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宇宙像

(注意:この最後の項はこれまでとは違い、論証にこだわらずに話を進めていくことにする。それは現段階ではこれから述べる事柄に証拠を示すのが難しいということもあるが、それだけでなく、自由な発想と閃きを優先させた方が、より真実に近づけると思うからだ。)

『我々のこの宇宙は、どの時空にも属さない超越的な領域にいる或る存在が、まどろみの中で見ている夢なのだ。それ故その存在が目覚めた時、この宇宙は閉じて終わる』―これは地上に現れた最も優れた叡智が辿りついた認識だと思われる。古代インドの説話でも、大きな蓮の華に座る特別な存在が夢見ているのがこの宇宙だという話があり、最近ではマオリッツオ・カヴァーロ氏が著書の中で、同じようなことをクラリオン星人から聞いたと言っている。

また小説『百億の昼と千億の夜』(後に漫画となる)や映画『マトリックス』(全三部作)といった作品も、この世が幻想に過ぎないことを表現したものだ。確かに我々の多くは人生のある瞬間に、この世のすべては夢なのかもしれない、という感覚を味わったことがあるはずだ。もう一つ言えば、我々は夢の中で『これは夢かもしれない』と思ったことがあるはずだ。しかしだからと言って目覚めるまで、これを間違いなく夢だと見做すことはできなかったろう。我々は夢の中にいる限り、それから逃れることができない。それと同じように、我々はいま覚醒して生きていると思っているが、もしかしたら単に逃れられない夢に囚われているだけなのかも知れない。この問いの怖さは、誰もこの世のすべてが夢ではないと証明できないところにある。

さてまどろみの中にいる存在には、神や異星人や高次元霊といった一切の形容が通用しない。何故ならそれらの言葉は、我々の貧しい概念を無理に当て嵌めているに過ぎないからだ。実際は人間の想像の範疇を遥かに超え、すべてを隔絶した領域に、我々の概念では括りようのないものとしてそれは存在している。

この存在が見る夢は、我々が見る夢と同じように幻であるにもかかわらず、実体として感じられる。したがってその存在が夢の中で初期条件を設定すれば、それに見合った物理的エネルギー的な展開をみせる。すなわちそれは宇宙となる。しかもその宇宙は一つだけに止まらない。その存在は色々な初期条件をもって夢見るので、様々な宇宙が展開することになる。我々は自分たちのこの宇宙しか観察したことがないので、違った初期条件、違った法則を持つ宇宙がどんなものなのか想像も及ばない。

その超越存在が見る夢と我々が見る夢の共通点は、見ている時は夢だとは解らないほどにリアリテイーがあり、にもかかわらず目覚めれば全てが消え失せてしまうということだ。果たしてその超越存在は最後に、『ああ楽しかった』と言って目覚めるのだろうか、子供たちがわくわくしたアニメを見終えた時のように。それとも『ああつまらなかった』と言って目覚めるのだろうか、大人たちが期待外れの映画を見終えた時のように。いずれにしてもその存在は、再びまどろんで新たな夢を見る。

さて歴史上、全宇宙につて語った者はない。主流の現代物理学も現代天文学も、十次元理論は認めていても宇宙の多次元構造や多次元世界の存在は認めていない。何故なら宇宙開闢の瞬間には十次元が存在したが、すぐに空間の三次元と時間の一次元を残して、他の六次元は畳まれてしまったと説明されているからだ(この畳まれてしまったというのは全く意味不明で、学者が得意とするまやかしの説明だ)。一方今のところ主流になってはいないが、多元宇宙論(多次元ではない)は一応存在する。しかしその宇宙の一つひとつが具体的にどういった宇宙なのかは説明されていない。

肉体から魂を離脱させて多次元世界へ旅した人たちの中には、無数の宇宙が存在するのを見たと証言する者たちがいる。彼らは数えきれない宇宙を見たが、それでさえ宇宙全体の一部に過ぎないように感じたという。とんでもない超絶的な何者かが、この数えきれない宇宙を生み、今も生み続けているということだろうか。現代の稚拙なビッグ・バン理論など、こうした証言の前では色褪せるばかりだ。

