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<漠然とした雰囲気としての平等>

では三つ目の、一般庶民が持つ漠然とした雰囲気としての平等について考えてみよう。この項の最初に挙げた『平等な社会』、『平等に働く』、『平等な関係』、『男女平等』という言葉について改めて検討してみよう。

最初の『平等な社会』は今言った機会の平等や結果の平等を意味するとも取れる。しかし我々が一般に使うとき、それは不公平も差別もない、したがって争いもない平和な社会を念頭に置いているのではないだろうか。しかしよく考えてみると、争いも不公平もない平等な社会とは実際にはどんな状態を言っているのか解らない。具体的に考えてみよう。例えばPTAの『履き違い』たちが考え出した『一緒にゴールする』のと同じく、会社で皆が社長になれば平等なのだろうか。あるいは皆が平社員になれば平等が実現するのだろうか。

『船頭多くして船山に登る』という諺があるように、皆が社長ではそれぞれに自分のやり方を主張して会社経営は成り立たなくなるだろう。また平社員ばかりで社長のいない会社はどこに向かうのかも分からない幽霊船のようなものになるだろう。こんなおかしげな平等が社会の中で成り立つはずはない。

この事例のどこがおかしいかというと、上下関係を差別と受け止めるところにある。もう一度話を戻すと、運動会では勉強のできない子が足の速さを発揮したりして、別の能力の競い合いがあるわけだ。人間には生まれつき違う能力が備わっているので、勉強が得意の子もいれば、運動の得意な子もいる。まずはこの『違いがある』ということを認めなければならない。これは平等以前の問題であり、人間に対する基本的な認識だ。

もし運動能力に違いがあることを差別と考えるなら、足の遅い子が、そのことによって足の速い子に差別されていることになる。だとしたらこれはいったい誰の責任なのだろう。『一緒にゴール』を考え出したPTAの履き違い連中は、本当に足の速い子に責任があるとでも思ったのだろうか。運動能力の違いを差別と解釈するなら、同じ理屈で勉強のできない子は勉強のできる子に差別されていることになる。

人間に能力の違いがあることが差別だとするなら、差別をなくするためには全員が同じ能力しか持たない規格品の人形かロボットになる以外にない。かの履き違い連中はそれで満足なのだろうか。

もし全人類が同じ能力しか持たなければ、芸術はおろか映画も小説も、友情や思いやりさえ存在しなくなる可能性がある。なぜなら想像力が同じなので作るものが同じになって何も面白くなくなり、また同じことを考え同じ感じ方をするので他の人間に対する興味も生まれなくなり、したがって友情も育まれず、その先にある思いやりの気持ちも生まれなくなるだろう。

足の速い子と遅い子の間に差別が存在するなら、これはもはや人間的次元の問題ではなく、自然なり神なりがなぜそのような差別を与えたかという問題になるだろう。ではどのようにしたらこの問題は解決できるのだろう。問題のからくりは次のところにある。

話をややこしくしているのは人間の違いを差別と捉える捉え方だ。勉強に向いている子、向いていない子。走るのが得意な子、苦手な子。これらは差別などではなくて単なる違いに過ぎない。人間は互いに違うから多様性に富んだ社会を作れるし、また違いがあるから他人(ひと)に興味を持って友達にもなれる。多様性のない社会は予想外の事が起こったときに簡単に崩れてしまうもろいものとなる。

展望我々は70億人が集まって人類という全体を形成している。70億人もいるのに自分と同じ人間が二人といないのは奇跡のように思われる。これと同じように自然は二つと同じものを作らない。野の雑草を見てみよう。同じように見える雑草の一本一本も、そばでじっくり見ると同じものは存在しないことに気付く。周りを見渡してみても全く同じものはない。もし同じものがあるとすれば、それは人間が作り出したものだ。これを逆から見ると、人間に違いがあることが、我々がロボットのような既製品でないことの証だと言える。

では次に『平等に働く』という言葉について考えてみよう。もうここまで来れば解釈は容易だと思う。すなわち会社で上下関係をなくしてしまえば会社の経営は成り立たなくなる。履き違いの連中はここでも差別という概念を持ち込むかもしれないが、上下関係は一種の役割に過ぎない。新商品を開発するにしても、新商品の販売戦略を練るにしても、皆がそれぞれの意見を言い合うばかりでは統制が取れず、何一つ成し遂げることはできない。

社長は全体を見渡して、商品開発や販売戦略や資金調達まで、それらのバランスを考えながら会社運営を進めなければならない。商品開発の部門の者は販売戦略や資金調達などの煩雑なことに関わらず、新商品開発の一点に集中しなければならない。こうした姿はそれぞれの立場の者が、自分の持ち場で精一杯努力しているだけのことだ。そこに平等という言葉にかぶれた連中が『差別』などという概念を持ち込むから混乱が生じ、訳が分からなくなるのだ。

次の『平等な関係』もこれらのことから推し量ることができる。同じことをするのが平等ではなく、違うことをしながら互いの役割を尊重し合うのが平等ということだ。日本人は本来上下関係をうまく作ることで機能的な社会を構築していた。それは先輩や上司が後輩や部下をかわいがり、時には厳しく当たって高度な技能や文化を引き渡し、後輩や部下は先輩や上司に敬意を持ち、時には辛い思いをしながらも、信頼して技術や文化を受け継いできた。

そうした関係に差別や平等といった概念は持ち込まれることはななかった。明治以降、そして戦後、欧米人のそうした概念が持ち込まれたため、日本人の関係はおかしくなっていった。自由もそうだが、平等も日本の文化や日本人の感性に合わないものであり、それを無理に持ち込み当て嵌めようとした結果、様々な問題を生み出すことになった。私たちの祖先はそうした概念とは関係なく生きていたし、自由や平等とは違う基準で人間社会を捉えてきた。今我々が不安定な時代を生き、勝ち負け、上下を競っているのは、多分に欧米人の考え出した自由・平等・権利といったものに惑わされ、翻弄されているからだ。

結論として一言で言い表すなら、『平等とはお互いの違いを認め合うこと』ということになるだろう。履き違いの連中のように差別と区別を混同している限り、この結論には辿り着かない。


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