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定義

これまで自由がきちんと定義されたことはない。自由という言葉は我々の日常で頻繁に使われているだけでなく、人生哲学とも密接に結び付くものだと思われるが、以外にもその意味内容は曖昧なままだ。

日本に残る記録で、最初に自由という言葉が出てくるのは、約1200年前の『続日本紀(しょくにほんぎ)』だと言われている。ただその意味するところは単なる我儘だった。中国の『後漢書』に出てくる自由も、同じく我儘という意味で使われていた。近代になって日本で自由という言葉が新たな意味を持つようになったのは、1862年(文久2年)に堀辰之助が『英和対訳袖珍辞書』でfreedomに『自由』という訳語を当てたことによるようだ。

しかし英語のfreedomもlibertyも(freedomは古英語から、libertyはラテン語から来ている)、元々は民衆が持ち得ない特権を有した状態を言い表したものだった。階級制度が色濃く残るイギリスでは、中世以来様々な制約の中で生きてきたWorking classに対して、Middle classやUpper classはいわば特権階級だったわけで、そうした人々の状態をfreeと言い表したのだという。

こう見てくると、元々『自由』には深い哲学的な意味などなかったのが解る。では一体いつからどのような経緯で、特別な意味があるかのように考えられるようになったのだろう。実はそこには深い事情があり、隠された歴史的背景がある。

定義西洋で自由に対する特別な解釈が初めてなされたのはエマヌエル・カントによってだ。彼は『純粋理性批判』の中で、自然の因果系列と独立した超越論的自由を論じ、『実践理性批判』の中では道徳法則に自ら従う実践的自由を論じた。その主張は総じて動物的本能からの自由を意味しており、理性の声に耳を傾け、理性に従って行動することが人間を動物と分ける決定的な違いであると説いた。すなわち本能に従うのではなく、自分の意志で理性に従うことを彼は自由と定義付けたのだった。

しかし今となっては二重の意味でカントの主張は正しくない。一つは本能が今や誰も定義できなくなっていること、すなわち本能とは何なのかが解らなくなってしまっているからであり、もう一つは理性とはいかなるものなのか定義できなくなっていること、すなわち理性の正体が今や誰にも解らなくなっているからだ。

本能、欲望、欲求などから自由になり、理性の命じるところに自らの意思で従うというカントの哲学は非常に禁欲的であり、また見方によっては正体不明の『理性』の奴隷になることを意味するようにも思われる。本能、欲望、欲求に支配される生き方から、理性に従う生き方への移行が、本当に自由になるということなのだろうか。

18世紀まではカントと同じように哲学者は皆、理性に信頼を置いていた。しかし19世紀後半になるとその信頼が揺らぐことになる。これは法哲学に顕著に現れる。欧米では最初懲罰刑が主流だったが、これは人間の理性に信頼を置いていたからで、重い刑を科せば理性を持つ人間は罪を犯さなくなるだろうと予想したのだ。しかしいくら刑を重くしても犯罪は減らず、それどころか次第に増えてゆく傾向が見られた。この事実から(他の事由もあったが)、人間は理性的な生き物ではないのではないかという疑問が生まれ、これを機に理性に信頼を置けなくなった学者たちは、犯罪者は罰するよりも教育し直さなければならないと考えるようになった。すなわち懲罰刑から教育刑なるものへの移行が始まった。この刑法の変遷からも、20世紀以降、社会全体が人間は理性的な生きものでないと考えるようになったのが窺える。

現在はさらに複雑な様相を呈している。それはいくら教育を施しても再犯率は減らず、また社会はかつての何倍もの犯罪を生み出すようになっているからだ。したがってそれまでは世界的に死刑を廃止する方向に向かっていた世論が、昨今は再び死刑を容認する傾向に向かいつつある。これは再教育によっても人間は変わらないと多くの人が思い始めたことを意味しており、人々の人間に対する深い絶望感が窺える。


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