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歩く民―サーペント・マウンド

一族はその後オハイヨと呼ばれる川のほとりに住むようになった(これは現在のオハイオ川のこと)。一族はここで何不自由のない暮らしをしていたが、ある時これまでに出会ったことのない種族が接触してきた。胸に丸い金属の飾りをぶら下げ、髪型はこれまで出会ったどの種族のものとも違っていた。一族は胸の丸いペンダントが太陽に似ていたので、彼らを『太陽の民』と呼ぶことにした。

彼らは自分たちは築くことを専門にしていて、ちょうど今、長年かかる大きな仕事を始めるところだと言い、自分たちのところに来て労働力を提供してくれるなら、食べ物(トウモロコシ)と衣類を代わりに提供し、外敵からも守ってやろうと申し出た。これには一族は吹き出しそうになったが、じっとこらえて相談させてほしいと返事した。一族はこの土地では食べるものにも着るものにも不自由していなかったし、自分たちを守る手立ても心得ていたので、わざわざ彼らのところに行って暮し、彼らに労働を提供する必要はなかったのだ。しかし学ぶ民である一族は色々な意見を出し合い、断るのは簡単だが、それによって何か学べるはずのものを失うことになるのではないかという、過去の様々な場面で何度も行きついた結論に今回も行きついた。

一族はこの当時人口が増え、蛇行するオハイオ川のほとりに三つの村に分かれてすんでいたので、申し出に対して、最初は一つの村が3年行き、次に二番目の村が3年、さらに三番目の村が3年行くと返事した。こうして一族は彼らに協力することになったが、彼らが何を造っているのかは分からなかった。何故なら彼らは葦を編んだ大掛かりな覆いで建造物を被って見えないようにし、一族には土を掘っては運ばせるだけだったからだ。また彼らは自分たちの種族の者にさえ全体の形を判断できないようにしていた。

このため一族は一考を按じ、太陽の民が比較的警戒心を抱かないだろう子供を接近させ、喋りたがり屋を見つけて徐々に彼らのことを聞き出していった。この子供は賢く、自分は頭が悪く物事に興味がないかのように振舞っては様々なことを聞き出し、その全てを一族に報告した。このようにして少しずつ彼らの素性が知れてきたが、それは一族にとって驚くべき内容だった。

太陽の民は一族と同じように自分たちの素性をよく憶えていた。話したがり屋によれば、彼らは東の大海の向こうからやって来て、ここからずっと南の地に辿りついたという。一族が東の果てにもう一つの大海があると考えてきたことは、この証言によってその真実性が裏付けられることになった。

歩く民―サーペント・マウンド太陽の民は元々さほど大きくない島に住んでいたが、そのような島に長く住んでいると人々が似通ってしまうことに気付き、山々によって分かれた地形を利用して民を五つの氏族に分けることにした。これによってどの氏族も他の四つとは異なる特徴を持つことを誇りに思うようになった。そして互いの違いを競い合う中から、石の建造技術や帆船の航海術が生まれた。

彼らは他の島々を訪れてはそこに自分たちの里を作った。大陸にも行ったが、遠くに何があるか気になる質なので、大陸には決して里を作らなかった。太陽の民の述懐に次のようなものがある。

『その頃われらは栄え、発展し、われらなりの学びの道を見つけ、最後にはその全部に心から満足するようになった。われらの智恵はたいそう優れていたので、学ぶ以外のことをほとんどしない者が多かった。』

こうして数えきれない年月が過ぎた後、彼らにはどこまでも広がってゆく生き方が普通になり、絶えざる変化も日常の一部となったが、一方故郷の島では継続も日常の一部だった。

しかしある時、大いなる学びを修めた者が祭事の席で恐るべきことを語ったという。じきに空は暗くなり、黒い雨が全ての陸地を覆い、地面は荒れ狂う牡牛のように揺れ動くだろうと。そして自分たちの島々の大部分が消えた後、「初めの島」も大海へすっかり沈んでしまうだろうと。

こうして彼らは自分たちが「世界の中心」と呼ぶ島を離れなければならなくなった。五つの氏族はそれぞれに新しい地を選び、別々に旅立って行った。そしてその氏族の一つが南の地へ辿り着いたというのだった。

