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はじめに

人はどんな問いを持つかによって自らの意識レベルを表明しているのかも知れない。

私は学生時代に『人生の答は得られないかも知れないが、求め続けている限り問いは深まり、次第に神秘的な色合いを帯びて、ついには深遠なる問いへと登りつめる』といった文章を読んだことがある。

画家のゴーギャンは西洋文明から逃れてタヒチへ渡り、最後に描いた大作は『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』という題名の絵だった。私は高校生の時にこの問いに出会い、以後数十年に亘ってこの問いを引きずってきた。その間何度か答が得られた気になったことはあるが、すぐに認識の甘さに気付かされ、自分の浅墓さを思い知らされた。

哲学者のハイデッガーは形而上学的思索の末に、宇宙は無でもよかったし有でもよかったのに『何故この宇宙はあえて有なのか』という問いを投げかけた。それは『宇宙は存在する』と『宇宙は存在しない』とを並べて記述した場合、この有と無は等価であるはずで、だとしたらどちらでもよかったのに、何故我々の宇宙は有の方を選んで存在しているのか、という意味だ。これも私が高校生の時から引きずってきた問いだった。

そして私が引きずってきた根本的で最大のものは『何故我々は意識を持っているのか』という問いであり、同時に湧いてくる『意識とは何か』という問いだった。我々には『私は自分である』という強烈な意識があり、これがために喜びも味わえるが、苦痛に襲われると耐えがたいものともなる。悩ましい人生に耐えられなくなった人の中には自ら死を選ぶ者もいるが、彼らはそれによって意識から逃れようとするのだろう。しかし死んで本当に意識は無くなるのだろうか。臨死体験者の話からすると、そう旨くはいかないようだ。

我々は意識があるがゆえに認識を得ることが出来る。意識がなければ上に述べたような疑問も湧いてこない。ではこの意識の存在は疑い得ないものなのだろうか。デカルトの有名な『コギトエルゴスム(我思う故に我あり)』という言葉は、すべてを疑ってもその疑っている意識自体は疑い得ない、ということを言ったものだった。しかし現在ではこの言葉が自己の意識を保証するものではないことが論証されている。

我々には確かなものであるかどうかは別として、『私である』という避け得ない意識がある。その意識によって世界を見ている。我々の意識が不確かなものなら、我々の見ている世界も現実なのか幻想なのか解らないことになる。果たしてどこまでが現実で、どこからが幻想なのだろうか。後に述べるが、この現実と幻想との間には奥深い問題が横たわっている。

さて私が引きずって来た上の三つの問い(宇宙の存在、人間の存在、意識の存在に対する問い)は一見バラバラのように見えるが、少し考えてみると互いに関係しているのが分かる。すなわち我々は意識があるから宇宙について考えることができ、森羅万象が何故存在するのかという疑問も持つことができる。またそこから人間についての様々な問いが生まれてくる。言い換えれば、まず意識があって、それによって何故宇宙や人間が存在するのかという疑問が生まれ、その延長上に『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』という疑問が生まれる。

現代は大多数の人が目先の欲のために奔走しているので、こういった根元的な問いを発する人はいなくなり、またそうしたことを話題にする場もなくなってしまった。しかしこのような問いが我々の意識から消えてしまったわけではないだろう。闇の支配者による洗脳で、我々はド近眼のように目先鼻先のことしか見えなくなってしまっているが、心の奥底にはまだこうした疑問が息づいているはずだ。

では人類はこれまで、これらの疑問に対して何らかの答えを出したのだろうか。残念ながら既存の宗教が説くような身勝手なドグマ(独断)は別として、定説となっているような答は見出していない。世界には70億もの人間が生きているのに、誰一人これに対する明確な答えを持っていないというのは不思議なことに思える(70億という数字は人が生まれた瞬間から死ぬまで数え続けたとしても、到底数えられる数ではない。何故なら95歳まで生きたとしても時間は30億秒しかないからだ)。もし本当に誰も答を持っていないのだとしたら、人類は全員、宇宙がなぜ存在するのかも、人間が何故存在するのかも、自分たちが何者なのかも、そしてどこから来てどこへ行くのかも知らないことになり、これはある意味不気味なことに思える。

70億もの人間が本当のことが何なのか分からないまま、働いたり結婚したり子供を儲けたりして生きている。ある人は常識やしきたりを守り、ある人は常識やしきたりに反発し、ある人は政治に夢中になり、ある人は金儲けに夢中になり、ある人は特定の異性に夢中になり、ある人は芸能人や流行に夢中になり、またある人は自分の仕事や趣味に夢中になっている。何ら人生や人間について本当のことが分からないのに、こうして様々なものに夢中になれるというのは、考えてみれば不思議なことであり、やはり不気味な感じがする。

歴史上に名を遺した人たちもこれらの疑問にまつわることを述べてはいるが、しかし誰一人完全な答を提示してはいない。宗教の開祖であろうと哲学者であろうとその時代の指導者であろうと、こうした疑問に答えたわけではなく、その時代の多くの庶民や知識人の要望を察知して、その時代の情勢に応じた穿った事を言っただけだ。

答を持っている人が歴史上にいたかもしれないが、その人は公には発表しなかったのだろう。または最初から理解されるとは思わなかったので、自分の胸に仕舞い込んだまま死を迎えたのだろう。昔(あるいは今でも)インドにはそういった聖者がいたらしいと聞いたことがある。彼らは見た目は一介の修行者か、またはただの乞食にしか見えなかったという。一定の敬意は払われていたが、特別誰かに質問されるわけでもなく、本人もわざわざ言ったりしないので、その思っているところはきちんと第三者に伝わることはなかったらしい。

このように、真実を知っていたかも知れないが確証が得られない人を別にすれば、人類は全員自分たちについて何も知らなかったし、知らないことになる。それでも目先のことにかまけて、あるいは訳の分らない何かに執着して生きている様子は、それはそれで逞しいとも言えるが、やはり不気味な感じがする。

人類は自然に進化して今に至ったのか、進化の途中で何者かに手を加えられたのか、もともと高次元霊あるいは異星人に造られたのか、はたまた他の星で生まれて地球にやって来たのか。真実はこれらの中にあるのだろうか。古事記や日本書紀にしても、聖書の創世記にしても、ダーウィンから始まった進化論にしても、また多くの民族が持つ創世神話にしても、どれも確証ある言説だとは言い難い。

では本当に我々は真実を知り得ないのだろうか。実は何千年、何万年も封印されてきたこの大いなる問いに対する答が、いま我々の目の前にぼんやりと姿を現わそうとしている。ただし進化した異星人も高次元霊も、究極の宇宙の真相は突き止めていないらしいので、それはもちろん我々にも開示はされない。しかしもっと身近な疑問の多くについては、答が示されつつある。例えばゴーギャンが自分の絵画の題名にした疑問については、次々と謎のベールが剥がされつつある。ではそれらの答について具体的に見ていくとしよう。


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