異星からやって来た高度なテクノロジーを持つ知的生命ですら、宇宙がいつから存在しているのか解らないという。もしかしたら「いつから?」というのは時間が固定されたこの世界に住むがために抱く疑問なのかも知れない。時間が一つの方向しか向いておらず、空間が境界を持っている特殊な我々のこの世界では、時間を数直線のように表わすことが可能になっている。しかし実際は時空が固定されている状態は一種のアノマリー(異常、例外)であって、正常な宇宙では時間は前後にも左右にも展開するものらしい。前後とは過去や未来であり、左右とはパラレル・ワールド(並行宇宙)のことだ。

時空が固定されているため、我々は否応なくこの監獄のような世界に閉じ込められている。しかもその中で何度も生まれ変わり、まるで刑期が終わるまで出所できない囚人のように、何かをし終えるまで輪廻のサイクルから抜け出すことができないでいる。一体何を終えればこの監獄から出られるのだろう。その答えはある異星からの使者によれば、単に『生きるということを学び終えるまで』だという。

我々は数えきれない人生の中で、数えきれない困難、苦難、および歓びを体験してきた。それらは魂に記憶として刻み込まれ、内なる倉庫に経験として積み上げられてきた。しかもある時は騙す人間、ある時は騙される人間を演じ、陰陽のこの世界で無数の対立する両者の役割を経験してきた。そうして多くの役割を演じ切り、学びを終えた時に次なる次元へ旅立つことになるのだという。

宇宙像またこの宇宙は三次元があるために成り立つ不可思議な世界だともいう。普通は時空は固定されていないので、魂は肉体に閉じ込められることはないし、肉体も監獄のような固定された空間に閉じ込められることはない。波動がここよりも高い世界では、エネルギーは物質として固着せず、希薄なままであり、したがって互いにすり抜けることができる。とはいえ希薄というのは我々が考えるような物質密度が薄く、エネルギー量が少ないという意味ではない。物質化とはそれが持つ波動数が低くなることによって重く、荒く、エネルギーが低くなることを言うのであって、波動数が高くなればその分、軽く、繊細で、エネルギー量は何倍、何十倍にもなることを意味する。

高速道路を車が反対方向に走れば、普通に走って来る車と衝突するだろう。しかしこれが車ではなく蟻だとしたら、片側二車線の広い道路を、蟻の列が二本来るだけだから衝突することはまずない。このように波動が高ければ物質の構成単位が微細になるので、互いにすり抜けられるようになる。また波動数が高く微細なものが物質のような荒い構造の物を通り抜けることができるのは、肉を焼く格子状の網に野球の球を落としてもその上に乗ってしまうが、胡麻を上から振り掛ければ簡単に通り抜けてしまうのと同じことだ。

現代物理学で言う次元というのは、幾何学的な発想から、または指数関数的な発想から演繹(えんえき)されたもので、波動の概念から導き出されたものではない。したがって異星人や高次元霊の言う次元は、幾何学的・指数的な意味における次元とは違う。宇宙は波動の現れなので、現代物理学で言う幾何学的、指数計算的な十次元理論どころではなくなり、無限とも言える次元によって宇宙は成り立っていることになる。したがって三次元の上は四次元ということもなく、3.2次元や3.5次元もあり得ることになる。ちなみに『ひふみ神示』には、新しい世界は3.5次元のような世界になると書かれてある。

無数の宇宙の中には三次元を持たない宇宙もあると思われる。いやその方がむしろ一般的なのかも知れない。しかし我々のこの宇宙は三次元があるために、すなわち時空が固定された世界があるためにそれを基底として成り立っている可能性がある。この三次元という波動の荒い物質世界は固着の性質があり、自ら重く凝り固まる特性がある(これはエントロピーは増大するという、熱力学の第二法則に反している)。その重たい物質界の周りにはもっと繊細で希薄な波動の世界があり、さらにその周りには波動数がより高く、したがってエネルギーの高い微細で滑らかな世界がある。このように荒い世界を土台として、一種の同心円状に(実際は同じ空間に重なり合っているが)、より軽やかで繊細でエネルギーの高い世界がアナログ的に次々と取り巻いていると思われる。こうした構造のため、中心の重たい物質界がなくなれば、全次元がバランスを失って蒸発してしまう可能性がある。

我々の世界は波動が荒く、重たい物質に埋め尽くされ、自由に別の場所へ飛んで移動することも、物を通り抜けて移動することもできない。しかも時間が固定されているため、誕生から死まで敷かれたレールの上を一定の速度で走る列車のように生きることになる。果たして我々は波動を上げ、この閉じ込められた監獄から自らを解放することは出来るのだろうか。


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