太陽の民はその地で、今のように他の民族を使って石の建造物を造っていた。彼らは風で走る船やその他あり得ないようなことをして見せて、他の民族に畏れを抱かせて従わせ、石の建物の造営に協力させた。しかしその事業があまりに壮大で終わりが見えなかったため、使われていた種族は次第に森の中に消えていって戻って来なくなった。そしてある日、彼らが目を覚ますと、都市は完全に静まり返っていた。太陽の民はもっと良い条件を提示して仕事に戻るよう説得するために森の中へ人を送ったが、その者たちは誰一人帰って来なかった。不安を募らせた彼らは、その辺りで一番大きな都市に助けを求めるため、武装した大人数の人々を送ったが、この人々も帰って来なかった。

ついに彼らはその地を脱出する決意をした。彼らは陸路ではなく、海路で北の大いなる水の対岸にあるとわかっている大いなる川を目指した。(この大いなる水はメキシコ湾であり、大いなる川はミシシッピ河だと考えられる。) 彼らはさらにミシシッピの支流のオハイオ川まで遡り、今一族のいる同じ土地へ達した。そして以前の土地でしてきたのと同じように、他の民を使って建造物を造っている。ただ違うのは以前は石で造っていたが、今は土を用いて造っているということだ。

(この件(くだり)には驚くべきことが語られている。まずこの太陽の民はアジア側から来たのではないということだ。主流の学説では、インデイアンと呼ばれていたモンゴロイドは全てアジア側から渡って来たことになっている。しかしここには、大西洋を越えてヨーロッパ側から、あるいは大西洋にあった島から海を横切って現在の中米辺りに渡って来たことが語られている。彼らの故郷は島だと言われていることを考えれば、もちろんヨーロッパではないし、また最後の氷河期を生き延びてきたことを考慮すれば、それが地中海の島だったとも考えにくい。何故なら氷河期には海面が下がって、地中海は大西洋とジブラルタル海峡で分けられ繋がっていなかったか、あるいは干上がっていただろうからだ。

最終氷期(ヴュルム氷期)は7万年前から始まり1万年前に終わったとされているので、この伝承の時間的スケールで言えば、最終氷期を生き延びていなければ彼らは存在できていないことになる。したがって彼らの母なる島は地中海ではなく大西洋にあったと考えるべきで、これはプラトンの伝えるアトランテイスと符合する。

興味深いのは太陽の民の伝承では、故郷の島は五つの氏族に分けられたとなっているが、プラトンのアトランテイスでは、最初に大地から二人のアトランテイス人生まれ、その二人からクレイトという娘が生まれた。この娘は海神ポセイドンと結婚し、五組の双子を授かった。ポセイドンはその子供たちのためにアトランテイスを十の地域に分け、それぞれに与えて王とした、と記している。五つの氏族と五組の双子、そしてそれぞれのために土地を分けたことなどが符合する。

またこの太陽の民は自分たちの故郷を島だったと言っているが、実はアトランテイスには「アトラスの島」という意味がある(他の意味もあるが)。この出会った民の故郷の島も、伝説のアトランテイスも共に海に没しているのは出来過ぎた一致と言うべきだろうか。

歩く民―サーペント・マウンド五つの氏族が沈没前にそれぞれ違う地域に移住したのも、エドガー・ケーシーのアトランテイスに関するリーデイングと符合する。ケーシーはその移住先の一つをエジプトだと言っているが、これはエジプトの神官がギリシャ人(ソロンなど)にアトランテイスのことを詳しく伝えていることとも符合する。またアトランテイス人が移住したもう一つの候補地として、バスク地方が挙げられるだろう。スペインとフランスの国境にまたがって、ピレネー山脈の周辺に住むバスク人はインド―ヨーロッパ語には属さない体系の違う言語を話すので、その出自が謎とされてきた。しかし彼らがアトランテイスからやって来た人々だと仮定すれば、周辺の人々との言語的な違いも納得がいく。事実バスク人の多くは自分たちのことをアトランテイス人の末裔だと言っている。

