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展望

闇の勢力はもともと単なる我儘を意味していた自由という言葉に、まるで何でも実現するかのような、どんなことでも好きに行動できるかのような、誰もが個性を発揮できてその上互いに認め合えるかのような幻想を付け加えた。世界中の学者、芸術家、知識人、革命家、一般庶民のことごとくがその幻想に心酔し、洗脳された。

だが革命を起こしても、選挙権を得ても、移住や転居ができても、好きなところへ旅ができても、望んでいた自由はどこにも見当たらなかった。何故ならそんなものは初めから存在しなかったからだ。それにも拘わらず地上のほぼすべての人々は、夢のような自由がどこかにあるに違いないと、今もあるはずのない幻想を追い求めている。

では自由というものにこだわらなければ、どんな生き方が可能だろうか。今は多くの人が自由がなければ文明の発展も人類の進歩もないかのように思っているが、そんなものがなくても文明の発展や進歩は可能だし、充実した生き方もできる。よく考えてみてほしい。我々にとって最終目標は自由になることではなく、歓びに満ちた生活を送ることのはずだ。

欧米文化は個人の拡大と自由な行動を目標にしてきたと言える。しかし個人が大きくなれば他との摩擦が生まれ、お互いが自由を標榜すれば争いが生まれる。これは避け得ない現実で、欧米人は長い時間をかけて結果的に戦いの文化を築いてきたと言える。

これに対して日本は共存の文化を育んできた。もともと日本人は欧米人のように自然を征服するなどという考えは持たなかったし、他の動物を支配するという考えも持たなかった。すなわち人間を含め、生きとし生けるものとの共存を目指してきた。そしてそこにあったのは共感という歓びだった。

この支え合い助け合うことを基調とする日本文化に、欧米で生まれた個人の独立や自由や平等といった相容れない概念が持ち込まれたために、多くの日本人は混乱に陥り、道を踏み外してしまった。

我々は本来、個人ではなく共同体、自由ではなく自律、平等ではなく補助の関係を築いてきた。時の権力が横槍を入れることはあったが、概ね日本人はこうした独特の文化を維持してきた

それが壊されたのは明治維新以降であり、さらには第二次世界大戦以降だ。また近年は核家族化が進んだこともあり、、地域住民との繋がりだけでなく、親類縁者や家族間の繋がりも希薄になり、多くの人が孤立を感じて精神の安定を失っている。

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実はここにも一つのからくりがある。戦後の初めのうちは、核家族は様々なしがらみから人間を解放してくれる快適なもののように思われたので、これを多くの人は自由と勘違いして求めた。しかしやがて困った時に手助けしてくれる人も、悩んでいるときに助言してくれる人も、何気ない日常会話でストレスを解消する相手もいないことに気付き、孤立と焦燥に打ちひしがれた。それでも多くの人はその原因が人間関係の希薄さにあるとは思わず、ただ漫然とテレビを見て過ごすうちに心の病を深めてしまった。

明治以来、日本の支配者や知識層の欧米文化崇拝が続き、戦後は戦勝国による徹底した欧米文化の注入(洗脳)が行なわれたため、今になって原因は欧米文化の悪しき影響だと説明されても、多くの人はピンとこないまでに蝕(むしば)まれている。

では最後に、日本人は何を改め、どこへ向かえばいいのかを述べたいと思う。

先に言った『個人ではなく共同体』というのは和の文化を意味しており、和には許しの気持ちが含意されている。許しとは『水に流す』ことであり、桜が儚く散るように執着しないことだ。どんな極悪人に対しても、改心すれば過去の事は水に流して忘れる。こうした日本人の優れた生き方が、恨みや戦いとは逆の、許し許される関係を作り上げ、和の文化を育ててきた。

これは恨みを何百年もの後世へ伝える中国や、相手を打ち負かすことに執着した欧米の文化とは決定的に違う点であり、日本文化の誇るべき特色と言える。

また『自由ではなく自律』というのは我儘や欲望や怠惰に身を任せるのではなく、自らを律して相手を気遣うことを意味している。戦後の日本人は欧米文化の形だけを真似て、誤った生活スタイルを取り入れてしまった結果、多くの人が自律ではなく依存の気持ちを増大させてしまった。すなわち夫は妻に、妻は夫に、子は親に、親は子に依存して生きるようになった。そのため社会は性質(たち)の悪い子供たちの集団のような様相を呈するようになった。多くの人は社会人としては自律を装っているが、家庭で染み着いた依存の体質は他人(ひと)と深く付き合うにつれて表に現れ、その結果信頼や友情は醸成できず、次第に疎遠となって孤立を深めることを余儀なくされている。

自律とは自分自身を律することであり、依存とは対極にある概念だ。他人(ひと)とうまく付き合うにはまず自分を律することが必要であり、それができて初めて思いやりや気遣いができる。自分を律することのできない人は、他人のためにというより自分の欲のために、すなわち自己満足のために行動するので、最終的に他人に迷惑をかけることになる。これは今解明してきた我儘を意味する『自由』と変わりない。

日本人は自律の文化を育んできたので、愛情と溺愛を履き違えることはなかった。すなわち依存からくる溺愛に陥ることはなかった。必要であればあえて他人を叱りもし、助けもする。それは自分を律しているからこそできる行為だった。しかし今は多くの人が自律していないため、怒りを顕にするか、相手に頼るかしかできないでいる。

そして『平等ではなく補助の関係』というのは、自己を律することのできる人間同士が互いの不足や欠点を補う関係のことだ。そこにあるのは愛でもなく自己満足でもない。それは単に陰になり日向になりながら相手を支えることであり、それ以上でも以下でもない。我々はみな誰かに支えられ、助けられて生きているのであって、自分独りで生きている人などいない。

もしこのことが理解できないとすれば、その人は相当鈍いと言わざるを得ないだろう。我々は勝手に大人になったわけではなく、祖父母、親、兄弟姉妹、従兄弟・従姉妹、友人、知人、先生、先輩、後輩、生徒などに教わり、支えられ、助けられて生きてきた。だとしたら自分もそれを他の人にできていなければならない。それは人間として一人前である最低の条件だろう。皆がそうした行為ができるようになれば、世の中はもっとまともで健全なものになり、人間関係もはるかに円滑になるだろう。

自由と同じく、平等という言葉にもトリックがあって具体的なことは何も意味していない。これについては次の項で詳しく述べるが、我々は平等という言葉に囚われることなく、日本人が育んできた支え合い、助け合う文化を、この時代だからこそもう一度実現しなければならないと思う。

欧米文化が生んだ個人や自由や平等といった概念は日本人の心を蝕み、人間関係や生活スタイル、延(ひ)いては人生哲学まで変えてしまった。中でも『自由』という言葉は多くの日本人に亡霊のように付きまとい、精神そのものを破壊しつつある。我々はこの事実に気付き、悪夢から醒め、日本の文化に根差した『自律』という概念をもう一度育てて実践すべきだと思う。

<自由の項 終わり>


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