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<哲学的な意味での平等>

平等は近代ヨーロッパにおいて、デカルトやヘーゲル、ルソーなどの哲学者によって論じられ、一定の定義がなされた。しかしその後彼らの思想の欠点や不完全さが指摘されるようになり、今では彼らの考えを全面的に肯定する人は、一部の学者を除いていない。一部の学者とは相も変わらず欧米文化崇拝を押し通す、時代錯誤はなはだしい大学の先生たちだ。

デカルトは『生まれながらにして理性(または良識)が万人に平等に与えられている』というふうに述べているが、彼がコギトの根拠にしたのはこの理性だ(コギトとは正確には『コギト・エルゴ・スム』というラテン語の文で、『我思う、ゆえに我あり』と訳されているもの)。

これに対する疑問の一つは、何故万人に平等に理性(または良識)が与えられていると言えるのかということだ。これを論じるにはまず理性というものが定義されなければならないが、デカルトの時代と違って、今では理性を明確に定義するのは不可能だと理解されようになっている。すなわち理性的という表現は今でも時々使われるが、理性そのものは死語となってしまっているのだ。

また万人に平等に与えられているという時の『与えられている』という表現だが、これは日本人が解釈すると全く違う意味になる。何故ならこれは神、すなわちエホバから与えられているという意味だからだ。しかしそう言われて解釈し直しても、現在では神の存在を認めない人がたくさんいるし、神の定義も多様化しているので、人々を納得させる表現にはならない。

そして最大の問題は『万人に平等に』という表現だが、これは単なる幻想に過ぎない。というのも、自分の周りを見ても万人に平等に与えられているものなど見当たらないからだ。極論すれば人間は生まれつき平等ではないからだ。

理性(または良識)が無条件に神によって平等に与えられているというのは、デカルトが生きた時代背景の中では、理想として掲げてもおかしくはなかったろう。しかもこの理性は彼ら近代哲学者が定義した目新しいものであり、まだ一般の人には十分理解されていなかった。しかし当時の哲学者は崇拝されかつ権威を持っていたので、多くの人は理性なるものを人間の新たな可能性のように感じていたのだった。

平等の三つの顔けれども今となっては理性がどんなものなのか、専門家(哲学者や心理学者)も一般の人も、誰も説明できないので、その理性に絶対的信頼を置くことはなくなった。どちらかと言うと我々は、よく解らない理性よりも個別の能力に目が行くようになっている。すなわち個々人の持つそれぞれの能力の違いに目が行くようになっているように思う。例えば人はそれぞれ記憶力の違いによって知識の量は変わるし、推理力や論理力もそれぞれ違うので、個々人の能力に違いが出るのは当然と考える。したがって近代哲学者がイメージした絶対的理性が平等に与えられているなど、もはや真実を表現したものだとは誰も思わなくなっている。

ところで、このような哲学上の問題から離れても、我々は生まれつき平等ではない。人はそれぞれ容姿も違うし、生まれた国も生まれた家も違う。したがって貧富の差は最初からあるし、様々な差がある。興味の対象もそれぞれ生まれたときから違うので、学校の勉強に向く人と向かない人がいる。学校というところは人間の評価基準が一つしかない異様な世界なので、勉強に向く人と向かない人との間で差別が生まれる。

ここでヘーゲルの平等に関する主張について言及しておこう。彼の言葉は深く考えると訳が分からないが、普通の人には心地よく響く。彼の言葉を要約すると以下のようになる。

『国家においては個人の独立が保障されながらも市民社会の不平等が克服され、個人は国家という有機体の一員になり、その精神は真の自由を獲得する』

まるで優等生の模範解答のような文章だが、よく考えると何を言っているのか解らない。『個人の独立』などという言葉を聞くと、欧米文化に洗脳された今の日本人は恰好よく感じるかもしれない。しかし文化の構造が基本的に違い、社会の単位としての人間の在り方や、地域や国家における人間のあり方も違っているので、日本でこの言葉を使うと決して欧米人が考えるような意味にはならない。結論だけ言うと、前項の『自由』のところでも述べたが、個人の独立などというのは日本では通用しないし、それが現実にあるかのように思っているとしたら、その人は欧米文化に侵され、洗脳されて幻想に浸っているだけだと言うことになる。(前項の『自由』を参照)

次の『市民社会の不平等が克服され』は奴隷が使われていた時代背景を考慮に入れなければ曲解してしまう。最近のアフリカ学によって明らかにされたことだが、実は黒人を野蛮で人間に値しないとなどと言い出したのは西洋ルネッサンス期の有名な思想家たちだ。しかし近代の終わり頃にようやく、黒人を奴隷の状態にしておくのはよくないという意見が出てきた。とはいえこのことによって黒人が解放されたわけではない。そんな崇高な話ではない。単に黒人の暴動が手に負えなくなったからだ。要するにここで言う平等とは、奴隷のような人間がいない社会を意味しているに過ぎない。もしヘーゲルが現代の日本の状況を見たとしたら、問題のない平等な社会だと思ったことだろう。一見したところ今の日本では、人間として扱われていないような人は見当たらないだろうからだ。

また文中の『市民社会』についてだが、この市民という言葉はもともと古代ローマで生まれたものであり、その語源はcivis(キヴィス)にある。これが後に英語ではcitizen(シチズン=市民)となり、そこからcivilisation(シビライゼーション=文明)という言葉が派生した。当時の市民とは政治に参加できる成年男子であり、女性や奴隷と違って、『人権』を持ついわば特権階級の人々を意味した。したがって『市民社会』は人権を持つ個人を基本として構成された共同体を意味しており、だとするとそうした概念は今も昔も日本にはない。今の日本にその概念があるとしたら、欧米の法体系を真似て作った六法全書の中だけだ。

次の『国家』という言葉はさらに解りづらい。日本は鎌倉時代から江戸時代まで、いわば軍事政権による支配が行なわれていたわけで、藩を意味する国の意識はあったものの、日本というはっきりした国家の意識は持ってこなかった(持ち始めたのは元寇の頃からではないかという研究がある)。明治以降、欧米を真似て作った近代国家としての日本は、こうした欧米文化が育んだ『個人や権利や自由や平等』の内容を土台としたものではなく、単にそれらの形を真似ただけの国家だった。それなのに知識層を含め日本人のほとんどは、日本の『国家』が単に言葉だけを借りた空疎なものであることに気付いていない。

最後の『自由』も同じく欧米文化の中で生まれたものであり、そういう下地を持たない日本に言葉だけ持ち込んでも、ちんぷんかんぷんで誰も理解できず、せいぜい曲解するのが関の山というところだ。

ヘーゲルやルソーについてはまだ述べるべきかもしれないが(例えば抽象的平等や実質的能力の平等、個性化の実現、また教育の平等など)、しかしそれを述べても有意義なことはあまりないので、この辺で『平等の三つの顔』の一つ目、『哲学的な意味での平等』を終えることにする。


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