また太陽の民が三たびの月の廻りを経て大海を渡って来たと述べていることから、一説に言われるバミューダ海域にアトランテイスがあったというのは適切ではないだろう。彼らはもっとヨーロッパ寄りにあった島から来たと考えるべきだろう。

一方、現在学問上ではユカタン半島に残る数々の都市遺跡が無傷のまま捨てられている理由が分かっていない。疫病の蔓延、作物の不作、水の枯渇、森林伐採による環境の悪化など様々な説が唱えられているが、どれも説得力に欠けている。もし都市に破壊の跡があれば戦争という理由で決着がついていただろう。しかしそれも明らかなものは見つからないため説明に窮しているのが現状だ。けれども今見て来たように他民族の労働者が森に消え、呼びに行った者たちが殺害されて戻って来なかったため、危機を感じた太陽の民が都市を捨てて北アメリカ大陸に渡ったとすれば、全てが辻褄の合った説明となる。したがってこの話は学問的観点からも重要な口承だと言えるだろう。)

さて一族は色々な情報と学びを得たが、依然として太陽の民が造っているものの正体は分からなかった。今や大人になりかけた情報をもたらす子供は、ある新月の夜、こっそりと自分たちが造らされている物を手でなぞって歩いた。そしてそれが体をくねらせた巨大な蛇の形であるのが分かった。彼は思った『これは間違いなく蛇だ。こんなものに値打ちなんてあるものか!』

だんだんきつくなる労働にうんざりし、もうこれ以上学ぶものがないだろうと一族が思い始めていた頃、情報をもたらす子供が太陽の民に審問にかけられた。彼は色々なことを意図的に聞き出した疑いがあるとされたのだ。結果的に彼は太陽の民の集落からの追放を言い渡された。しかもそれだけでなく、一族の村に戻ることも禁じられたのだった(当時「追放」という刑罰は非常に重いものだったという)。しかしすでに一族は周到な計画を練っていた。戦うことをよしとしない一族は、夜陰にまぎれて逃げ出すことを決めていたのだ。彼らは星だけの夜を選んで、踏みつけ道が残らないよういくつもの小さな集団に分かれて、歩くことに慣れていない太陽の民が追いつかない速さで別々の方向へ脱出した。もちろん彼らはそこから遠く離れた場所で全員が落ち合うことをあらかじめ決めていた。こうして一族は長く住んだオハイヨの地を捨てて東の大海を目指して旅に出たのだった。

(この太陽の民が造っていたものは現在残っている。オハイオ州アダムス郡、ブルシュ・クリーク河谷の東岸にある。一般にはサーペント・マウンド(Serpent Mound=大きな蛇の盛り土)という名前で呼ばれ、その全長は435m、墳丘の高さは1~1.5m、胴部の幅は6mあり、しっぽの部分は円状に巻き、胴体はくねくねと曲がり、頭の部分は卵を咥えているような形をしている。この頭は夏至の時の日没の方向を指しており、尾は冬至の時の日の出の方向を向いている。

サーペント・マウンドについては学問的な定説はない。いつ誰が造ったかは諸説があるが、どれも当てはまらない欠点を抱えている。したがってこの歩く民の口承は貴重な歴史的証言と言える。しかし学界(あるいは学者たち)はもちろんこの伝承を参考にしたり考慮に入れたりはしていない。今の学問は如何なる分野であれ物的証拠が必要とされるので、口承の類は学問的価値があるとは見做されないのだ。

しかしトロイの遺跡のように、伝承を信じるところから大発見につながったことは歴史上幾度かあり、伝説・伝承・口承といったものの信憑性は見直されるべきだと思う。むしろ過去の歴史書と言われるものの方が、そのほとんどが政治的な介入を受けているため、改竄(かいざん)され作り変えられている可能性が高い。何故ならいつの時代も歴史は為政者にとって都合のよいものでなければならないからだ。これは現在も変わらない。我々の時代は民主主義という価値基準から過去を見ているので、他の政治形態はすべて劣ったものと看做されている。民主主義には良い点もあるが欠点ももちろんあり、こちらの欠点の方は一般に知られていない。)


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