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歩く民―10万年の歩み

ここで話を進める前に興味深い話に触れておこう。「我々はどこで生まれたのか」という問いに対する答えを人類いは長い間探し求めてきた。現在の考古学やDNA学や古代史の定説では人類はアフリカで生まれたことになっている。実はこの傍証となるような話がアンダーウッドの語る伝承の中にある。ただしその伝承が数十万年前のものである可能性もあり、その間に大陸が移動した可能性もあるので、アフリカと断定するのは早計かもしれない。また元々どこか違う所に住んでいて、そこからアフリカにやって来て住み着いた可能性もある。いずれにせよこの話は人類史を書き換え、人間観を変えるかも知れない貴重な内容を含んでいる。

彼女の一族が地震と津波に合い、知的階級や民族の長(おさ)がことごとく亡くなってしまったという話をしたが、しかし幸いなことに、丘陵に住んでいた者たちの中にたびたび浜辺に降りてきて智恵ある者の話を傍らで聞いていた女が生き残っていた。一族は津波によって誰が何を記憶しているか分からなくなったため、全員が火の周りに集まって自分が憶えている話を皆の前で披露し、記憶を共有する作業を何日にも亘って行なった。この作業の中でこの女の膨大な記憶は皆で共有されるようになった。実はこうしたことはその時だけでなく、長い歴史の中でしばしば行なわれ、それによって彼らの貴重な話は現在まで受け継がれることになったのだ。

さて彼らの『語り』による最も古い記憶によれば、彼らの祖先は最初森に住んでいた。そこに何万年住んでいたかは推定の域を出ないが、彼らの表現を借りれば「数えきれない夜を経た」ことになる。ところがいつの頃からか、平原が次第に森に押し寄せてきて、端から木々が倒れていった。やがて彼らの多くが森を出て平原で暮らす道を選び、そこで多くの学びをした。しかし残りの者は平原の草地に出るのをためらって、森の奥へと住処(すみか)を替えていった。

(このくだりは『進化論』のところで話した「森から出た猿」理論と一見符合するように見える。しかし新総合論の主張するようにそれが有利だったわけでもなく、適者生存の理論の言うように最適だったわけでもない。そのような論理はいわば机上の空論であって、実は何も語っていない。また森から出ることによって二足歩行が可能になったとする新総合論に対して、ここでは全く語られていない。後に彼らが自分たちの体毛が削げ落ちた理由を述べていることを考えると、この時を境に二足歩行を始めたとすれば当然言及されているはずだ。しかしそれがないということは、ヒトは森の中ですでに二足歩行をしていたと考えるべきだろう。他に注目すべき点は、当時の彼らの行動が今の我々と変わらないことを示している点だ。すなわち新しい世界に向かって歩き出す者と、あくまで現状を守ろうとする者に分かれたことだ。)

彼らは何世代もかけて、それが何万年の期間だったのかは分からないが、平原での学びを続けた。そしてついに彼らは住みなれた平原を離れて北へと旅立った。残念なことに伝承が途切れているため、なぜ彼らが北への旅立ちを決意したのか、その理由は伝わっていない。しかしとにかく彼らは北へ、正確には北の西へ向かった。そして大いなる水と出会うことになる。

彼らが遠くの山並みを越えた時、初めて遥か彼方に広がる大いなる水を見た。その豊富な水に彼らは嬉々となったが、実際に水辺まで降りてそれを口にした時、彼らの期待は裏切られた。それは口にも胃にも苦かったからだ。しかし彼らはそこに留まるうちに、苦い水が様々な恵みを与えてくれることを知った。そして様々な学びをその地で得た。

彼らは海からやって来た自分たちよりも少し大きい「大いなる泳ぎ手」と出会い、理解できない言葉を聞いた。最初はこの者たちを疎ましく思ったが、時には言葉を使わずに意思疎通をしていると思われるこの者たちと徐々に関係を築いていった。そしてその者たちが彼らと一緒に泳ぐのが好きなのだということも理解していった。彼らはこの者たちから最適な泳ぎ方と潜り方を学んだ。

(このくだりは最初は何のことだか解らない。しかし当時の彼らの物の見方を考えれば、これはイルカのような生き物であることが理解できる。彼らは陸の動物に対して単に四つ足と呼び、人間を二つ足と呼んでいた。実際その程度の違いしかないのかもしれない、と考えさせられる。また賢さに関して、想念的な賢さと肉体的な賢さを区別しなかったことも彼らの伝承から分かる。例えば毛皮を着ている生き物が冬に備えてそれを着替える、すなわち冬毛に変えるのは、冬に備えて着替えを出来ない二つ足よりも賢いということになる。)

彼らはその地で長いこと暮らした、と伝承は伝えるが、果たしてこの地はどこなのだろう。彼らが出発したのがアフリカ東部だとすると、北の西で大いなる水に出会う場所は地中海沿岸と考えるのが妥当だろう。

