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歩く民―出発

ポーラ・アンダーウッドが記憶させられたイロコイ族の歴史は朝鮮半島から始まる。とはいっても当時のその地域が同じ名前で呼ばれていたわけはないので、その場所は伝承の内容から推定したに過ぎない。実はあまりにも遠い過去なので、伝承から場所を特定するのは容易なことではない。過去の人たちと現在の我々が同じ地図の前で話が出来るわけではないからだ。しかし伝承の全体の流れを見れば、おおよその見当は付いてくる。そうした推理から、彼女の遠い祖先は朝鮮半島の付け根あたりに住んでいたと判断されたのだ。

その時期は今からおよそ1万年前になる。何故彼女の一族がその地を離れることになったのか、はっきりした理由は分かっていない。しかしその地で一族を襲った地震と津波が、出発を決意させる大きな要因だったのは間違いないようだ。当時一族の間ですでに分業(階級ではない)が成立していて、海沿いの平坦な地には知的遺産を担い祭事を行なう者が、山麓や丘陵地帯には農業に従事する者たちが住んでいた。その平和な期間がどれくらい続いたかは分からないが、ある日突然、彼らはかつて経験したことのない大地震と大津波に見舞われた。

一族の知的階層および指導的立場にあった人々は山側から降り注ぐ岩につぶされるという被害に遭った。生き残った者、動ける者だけが海の方へと逃れたが、その後に襲った大津波がこれら生き残った人々もことごとくさらっていった。残ったのは伝承や知的役目を担わない、丘陵地帯など高い所に住む者たちだけだった。残された者にとってこの損失は計り知れなかった。自分たちの存在理由を証する何万年の歴史と知的遺産が、一瞬にして失われてしまったからだ。彼らの精神的苦痛はどれほどのものだったろう。平和ボケした今日の我々日本人には想像も及ばないだろう。

彼らはとりあえず避難のために海からも山からも逃れ、遠く砂漠の地へと向かった。そして辿りついた乾いた地に一時的に留まった。しかし彼らはそれからどこへ向かったらいいか解らなかった。誰もその地に住もうとは思わなかった。

新しい地に踏み入る際、彼らは事前に物見(斥候)を送ることが多かった。物見(ものみ)が例えば一週間分の水を持って出かけ、三日行ってもし水が手に入らなければ、さらに三日をかけて戻って来るという方法をとった。大抵はどこかで水が手に入るので、地形や状況を知るために斥候は数ヶ月をかけて探索することもあった。また大がかりな調査の場合は2、3人で出かけ、期間は数年に及ぶこともあった。かつて実際に、一族の物見が、当時陸続きだった朝鮮半島から日本列島を何年もかけてひと巡りしたと思われる伝承も伝えられている。けれども時には物見はいくら待っても帰って来ないこともあった。そうなるとどんな事情や問題があって帰って来れなくなったのか、永久に知ることは出来なかった。

さて彼らはその乾いた土地から、3人の物見を選んで南と西と北に送った。西と北へ向かった者は帰って来たが、南へ向かった者はついに帰って来なかった。西から帰って来た者は、そこより高いところまで行ったが、その地の水源は涸れていたと報告した。北から帰って来た者は、乾いた土地の向こうに草の生えたところはあるが何処にも溜まり水はなかったと報告した。

彼らは何日も話し合った。すると一人の男が、天啓のようなものを受けて南に豊な土地があるのが見えたが、それはどのくらい遠いか分からないと言った。また一人の女が、自分の兄弟の話では北に歩いた末に草があると言っていたので、草があれば水があるのは道理だと言った。彼女はまた、北の果てで「海の渡り」が出来るかどうか確かめたいと付け加えた。

結局彼らは南へ行く者と北へ行く者とに分かれた。南へ行くことに同意したのは3人に2人で、北へ行くことに同意したのは3人に1人だった。ポーラ・アンダーウッドの遠い祖先は、この北へ行くことに同意した者たちに含まれていた。彼らが別々の地へ向かうということは、今生の別れを意味していた。したがって南へ行った者たちの伝承はここで途切れる。

こうして北へ向かう集団は持てるだけの水を持って出発した。水が尽きる前に砂漠と草原を抜け出せることを願って・・・・・・。


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