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歩く民―南下

一族は無事アラスカへ渡り、内陸へと進んで行った。だがそこは背の低い草しかない大湿地帯だった。彼らは物見(斥候)をあちこちへ向けたが、情報は、全く同じ湿地帯が見える限り続いている、というものだった。ぬかるんだ地面と霧のため、火を焚くことも横になることもできなかった。食料も尽きてきたが、植生が変わっているため、何が食べられ何が食べられないかも分からなかった。彼らは植物の根をかじったり、食べられそうなものを口にしながら進んだ。

何日も歩き続けた末に、物見が遥か彼方に山並みらしいものがあると言ってきた。しかし人々はぬかるんだ大地に足を取られながら進むことを躊躇する者もいた。中には元の大いなる島へ帰りたいと言い出す者さえいた。しかし多くの者は再び海渡りをして帰るなど出来ないと思っていた。『智恵の娘』と呼ばれる指導者的な立場の女が皆を勇気づけたが、皆は自らを奮い立たせようとしなかった。ついに彼女は「一族の中でためらうものがいたとしても、私は先へ進みます」と決意を述べた。結局彼らは全員彼女の後に続いた。

一族は飢えと戦いながらついに山並みに辿りついた。そこで彼らは木苺など、わずかではあるが食べられる物を口にした。彼らは早速辺りの調査を始め、その結果大型動物も少し離れたところではあるが棲息していることが分かった。そこで彼らは冬越しに備えて蓄えをした。多くの日が過ぎて、彼らは再び歩き出す決意をした。彼らは大いなる山並みに沿って南へと向かった。

歩く民―南下南下の仕方は、まず元気のいい者が何日か歩いて、適当と判断したところに基地を設営する。そして皆を受け入れる準備が出来たところで前の集落へ伝令を送り、基地へやって来るよう伝える。やがて皆がやって来て合流する。しばらくすると元気のいい若者が次の基地の設営のために南下する。これを繰り返して、一族は徐々に南へと進んで行った。そしてある程度南下した頃、一族は西の高い山並みを越えれば海に出られると考え始めた。そのとき二人の兄弟が物見を買って出た。彼らはどれだけかかろうと、きっと海への道を見つけて帰って来ると言った。

一族は彼らの勇気を称え、これを受け入れた。そして二人は出発したが、冬が来て春が廻っても帰って来なかった。次の冬が越えても、その次の冬が越えても帰って来なかった。一族は少しずつ南下しながら彼らを待ったが、5年が過ぎ、6年が過ぎても二人は帰らなかった。やがて人々はもう二人は事故か何かで死んだのかもしれないと思うようになった。そんな諦めの気持ちが皆の胸にはびこる一方で、若い者たちは二人が帰って来た時に一族を見過ごさないようにと、見張りに立つようになった。そうしてある日、ついに二人の兄弟が帰って来るのを見つけた。

二人と一族が感動の再会をしたのは言うまでもない。彼らは旅の様々な出来事や、諦めそうになった時、互いに助け合いながら勇気を奮い起したこと、海への楽な道を探すために、山から海側へ何度も行き来したことなどを話した。

やがて十分な蓄えをし、荷物の準備をし、一族は二人に先導されて、山や谷や河を越えて難儀な道へと出発した。深い渓谷では北の海渡りのように縄を張って一人ずつ渡った。多くの山並みを越えねばならず、頂と谷と河を幾度も渡った。

(この場所は今のカナダのロッキー山脈だと思われる。)

こうして一族は困難を乗り越え、ついに海に辿り着いた。彼らはかつての「中つ火」の、遠い向かい側に自分たちが立ったことを祝った。

(この伝承から、彼らは太平洋を挟んで、かつて長い間住んでいた朝鮮半島の対岸に辿りついたことを認識していたことが分かる。)

しかし一族は辿りついた海岸線がかつて地震と津波にあった時の地形と似ていたため、海からそう遠くない高台の地を探した。しかし近くに適当な場所が見つからなかったため、少しずつ南の方へ移動していった。すると海岸線に住む別の種族に遭遇した。一族はこれまでのように観察を行ない、徐々に彼らとの接触を試みた。しかしこの種族は極端に保守的で、変化を嫌う民だった。一族との接触の間に、他の海洋民族が彼らの前に現れたが、彼らは民族的に一族よりも近いはずのその海洋民にも冷淡で、接触を拒む傾向があった。かえってその海洋民は一族の方と親しくなる有様だった。

一族はこの保守的な民や海洋民と付き合いながら一定期間海辺に住んだが、やがてこの保守的な民を見限って、すなわち共存を諦めて、再び新たな土地へと旅立つ決意をした。しかしいくら南下しても適当な場所が見つからないのに多く者は嫌気がさして来た。すなわち津波に飲まれないほど海面から高く、しかも海から遠すぎない所で、種を植えて収穫できる場所がなかなか見つからなかったのだ。そこで一族は再び山並みを越えて内陸に向かう決意をした。

しかしここで一つの問題が起こった。それは『あまたの冬を越した者たち(老人)』が大いなる山並みを再び越えるくらいなら、南へ行く方がましだと言い出したのだ。先の保守的な民によれば、山並みに至るまでには大きな乾きの地があり、果たしてどのくらいの期間でそこを抜けられるのか分からないとのことだった。彼らは決してその砂漠には踏み入らないと言っていた。今や86の冬を越えた、かつて『8つの冬を越えた少女』だった女は、昔の大いなる中つ火(朝鮮半島の根元と思われるところ)から旅立った時の乾きの地で、多くの者がじっと大地に横たわったことを語って聞かせた。

(ここで注目すべきはベーリング海峡を渡った、当時8歳だった少女が、今は86歳になっているということだ。これを計算すれば、その時からこの地に至るまで78年の年月が経っていたのが分かる。この時間経過は彼らの語り継がれた歴史から見れば意外に短いと言えないだろうか。それだけ移動が速かったとも言えるが、逆に移動した距離がそれほど長くなかったと言えるかも知れない。)

さてこの渇きの地を如何に超えるかが大きな問題となったが、一族は最後に重大な決断を下した。それはまだ足の短い者たちに永遠に眠ってもらうことだった。ただ大いなる山並みを超える気のない老いた者たちは、自分たちは続けて良い場所を探して南下すると言い、まだ自分の足で歩けない4人の赤子を、一族の足手まといにならないよう引き受けると申し出た。よって一族はここで再び二手に分かれることになった。

その夜この地で最後の宴を開き、宴の最後に子供たちにだけに杯が回された。子供たちはそれを飲んで眠りに就いた。二度と目覚めることのない眠りに。

(この残酷な行為を一族は後に後悔することになるが、他の民族の歴史では抹消されてしまうだろうこうした史実を、彼らは偽ることなく語り伝えている。それは彼らが学ぶ民だからであり、失敗や後悔も、学ぶことによって生かすことができると考えていたからだろう。)

次の日、多くの冬を越えた者たちは赤子を携えて南へ、他の長い足の者たちは東へと旅立った。したがって南へ旅立った者たちがその後どうなったかは何も伝えられていない。


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