特別することはなくなる。すなわち手を離れる。

もしここで親や先生がべったりと子供に寄り添って、ああでもないこうでもないと言っていると、子供はげんなりして全てに興味を失ってしまう。子供の成長には子離れがいかに大事かということがこれからも解ると思う。

もう一つ付け加えれば、上の子が下の子を教える際には忍耐や寛容さが必要なことを先生たちは教えなければならない。それは先生が身をもって示すことによって上の子たちは学んでいくだろう。何故なら先生は子供たちにとって大人としての手本であり、先生のように振る舞うことがあるべき姿だと思うからだ。

興味を示すことによって集中力が生まれ、下の子の面倒を見ることによって忍耐や寛容さが培われる。もし上の子が下の子を怒りつけたりするのを見たら、先生はそれは忍耐や寛容さに欠けることであり、人間として恥ずかしいことだと諭すのがいいだろう。叱るのは相手の行為を改めさせるための愛情の表現であり、怒るのは単に自分の感情に身を任せているに過ぎない。だから先生は身をもって叱ることの意味を伝えるのがいいだろう。

こうして忍耐力、集中力、寛容性、思いやりなどを身に付けた子供たちは、実は親を変える力を持っている。大人が大人を教育しても変えることは難しいと言われている。大人は自尊心が強く体裁を気にするものであり、さらにそれまでの人生で得た考えや態度が染みついているため、現状維持という楽な道からなかなか飛び出ようとしない。しかし子供がどんどん人間として立派になっていくのを見ると、親は驚きとともに子供に敬意を持つようになり、自分もこのままではいけないと思うようになる。これは先ほど言ったスイッチが入ることであり、もしそうしたことが起きれば、子供が親のスイッチを入れたことになる。

このような現象があちこちで起こってくれば、社会は親の教育という大きな負担から免れることになる。またその子供が友達や地域の人たちに影響を与えるとすれば、地域全体への波及効果もあり得る。このように幼児・学童教育というのは社会全体にとって大きな意味を持ち、大きな影響力も持っている。

多くの子供が変われば、社会は僅か10年か20年で変わり得る。これは単なる理屈のように聞こえるかもしれない。しかし現場でこうしたことに奮闘している人たちに我々が何らかの形で支援できれば、その輪は確実に広がってゆくに違いない。国が行なう洗脳教育や行政機関が行なう画一的な教育から離れ、自ら正しいと信じる教育を実践している人たちに、我々が何らかの形で援助し、あるいは自ら仕組みを作っていくことは、世の中をより良くする大きな原動力となるだろう。


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