現在表示しているページ
ホーム >自由 >自由の正体

自由の正体

では結論を述べるとしよう。自由とは一体どんなもので、実際に存在するものなのだろうか。

闇の勢力にとって真の自由は存在する。それは彼らが全人類を奴隷とし、全人類を牧場で飼えるようになった暁に彼らが行使できるものだ。そうした状況になった時、彼らは人間を生涯過酷な労働に就かせ、労働以外の時間は単に寝るだけの生活を強いることを目指している。すなわち物事を客観的に見つめる余裕を与えず、支配者への批判的な考えも思い浮かばない生活を強いることを目指している。

もしそうなれば彼らが何頭(何人)の人間を意味もなく殺そうと、その肉を食べようと、その髪の毛を集めて衣服を作ろうと、凌辱しようと、彼らの思いのままとなる。これが闇の勢力の言う自由だ。

それではただの我儘、しかも暴君の我儘ではないかと言うかもしれない。確かにその通りだ。しかし残念ながら自由の正体とはこうしたものでしかない。

では多くの人が夢見てきた、甘い香りのするあの優しげな自由はどこにあるのだろう。はっきり言えばそんなものはこの世に存在しない。自由とは他の者を人間とも思わず、自分の意のままに、生殺与奪(せいさつよだつ)できる権限のことをいう。もしそこに少しでも気遣いや法や倫理が入り込んできたら、もはや自由とは言えなくなる。自由とはかくも異常な我儘、かくも残酷で非情な行為のことでしかない。

これだけでは多くの人は納得できないだろうと思うので、何故そうなのかをもう少し説明しよう。将棋にはルールがある。歩(ふ)は前方にひとマスずつしか進めないし、角は斜め方向にしか進めない。これを無視して勝手に駒を動かせば勝負は成り立たなくなる。サッカーにもルールがある。ゴールキーパー以外の人は勝手に手を使えないし、相手をど突いたりもできない。もしこれが許されたらサッカーではなくなる。この不自由の中にあって初めて勝負が成り立つ。ルールに従ってこそゲームが意味を成す。

私が初めてサッカーをした時、手が使えないのはなんと不自由なことかと思ったものだ。誰がこんな馬鹿げたルールを考え出したのだろうとさえ思った。大学のサッカークラブの人たちは相手の足を引っ掛けながら、決して故意ではないと見せかけるにはこうするんだと、自慢そうに話していた。しかし私に言わせれば、なんと姑息(こそく)な根性だろうと思ったものだ。

人間の世界はこのようなルールによって成り立っている。将棋の第一手で、はるか向こうの王将をいきなり歩で取ったら、罰則により負けとなるし、サッカーでも手でボールをシュートしたり、相手を殴ったりしたら退場になる。ではこうしたことに関して、何が自由で何が不自由なのだろう。

一般の人は一定のルールを守りながらも自由は存在するかのように思っているかもしれない。しかし私に言わせれば、ルールを守らなければならない所で何故自由が成立するのだろうと思う。ここにはからくりがある。と言うのも、規則、罰則、掟などがあれば決して自由ではないし、もし自由であるならこれらを意に介さず行動できなければならないからだ。すなわち自由とはルールのないことを意味する。
自由の正体
例えば人間同士の集団の中で、誰かがこの自由を手に入れたとすればどういうことになるだろう。答えは明白だ。周りの者はみな不自由になる。何故なら周りの者は自由な者のすべての言動を甘んじて受け入れなければならなくなるからだ。逆に周りの者がその人間の言動を受け入れないとすれば、その人間は自由でなくなる。したがって誰かが自由である時、他の周りの者が自由であることはあり得ない。すなわち複数の人間が同時に自由であるという状況は成り立たない。これが自由のからくりだ。しかし多くの洗脳された人々は、皆が同時に自由であり得るかのような幻想を抱いている。

実は人間社会は自由な人間の存在を許さないようにできている。自由な人間が一人でもいれば、今述べたように周りの多くの者が大変な迷惑を被り、また沢山の自由な人間がいたとすれば、常に喧騒と戦いの絶えない社会となってしまうからだ。これを避けるためにルールというものを持ち込んだのだが、当然これによって自由はなくなった。しかしその代わり人々は一定の平和を手に入れることができた。

将棋もサッカーも互いがルールを守ることによって試合が成立している。これによって両者が同じ土俵の上で戦える。努力を重ね作戦を練ることも、ルールがあってこそ意味を成す。これは何を意味しているのだろう。自由と平和は両立しないことを意味している。例を挙げて説明しよう。

『女は特定の男を独占しようとし、男は全ての女を所有しようとする』。この文章は何の制約もなければむき出しになるだろう男女の本性を表現している。実際にそのように制約も規範もなくなったら、人々はこの文章のように動き出し、世の中は暴力と戦いに染め上げられるだろう。太古、人類はこうした血で血を洗う時期を実際に経験したと考える学者がいる。その長い暗黒の時代を経験してうんざりした人々は、やがて一夫一婦制という制度を考え出し、あてがわれた一人の女、一人の男で我慢する決意をした。それは辛い決断だったろうが、それによって人々は平和を手に入れたのだと。

このように自由は暴力的な力や政治的な権力を持っている限り心地よいものとして行使できる。今の時代は暴力や権力はある程度お金で手に入れられるので、巨万の富があれれば、真の自由とは言えないにしろ、疑似的な自由は手に入れることができる。しかし何度も言っているように、それができるのは一人、あるいは一握りの人間に過ぎない。したがって皆が同時に自由になるという状況は存在し得ない。そうした幻想を多くの人が持っているのは、闇の勢力が長い時間をかけて彼らの手先であるメデイアや教育機関を使い、子供の時から一般庶民を洗脳してきたからだ。


« 近代における自由の概念| 自由というトリック »