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新たな世界観-善悪のからくり.1

人類が神や異星人や高次元霊と呼んでいるものは、すべて様々な惑星に生まれた、進化した知的生命体に過ぎない。これらの者たちは宇宙を造ったわけでもなければ、宇宙をコントロールしているわけでもない。聖書のエホバは『自分たちに似せて人を造った』と言っているが、宇宙を顕現させている超越存在に、人間的な概念としての形などあるはずがない。この点だけをとっても聖書の神は単なる高次元霊か、さもなければ異星人でしかないのが分かる。たとえこの言葉を内面性を似せて造ったという意味に解釈したとしても、超越存在は森羅万象を顕現させる力を持っているわけだから、我々人間とは比較の対象にならない。したがってこの言葉は、限定された能力を持つ高次元霊=異星人に似せて造ったという意味以外に解釈できない。

モーゼの十戒は偶像崇拝を禁じているが、それは宇宙を創造した超越存在に人間的なイメージ(形)を与えるのは、その超越存在を冒涜することになるという考えによっている。このためユダヤ教およびイスラム教は神の像は作らない。けれどもキリスト教は十字架のイエスやマリア像など、禁じられているにもかかわらず平気で偶像を用いている。そのためイスラム教や他の宗教からたびたびこの点が非難の対象にされている。

創世記の人類創造の記述と出エジプト記の十戒を較べて読むと、一方で神は自らに似せて人間を造ったと言っておきながら、他方で神の像を作ってはならないと言っていることになる。神自らが人という形で自分の姿を具現化したということは、超越的で人間の想像の及ばない存在としての原則を破っている。この原則を破って自分の似姿として人を作っておきながら、人間には自分(=神)の似姿としての像を作ってはならないと言っているわけだ。聖書は何故こうした矛盾を露呈しているのだろう。それは明らかに何者かによる改竄(かいざん)があったからで、そこには何かを隠そうとする意図が読み取れる。

私の考えを言えば、創世記に記された『神は自分のかたちに似せて人を造った』という一文は、人類が異星人の奴隷として遺伝子操作によって造り出された、という事実を隠蔽するために書かれた文章だったのではないかと思っている。何故ならその事実をそのまま人間に伝えたとすれば、すべての人間が生涯にわたって屈辱を味わうことになるだけでなく、人間が神にほど遠い不完全な生き物として造られたことを恨む結果にもなるだろうからだ。聖書を読んで、神々に似せて造られたのだから人間は素晴らしい存在だなどと、キリスト教徒のような能天気なことを言っている場合ではない。

新たな世界観-善悪のからくり.1もともと人間は明確な自意識を持たない生き物として創造された。その方が奴隷としては適切で、操りやすかったからだ。すなわち人間は創造から一定期間、他の動物のようにきちんとした自意識を持たないで過ごしていた時期がある。これは最近の考古学でも、およそ20万年前から10万年までは(諸説があるが)外見は人間だったが、意識は動物と同じで、明確な自意識は持っていなかったと考えられるようになってきた。もし我々が彼らと出会ったとしたら、外見は普通の人間なのに中身は人間でない、とても不気味な生き物に感じるだろうと予想されている。またジュリアン・ジェインズは『The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind(二分心の崩壊における意識の起源)』(日本語版題名:神々の沈黙)の中で、数多くの資料を引用して、人類が意識を持ったのは僅か3000年前に過ぎないとの主張を展開している。

神々=異星人にとっては、人は犬や猿のように主人の言い付け通りに働けばそれで十分だった。その言い付けどおりの時代が聖書では『エデンの園』として描かれている。どんな屈辱的な命令にも、どんな過酷な労働にも、それが自分の役割だと思って文句も言わずに従っていた時代だ。まだ意識が目覚めていなかったので、そこには苦痛はあったかもしれないが苦悩はなかった。それが『楽園』の意味するところだった。

しかしある時、人間は意識に目覚め、自分の置かれている立場を理解してしまった。これを知った神々=異星人は自分たちの目論みが途中で失敗に終わったことを知り、人間をエデンの園から追い出した。すなわち一旦奴隷として使うのを諦めた。これは見方によっては人類史上初めての、人間自らによる奴隷解放だったと言えるだろう。

『見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった』

この創世記の件(くだり)は、聖書の神々が異星人であることを如実に示した文章だ。多くのクリスチャンは聖書の神は唯一絶対の存在だと思っているらしいが、一体彼らは創世記を読んだことがないとでも主張するつもりなのだろうか。神は何度も『我々』と言っているではないか。他に『我々の形に、我々にかたどって人を造ろう』とも言っている。神は唯一の存在などではなく、複数いることをここで宣言しているのだ。すなわち神々として、異星人が人類に君臨していると言っているわけだ。彼らは自ら造り出した人間の娘たちが美しいのに気づき、乙女らをてごめにし、子供まで産ませている。創世記6章には次のようにある。

『神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』
『その頃、またその後にも、地にネフィリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、名の通った人々であった。』

神という存在が人と性行為を行ない、孕ませ、神と人間の混血を産ませたりするものだろうか。馬鹿馬鹿しくて本気で読む気がしなくなる。しかしこれは事実なのだ。『我々』という言葉を神ではなく単なる異星人と解釈すれば、こうした出来事も決して不自然ではなくなるからだ。(我々とは、エホバ及び未だ霊界にいたイエスの二者を指したものだと解釈するキリスト教の一派もあるが、あまりに不自然でこじつけ臭く、考慮に値しない)

想像してみてほしい。我々が他の星へ簡単に行けるようになったとしたら、そして生物の生息する星を見つけたとしたら、そこに住む(または滞在する)ために、ロボットか奴隷があったらいいと思うだろう。何故なら開墾し都市を築くのは容易ではないはずだからだ。多少高度なテクノロジーがあったとしても、言葉を理解して従順に従う奴隷がいればそれに越したことはない。そこでその星の生物のどれかに自分たちの遺伝子を混ぜて改造し、人間に似せて造るだろう。そう『我々に似せて人間(の奴隷)を造る』ことになる。

この場合、人間と同じように意識を持たせてしまっては反逆しないとも限らなので、他の動物のように自意識のないまま、言葉だけは理解して自主的に命令を遂行できる状態にしておくのが望ましいだろう。そうすれば奴隷自身も苦痛は感じても苦悩することはないからだ。苦悩のない世界は『楽園』だ。けれどもついにある時、奴隷が意識に目覚める事態に至るだろう。聖書には『(禁断の木の実を採って食べると)二人の目が開け、自分たちが裸であることが分かったので、いちじくの葉を綴り合わせて腰に巻いた』とあるように、それは当人たちにとっても衝撃的な出来事だったに違いない。もし人間が造った奴隷が同じ事態に至ったとしたら、やはり奴隷として使うことを諦めるだろう。すなわち『楽園追放』だ。

とはいえ野放しにした奴隷たちが勝手に集落を作り文化を作って生きていくのを見たら、人間はいつか再び彼らを自分たちの奴隷にしようと思うかも知れない。また野放しにした状態で、奴隷たちの娘がどんどん美しくなっていくのを見たとしたら、間違いなく性的対象として有用と考えるだろう。結局すべて聖書の神々と同じことをするだろうと思われる。


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