現在表示しているページ
ホーム >平等 >総括

総括

平等という言葉はここ数百年、麻薬のように人類を蝕(むしば)んできた。ヨーロッパで生まれたこの概念は自由や人権という概念と共に、中世から近代へと時代が変貌を遂げる際に重要な要素として働いた。西洋で起こった文芸復興、ロシア・中国から始まって東欧・中南米へと波及した社会主義革命、西欧諸国の植民地支配に対する独立戦争。これらの出来事に平等や自由という概念は大きく関与した。

しかしその行き着いた先はどのようなものだったろう。哲学的に言えば、個人と個人のせめぎ合いと、勝ち負けにこだわる世界だった。それは個人の拡大を基調とした欧米文化の避け得ない結果だったとも言えるだろう。また経済的には、その行き着いた先は際限のない利益追求と効率一辺倒の経済体制であり、これは多くの人々に深刻な心の病をもたらした。

結果的に見ると『自由、平等、個人、権利』といった欧米文化が培った概念は、決して人類を理想郷へとは導かなかった。すなわち一人一人が生きがいを持ち、平和で安定した社会の中で豊かさを味わいながら生きるというふうにはならなかった。個人の尊重だの、権利だの、自由だの、平等だの、これら耳に心地よく響く言葉は、最終的には人類を幸せにはしなかったし、人類の社会を住み良いものにもしなかった。

実はこの指摘は1930年代にすでになされていた。一部の欧米の知恵ある人たちは、このまま欧米文化が世界を席巻していけば、多くの人が自分の権利や自由を主張し始め、個人と個人、家族と家族、国と国がせめぎ合う事態となり、否定と争いによって人間関係と国家関係が破綻し、それによって社会及び国家は崩壊に向かうだろうと予測していた。彼らは、もしそれを避け得る道があるとすれば、東洋の思想に学ぶ以外にないことも知っていた。

しかし多くの人はそんなことは思いもせず、単純に自分の権利や利益ばかりを求めて活動を続けた。その結果資本主義経済圏では一時的に金を手にする者が多く現れ、これらの人たちは皆有頂天になった。社会主義経済圏でも一時的に個人の所得が増え、国によっては資本主義国を凌駕したこともあって、彼らもまた単純に有頂天になった。

このような目先の欲に囚われる現象は、個人の次元だけではなく国家の次元にも現れた。社会主義国と資本主義国は互いの間で露骨に自己主張と権利の主張を行ない、互いに不信を深めていった。双方は不信から、戦争に備えて核弾道弾(ICBMなど)の大量生産に向かっていった。しかもアメリカとソ連の超大国は周辺の弱小国を脅して配下に治め、言うことを聞かない国は武力で侵略して属国のようにし、世界を二つの勢力に分けていった。

このように欧米文化が生んだ『自由、平等、個人、権利』といった概念は、知恵ある人たちが予測した通り、人類を破滅の道へと誘(いざな)った。そして平等は初めは単に王権の支配からの脱却を意味する言葉に過ぎなかったにもかかわらず、次第に本来の使い方から離れ、やがて漠然とした雰囲気だけの言葉となり、その意味するところは誰にも分からなくなっていった。

総括歴史を振り返れば、平等が叫ばれた時期は差別や格差が激しくなる時期と重なっているのが分かる。今豊かな国と言われるアメリカで格差反対のデモが起きているのは、多くの人にとって格差が耐え難いものとなっているからだ。逆に多くの人が経済的にある程度恵まれた状態では、ほとんど平等ということは問題にならない。ちなみに少し前までのアメリカでは、人種差別はなおあったものの、白人の間で差別や格差に対する不満はほとんどなかった。

この事から分かるのは、平等に関しては哲学的な議論など一般庶民には何の意味も持たず、彼らが関心を示すのは、せいぜい法の下における平等くらいだということだ。法的に正当な理由のない逮捕及び拷問や、生殺与奪の権を持つ独裁者の圧政、また極端な貧富の差や、男性の女性に対する暴力などが顕著になった時、初めて民衆の間で平等が問題にされる。

ただしこれは具体的な不条理があってそれが取り除かれることを求める動きであって、最初から平等という概念があってそれを実現するための動きなどではない。すなわち普遍的概念としての平等が最初にあってそれが人々に広められたのではなくて、ある具体的な不条理が苦痛をもたらすまで増大したため、平等が問題にされるようになったということだ。

したがって具体的な不条理がなくなれば、人々は平等などに関心など示さなくなる。それなのにこれが現代日本で問題にされるようになったのは『権利』という言葉と結び付いたからだ。人々は欧米文化が生んだ『人権』を単に権利と言い換えて、これを万人が持ち得る『特権』であるかのように錯覚した。要するに平等までもこの特権の中に組み入れてしまった。すなわち平等であることも権利に違いないと解釈したのだ。その結果、本来なら不条理が解決されれば自然消滅した平等という概念が、まるで個々人の特権であるかのように曲解されて独り歩きするようになった。これが現在日本で言われている平等の姿だ。

西洋哲学は恵まれたお坊ちゃんたちが頭の中で理屈をこねまわして作り出したものであり、そのため結果的に現実との乖離(かいり)を招いた。平等に関して言えば、それが人間存在に本来的に備わったものだという思い込みを土台として議論を進めたため、現実を正しく把握できず、空論が空論を生んで哲学そのものの信頼を損なうことになった。

最初に言ったPTAの『履き違い連中』が平等を主張しているのは、それを自分たちに元々備わった特権であるかのように錯覚しているためだ。彼らは恥も外聞もなく、もともと学識のない人がある日突然学者にでもなったかのような錯覚に陥って、平等は自分たちの当然の権利であるがごとく主張し、すべての人間を同じレベルに貶(おとし)めようと躍起になっている。彼らは、人間には譲れない違いがあり、他の人では置き換えることのできない独自性があることを理解できないでいる。