(化石などによる現代考古学の推理は、地中海東部ということになっている。しかし彼らが「北の西」と表現しているところを見ると、いわゆるアフリカ大地溝帯から出発したとするなら、方角は少し違うように思う。そこから地中海東岸は真北になるからだ。地中海東部に到達するためには、出発地はアラビア半島の南あたりでなければならなくなる。ただし十万年前の話なので、当時紅海があったかどうかさえ分からない。氷河が厚く、したがって海水面が低ければ、紅海が陸地になっていた可能性がある。だとすればエチオピア南部またはソマリア辺りと考えることもできる。)

彼らはこの地で長い間暮らした。それがどれだけの長さか解らないほど。

(この「長い間」はとてつもない時間を表わしていると思われる。それは彼らの体毛が落ちていったからだ。後に出会う毛深い人々を、彼らは水の生活が長くないからだと評するところをみると、海で泳ぎ、潜って海産物を採る生活が体毛を減らしていったと彼らが考えていたことを示している。これは現代の考古学の考えるところと大差ない。一方、二足歩行については考古学の考えとは異なる。考古学ではなぜ人間が二足歩行するようになったかを今も説明できないでいる。いくつか仮説はあるが、その中で、浅瀬で長い間採取の生活を送ったために直立するようになったという説がある。しかしこの考えは彼らの伝承とは相容れない。何故なら彼らは海で生活するよりはるか以前から二足で歩き、何世代もかけてアフリカから地中海へやって来たのだから。)

歩く民―10万年の歩み彼らはその地で長い間暮らしたが、人々の数が次第に増えていって住むところが狭くなり、糧を得るのも難しくなっていった。やがていくつかの集団が東へと旅立ってゆき、ついにアンダーウッドの遠い祖先も、海の学びを終えて再び歩く民となり、東へ旅立った。

彼らは数えきれない冬を越え、数えきれない世代を越えてひたすら東を目指した。このユーラシア大陸を横断するという途轍もない旅の途中で、彼らはいくつもの二つ足の集団と出会った。時には彼らより身体が大きく、時には彼らより小さく、また肌の色が少し濃かったり非常に濃かったり、時には薄かったり。もちろん言葉も違っていて、意思疎通に苦労することもしばしばだった。彼らは他の二つ足の集団を見つけると、時間をかけて観察し、どうしたら向こうに敵意を抱かれずに接近できるかを考えた。そうして導いた方法も、うまくいく時もあれば、うまくいかない時もあった。

(このあたりの口述は考古学や歴史学が言うほど人類の拡散は単純でなかったことを示している。学者が言うように人類がアフリカを出たのが9万年前だとして、さらに地中海の沿岸を出たのが6万年前かあるいは3万年前だとしても、すでに様々な人種と言語が存在していたことになる。しかも地中海からの出発は何陣にも分かれて行なわれているし、だとすれば出アフリカ自体も断続的に行なわれたと考えるのが妥当だろう。アンダーウッドの口承から窺われるのは、10万年を遥かに上回る時代に、人類はすでに拡散していた可能性もあるということだ。)

さて一族は数え切れない冬を越えて、他の民族について学び、老いの智恵について学び、植物の種について学びながら東へと旅を続けた。あちこちでしばらく留まりはしたが、再び立ち上がって東へ東へと進んだ。そして長い旅の末に、南に大いなる山並みのある地に辿り着いた。彼らはそこで長いこと暮らした。

(時の経過を冬の数で数える方法は多くのアメリカ先住民の間で最近まで見られたという。だとすれば「冬数え」は地中海沿岸で暮らしていた時からすでに用いられていた可能性がある。何故ならそこには四季があっただろうからだ。またポーラに伝承を伝えた彼女の祖父によれば、南に大きな山並みのある地とはチベット高原の北側の平原ではないかという。さらに「しばらく留まった」とあるが、それが何十年を意味するのか、何世代を意味するのかは特定できない。しかし彼らはすでに種を持ち歩くことを学んでいるので、たとえ「短い滞在」でも、種を植えて何回か余剰分が出るまで収穫し、それを旅立ちに備えて蓄えたはずだから、1年や2年ではなかったと思われる。そう考えれば「長い間」は数世代または数十世代を意味しているのかも知れない。)

それから彼らは再び旅を始め、曲がりくねった大きな河に出会い、その河をどこまでも辿っていった。何故なら河はいつか湖か、大いなる海に流れ込むと考えられたからだ。そしてその予想に違わず、ついに彼らは大いなる苦い水に再び出会うことになった。

(ポーラの祖父はその大いなる河を黄河だと、そして大いなる海に出会ったその場所を朝鮮半島の北または南側の付け根だと考えた。)


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