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5.所長の見解

水はその物理的性質が特異なだけではない。ホメオパシーのように一度溶かし込んだ物質を記憶する。さらに結晶を作るという形で様々な干渉に応えたりもする。一体水の正体とは如何なるものなのだろう。江本氏が実証しているように、水は音楽や風景や人間の想念、言葉にさえ応えている。これまで人類がただの物質と思ってきた水に、宇宙の謎を解く鍵が隠されているのではないだろうか。

足立育郎氏の研究によれば、全てのものにはエクサピーコ(EXA PIECO)と呼ばれる本質があるという。すなわち人間にも動物にも植物にも鉱物にも、さらには人間の作ったカップやストーブや機械や機械の部品にも、このエクサピーコは宿っているという。地上や宇宙空間には数えきれないほどのエクサピーコが漂い、何か形あるものが生ずると、すぐにそこに宿るのだそうだ。

このエクサピーコは中性子と陽子から成っていて、人間の目には普通見えないのだという。それはエクサピーコ(本質)が電子を含んでいないために三次元的に物質化していないからだという。この事実は現代物理学がまだ稚拙なため知り得ていないことだそうだ。彼の説明によれば、実は全ての目に見えるものは、陽子と中性子の原子核に、電子が加わることによって物質化するのだという。さらに驚くべきことに、このエクサピーコ(本質)を構成している素粒子は、中性子が意識そのものであり、陽子は意志そのものだという。

エクサピーコは目に見える物質と共に同じ空間を共有している(すなわち物質世界と重なって存在している)。そしてエクサピーコは自分が宿る存在に、常に宇宙のメッセージを届けているという。人間の場合、頭部に直径20cmほどの球体として存在しているそうだ。そう言われれば仏教やキリスト教の宗教画に、後光や光輪が聖人の背後に描かれているのは偶然ではないかも知れない。

足立氏によれば、人が自然の摂理に沿って愛の行動に出ようと決断した時、このエクサピーコを構成する中性子と陽子の数が一挙に膨大な数に増えるのだそうだ。これによって宇宙からの大量の情報を得ることが出来るようになり、またその情報を発信できるようになるという。

私は『ヒマラヤ聖者の生活探求』に書かれている感動的な場面を思い出さずにはいられない。この本は五巻本になっていて、その中でイエスだけが登場する場面はいくつもあるが、釈迦とイエスが同時に登場する場面もあって、印象的に描かれている。著者はその様子を、イエスはいつものように強烈な光を伴って現れたが、次に釈迦が現れた時、その光はイエスをもしのぐもののように思われた、と記している。仏教では身体全体から出る光のようなものを後光と言っている。これは果たして今風の表現で言うオーラを指しているのだろうか。それとも後光という言葉は、頭の周囲に出る光輪をも指しているのだろうか。いずれにせよ私には、エクサピーコの並みはずれた大きさを表わしているのではないかと思われてならない。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中にも、江本勝氏の『水は答を知っている』の中にも、また足立育郎氏の『波動の法則』や彼のDVDの中にも、共通して全てのものは波動で出来ているという考えが主張されている。宇宙に存在するもの、すなわち物質も想念も感情も愛も意志も、全ては波動の表れであり、波動から成り立っているのだと。

私は彼らの考えが正しいと思うだけでなく、さらに言えば、似た波動は互いに共鳴し合い、寄り集まって一つの『場』を造るのではないかと思っている。そして一旦『場』ができると、その『場』から波動が発信され、似た波動を持つものに逆に影響を与えるのではないかと。これとほぼ同じことを生物学者のルパート・シェルドレイクは言っている。例えば、原野や森林で様々な生き物が一定の場所を通ると、それは獣道となる。そのように一定の人が同じことを考えたり行動をしたりすれば、それが一つの道筋となり、多くの人が通りやすくなる。するとそれは『場』として機能するようになり、さらに多くの人が集まるようになる。これは見方を変えれば、一定の人が同じ想念を持てばそこに『想念場』が出来上がり、その想念場は逆に多くの人に影響を与え始めるのだと解釈できる。

私は実は記憶力を持ったり、写真や言葉や想念に応えたりするのは水だけではないと思っている。江本氏の努力によって水はその表情を容易に表わす物質だと解ったが、他の物質はそれを目に見える形では表わしにくく、我々には読み取れないだけかも知れない。もし全てのものが様々な波動を受け取り、それに波動で応えているとしたら、我々は全てのものと波動でやり取りし、全てのものと共に生き、互いに影響を及ぼし合っていることになる。

問題は水や鉱物や動物や植物は同じ次元の、同じ種類の波動を発信しているのかということだ。 先の波動の本質を見極めた人たちは皆、人間の想念は他の存在と違っていくらでも強くなり得るし、いくらでも振動数が高くなり得ると言っている。そういう意味では、人間は特別な存在であり、聖書に書かれている「神は自らに似せて人を造った」という表現に相応しいかも知れない。これは見方を変えれば、我々は物事や状況をいくらでも悪くできるし、またいくらでも良くできるということを意味するだろう。さらにこの聖書の言葉は「我々は全てを変え得る力を持っている」というメッセージとしても受け止めることができる。

5.所長の見解最後にもう一度水に戻って考えてみよう。先にも述べたように、我々の身体はその大半が水で出来ている。赤ん坊は身体の80%が水で占められ、成長と共にその割合は減ってゆくが、老人でも60%は水で占められているという。この水が何十億年ものあいだ宇宙空間を漂い、あるいはいくつもの星で過ごしてきたのだとすれば、水は宇宙の記憶を持ち、しかもその記憶から得た智恵を我々に伝える役目を担っているのかも知れない。そして今、さらに我々の想念を受け取り、それを記憶し、その想念に応える形で波動を発しているのかも知れない。

湖の水を住職が浄化して神々しい結晶が出来た話をしたが、そのように我々も自らの想念力によって自分の身体の水を浄化できるとしたらどうなるのだろう。もしそれができたなら、我々は病などことごとく治してしまえるだけでなく、全身を廻る水の浄化によって、宇宙のメッセージも聞けるようになるのではないだろうか。我々は現在の歪んだ世の中で育ったために、よからぬ想念によって自分の身体の水を穢して生きてきたのは否めないだろう。だとすれば今、そしてこれから、自分の姿勢を正し、清い想念を持つことによって身体の穢れを浄化できるだろうし、また際限のない欲やプライドや独善的な思いを捨てる努力によって心を清めれば、それによって真に健全な心と身体を得ることができ、宇宙の深い智恵も授かることが出来るのではないだろうか。

<水についての考察の項 終わり>


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