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二元論的世界

他の一般的な宇宙と違って、波動の荒い物質世界をその基底に抱えるこの宇宙は、二元論的に捉えると解りやすいように出来ている。特に我々のこの物質次元は、例えば硬いと柔らかい、熱いと冷たい、善と悪、美と醜、積極的と消極的、などによって括ると解りやすいようにできている。この性質は敵と味方、天国と地獄、戦争と平和などのように一方だけでは成り立たず、他方があるために成り立つ概念だ。同じようにこうした概念から演繹すれば、繊細で波動の高い次元が存在するためには、逆に波動の荒い低次元世界が存在しなければならないことになる。果たしてこれは正しいのだろうか。

二元論はこの荒い物質世界から発想する時には一見正しく見える。これは言わば、ひとつの立体をその断面として捉えるからだ。もっと次元の高い世界から見ると、これら正負・陰陽論的な捉え方は意味を失う。何故ならそのような捉え方は、物事を総合的な関係として捉える視点を欠いているからだ。すなわち有機的な一つの全体としての宇宙という概念を見失っているからだ。

分析的・論理的な捉え方はこのように二元論的に物事を分裂と対立に導いてきた。人類はこの考えを強めることによって二律背反的な、混乱と憎悪に満ちた世界を作り出した。もう一度人類は森羅万象について捉え直さなければならないだろう。それはあらゆるものが関係し合う、一つの全体としての宇宙だ。

物事はいくら断片を集めても全体にはならない。我々は断片を集めるという思考回路を強要さてきたために、断片を繋ぎ合わせて全体像を作り上げようとする。しかしそのようなやり方では決して正しい全体像には辿り着かない。せいぜいつぎはぎの化け物を作り出すだけだ。我々がすべきなのは最初に全体を呑み込むことだ。全体を丸ごと呑み込んで初めて、様々なつながりが見えてくる。近視眼的に物事との関わり、または他人との関わりなどから考え初めても、自分が何をなすべきかは見えて来ない。全体の関係性が視野に入った時、初めて自分の立ち位置が分かる。自分の立ち位置が分かれば自分が何をすべきかも見えてくる。

二律背反的な概念の代表的なものは善悪だが、我々はこの概念に長いあいだ翻弄されてきた。しかし今言ったように全体としての宇宙を考えるなら、そこにはもはや善も悪もなく、均衡があるだけなのに気付く。例えば宇宙のどこかで酸化現象が起こると他のところで還元が起きるといった性質または法則を宇宙は持ち、それによって中和されている。したがって善悪で言えば、善だけの世界はあり得ない。善は悪があることによって善として成り立ち、悪も善があって初めて悪として成り立つ。したがって人間が夢見てきた善人だけの世界はあり得ないことになる。歴史を見れば分かるように、そんな世界は一度も存在しなかったし、一度も実現しなかった。どんな政治によっても、どんな宗教によっても善人だけの世界は実現しなかった。それは善人しかいない世界では善人とは認識されないからだ。善人は悪人がいて初めて善人として認識されるのであって、そうしたバランスを欠いた、善人だけの世界は存在し得ないことになる。

我々は二項対立の概念をもって世界を見てきたために深刻な問題を引き起こした。善悪で言うなら、歴史的に善人が悪と戦うように悪人は善と戦ってきた経緯がある。善人と悪人が戦い続けてきたので、どちらも存在し続けることになった。それは善人にとって悪人は反対の自分自身だからだ。善人だと思う自分が悪人を成り立たせていると同時に、自分の側から見た悪人も、その人は自分を善人だと思っているので、敵である悪人すなわちこちらと戦っていることになる。

戦争を見れば分かるように、両者とも正義の戦いだと言い張る。どちらも自分の方が善だと言い張っている。結果はどうなるか。勝った方が善となり、負けた方が悪となる。指導者に関して言えば、勝った人は英雄となり、負けた人は犯罪者となる。こうした単純な原理によって支配されているので、この成り行きを第三者が客観的に見たとすれば、善も悪もあったものではない。こうした戦いは子供の喧嘩、夫婦の痴話喧嘩より始末が悪い。何故なら善悪に根拠などないにもかかわらず、互いに相手を悪と罵って公然と殺し合うからだ。

人類はこの事実から学ばなければならない。我々は悪と戦うことを止めると同時に、善悪の概念を捨てなければならない。誰か『自分は正真正銘の悪人だ』と言明する人に会ったことがあるだろうか。おそらく誰も会ったことはないだろう。そうであるにもかかわらず、なぜ世の中にはこんなにも犯罪者が多いのか。ここに善悪のからくりがある。この大いなる矛盾はなぜ生まれ、なぜ世界中に蔓延しているのか。

答はいたって簡単だ。皆自分自身を判断基準に置いているからだ。自分を中心に物事を見つめ、自分を中心に判断するからだ。しかもその基準は悪を見つめることによって決められている。平たく言えば、自分が善人になりたいがために、常に自分よりも悪に傾いていると思われる人間を下に置いて、少しだけ自分が善人でいられるレベルを基準と決める。しかし自分よりも善に傾いて見える人を上に置いて、少しだけ自分が悪人になるレベルで基準を決めようとは決して思わない。そんなことをしたら常に屈辱を味わいながら生きなければならないからだ。

このように善悪はどこに中間のゼロ基準を設けるかによって変わってしまう。すなわち善悪は相対的なものでしかなく、決定的な根拠もない。にもかかわらず多くの人が善悪にこだわっているのは、自分を自分自身にも、他人にも良く見せたいという人のエゴが働いているからだ。もし自分を少しでも良く見せたいという卑浅(ひせん)な思いを捨て、善悪にこだわらなくなれば、この世は全く別のものに見えてくるだろう。次にその辺の話を詳しくしよう。


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