平等という言葉の痲薬に汚染されたこれらの人たちは、人間が本来みな違うものだという事実から目を背け、自らの孤独から逃れるために皆が同じでなければならないという卑屈な平等主義に縋(すが)り付き、一人一人が特殊性を持つという人間の尊厳さえも穢(けが)している。

これは別に哲学的な言及ではない。自分の周りを眺めてみるといいだろう。果たして自分と同じ人間がどこかにいるだろうか。また自分と全く同じ境遇の中で全く同じように育った人がいるだろうか。我々は決して誰とも同じではないし平等でもない。先にも言ったが、皆能力に差があり、生まれた家に差があり、容姿に差があり、性格にも差がある。これらの差を不平等と言ってしまったら、この世のあらゆるものは不平等になる。あらゆるもの、あらゆる事柄が不平等なら、平等にするなんてことは無意味だ。

この世界は様々な違いに満ちている。それはおそらく地球が生まれた時から、または生物が発生した時からすでに始まったはずで、今も変わっていない。社会は共同体として維持されなければならないため、共同体の構成員(隣人や他人)に危害を加える者や社会のシステムを壊そうとする者は犯罪者として処罰しなければならなくなる。これが法の下の平等で、別にこの法律に普遍的で深遠な意味があるわけではない。共同体すなわち社会が存続するために単に危険分子を疎外するのが法の役割なのだ。

もろん軍事政権や独裁政権下では『法の下の平等』は守られないので、支配層は何をしても裁かれなくなる。その代わりクーデターが繰り返されたり、反政権のゲリラがはびこったりして、やがては報いを受けることになるだろう。ただし一般庶民は極端な不条理が行なわれない限り体制に甘んじる特性を持っているので、支配者が一定程度自重していれば、たとえ独裁政権でも比較的長く続くことになる。

人間の社会には常に少数の改革派がいる。しかし彼らの力だけで世の中が変わったためしはない。何故なら大多数の人々は常に現状維持の保守派だからだ。この現状維持型の人々は格差が極端にならない限り行動を起こさない。耐え難い格差が自分に及んで初めて、少数派の意見に耳を傾けるようになる。これは別に類推でも分析でもなく、歴史の事実だ。

さてここでこれまで述べてきたことを要約してみよう。
それは平等は決して同じという意味ではないこと、自然の中には同じものが二つとないこと、多くの人は極端な格差がない限り敢えて平等などを問題にしないこと、平等は権利という言葉と結びついて問題にされるようになったこと、そのため平等を一種の権利であるかのように錯覚した連中が様々な奇妙な問題を起こしていることなどを述べてきた。

全てのものには違いがあり、同じものが二つとないとしたら、我々はその事実を認めなければならない。認めた上で平等とは何かを改めて考えてみる必要がある。そうすれば決して『平等=同じ』にはならないのが分かるだろう。もし違いを認めながら且つ平等である関係が存在し得るとしたら、それは『互いの違いを認め合う』ことに他ならない。

現今の混乱は『平等=同じ』と解釈し、しかも個性を持たなければならないなどと、訳の分からない屁理屈を本気にしているために招いたものだ。personalityというものは欧米の文化から生まれたもので、日本語で個性などと訳すから誤解が生まれる。英語のperson(人、個人)を形容詞にするとpersonal(人の、個人の)であり、これをさらに名詞形にしたのがpersonality(個人性)だ。すなわちこれは個人を基本単位とする欧米社会における、個人に備わったその人らしさ、といった意味になる。したがってpersonalityは日本で現在使われている『努力して得る個性』というようなものではないと考えられる。

もともと欧米でも日本でもそんなことをいちいち強調しなくても、個人性は普通に備わっているものと思われてきた。そしてそれを人は成長と共に発展させ得るのだと。なのにそれを教育上のお題目にして、『個性』という名で取り上げたところからおかしくなってきた。多くの勘違い・履き違い連中は、個性というものがなにか絶対的なものであり、あたかも至高の哲理ででもあるかのように信じ、自分の子供に他との違いがないか必死に探し求め、優れた何かが見つかれば有頂天になり、劣った何かが見つかれば『平等』でなければならないと言い出す始末だ。このような無節操で我儘な親の態度が、教育を壊滅的な状況へと陥れている。

最後にもう一度言えば、平等という言葉は闇の支配者がマスメデイアや教育を通じて自由や権利や個性という言葉と共に使わせることにより、世界中の知識人および一般庶民を混乱に陥れるために蔓延させたものだ。振り返ってみれば法の下の平等以外、この世に平等など存在したためしはない。法の下の平等でさえ近代に生まれた概念であり、しかも厳密には僅かな先進諸国を除いてほとんど守られていない。

これは我々に、自由の中で生き平等を実現しているという幻想を抱かせるために、闇の勢力が画策したものであり、借金の中で命を削って働いている多くの人に、実際は奴隷と変わらないと気付かせないために流布させたものだ。

さて世界が様々な意味で行き詰まり状態にある今、我々は混乱させられ洗脳されたまま、奴隷の身分に甘んじて生涯を終えるのか、それとも洗脳されていることに気付いて、世の中を変えるために行動を起こすのか、そのどちらかを選ばなければならない状況にさしかかっている。果たしてあなたはどちらを選び、どちらに与(くみ)するだろうか。

<平等の項 終わり>


« <漠然とした雰囲気としての平等>| 宇宙像 »