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<法的な意味の平等>

次に法的な意味の平等について述べよう。日本国憲法・第14条には次のように書かれている。
『すべて国民は、法の下(もと)に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』

この一文を学生時代に初めて読んだ時、なんて素晴らしい文章なんだろうと思ったものだが、後になってから現実には差別があることや、この条文自体にも問題があることが分かるようになった。

この憲法が制定されてから長い間、アイヌ人や在日朝鮮人への差別は続いた。また女性の社会および家庭内での差別的な状況も長く続いた。政治的にも、労働組合員と非組合員では昇進の差別は存在した。細かく言えば限がないが、現実には多くの差別がこの憲法制定以降も続き、現在もなおある。すなわち法的な意味でも平等は実現されずにいる。

そんな中で解りやすい、あるいはある程度実現しているように見える平等がある。それは刑罰だ。一般の労働者であろうとヤクザ者であろうと一国の首相であろうと、例えば詐欺を働けば同じように罰せられるということだ。政治的な力が影響を及ぼすことも勿論あるが、三権分立の一翼を担う司法の独立が建前として成立しているので、そうした意味では平等に裁いていると言えるだろう。建前としてというのは、立件以前に闇の勢力の意向が働く場合があるからだ。闇の勢力の意向に沿うか沿わないかによって立件されるかされないかが決まり、立件されてしまえば多くの場合、法的に平等に裁かれる(正しく裁かれるという意味ではない。単に同じ罪に対して同じ刑罰が科せられるという意味だ)。

もう一つ比較的わかりやすい平等がある。法学的には平等という言葉には二つの意味があるとされている。一つは機会の平等であり、例えば経済活動などに関しては機会が平等に与えられているという意味を持つ。もう一つは結果の平等であり、例えば経済活動などの結果(給与など)を平等にしていくという意味を持つ。

建前としては資本主義経済社会も社会主義経済社会も、機会は平等に与えらていることになっている。ただしその結果に対しては、資本主義経済ではそれぞれの努力と能力に応じて受け取り、社会主義経済では平等に分配されるというのが理念になっている。

しかし厳密にはこれらはどれも実現していない。現在の日本で経済活動の機会が平等に与えられているかというとそうではない。金のないところで、アイデアのみで成功する人もたまにはいるようだが、普通の家庭に生まれた多くの人が起業するための資金を得るのは容易なことではない。資本主義経済の初期の段階で、いったん資本を形成した者はさらに儲け、持たない者はますます貧しくなるという現象が起きた。現在大企業として存在する会社の多くは、明治以降の資本主義導入の初期に財を成した人たちが所有していたものであり、財閥解体後の現在もその名残を留めている。一方現在の社会主義国家において、所得の配分が平等に行われているかというとそうではない。かつての東欧諸国でもそうだったが、今も社会主義社会では高い地位を得た者の多くは、賄賂をもらって一般庶民を搾取している。

かつて言われたことだが、『能力に応じて働き、能力に応じて貰うのが資本主義社会』であり、『能力に応じて働き、必要に応じて貰うのが社会主義社会』だという解釈があった。この文の前半について言うと、一見人は能力に応じて働いているように見えるので穿った表現のように思われるかもしれない。しかし現実には、人はある仕事に対する能力が全くない場合その仕事に就くことはない、ということを言っているだけだ。すなわち人は誰も自分ができない仕事には就かないので、能力に応じて働いているように見えるにすぎないということだ。

ではこの二つの文章の後半はそれぞれどういう意味だろう。『能力に応じて貰う』というのは際限なく利益を追求できる社会構造を前提にしている。すなわち多くの富を手にする人はそれだけ能力があると見做されるということであり、これは現在の資本主義社会そのものと言えるだろう。一方『必要に応じて貰う』というのは人類の理想のあるべき姿のように思える。しかしソヴィエト連邦や北朝鮮などの社会主義国家における実験では、この点が経済の凋落を招く結果になった。何故なら必要に応じてもらえるなら、人は特別な努力などしなくなるからだ。

残念ながら経済は個人の欲望と密接に結びついており、自由競争と言えば聞こえはいいが、資本主義は単に金の欲を剥き出しにして経済活動を行なうことによって成り立っている。一方その個人の欲望を封じた社会主義は、最終的に経済の麻痺という結果を招いた。

このように『機会の平等』は法律では保障されているが、それは資本主義経済においては最初になにがしかの資本(金または不動産など)を持つ者同士の間で通用するが、持つ者と持たない者との間では成立しないというのが事実だ。また社会主義経済においてはコネクションや賄賂によって大きく機会が変わるため、こちらの方も平等とは言い難い。

また『結果の平等』は、資本主義経済ではもちろんあり得ないし、社会主義経済においても、中国やベトナムや北朝鮮を見ればわかるように、世界のどの社会主義国家もこれをを実現していない。

以上、法的な平等は憲法では謳われてはいるものの、内容を突き詰めていくと色々と問題があるのがお分かりいただけたと思う。イギリスのマグナカルタ(1215年)や権利の請願(1628年)、権利の章典(1689年)は近代の憲法概念の基になったと言われているが、ここであえて一言付け加えておくと、そこで謳われている平等は、闇の支配者が一般庶民に『自分たちは平等だ』と思わせておくための策謀の一つであったとも見ることができる。したがって我々は何が本当は平等なのかを、もう一度最初から考えてみる必要があるだろう。


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