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因果応報の彼方.1

個々人の不幸や悩みに焦点を合わせ、身近な問題にこだわっているだけでは見えて来ない宇宙全体の真実がある。それを見るには巨視的な、全体を俯瞰(ふかん)する視点を持ち、宇宙的規模の時間の流れを把握して、その意味するところを読み取らなければならない。

誰しも一度は、生きとし生けるものが限りない時の中で何度も生死を繰り返している理由を問うた事があるだろう。しかし実は意味や目的があることを前提としてはその答は得られない。何故なら生きとし生けるものは、ある時の終わりまではただひたすら様々なことを経験しているだけだからだ。全ての生き物の本質(=魂)は岩や雲や(これらにも本質=魂がある)、植物や動物を経験して、そこで得た体験としての情報を、ひたすら魂に貯めていく。したがってその途上にあっては目的も意味も理由もなく、単に全てを経験しようとしているだけだ。

変な言い方に聞こえるかもしれないが、人は石を経験しなければ石の気持ちは解らない。地面を忙しく歩き回る蟻の気持ちも、実際に蟻になってみなければ解らない。人間的な推量で自分の感覚を当て嵌めてみても、正しいかどうかは分からない。鰐がヌーを襲って食べるのを見て、弱肉強食などと見当はずれの概念で括っているが、これは自分たちの感覚や判断が正しいという前提に立った括り方で、それは人間が最も優れた生き物であり、最も正しい判断をするという根拠のない傲慢さをその前提にしているからだ。この傾向は学問と呼ばれるもの全般に見られる。人間を中心に物事を考えるこの尊大な態度は、近代以降、そして今なお顕著になりつつある。

実際はその鰐になってみなければ、またそのヌーになってみなければ、彼らの行動の動機や感覚は解らない。そこには我々人間の想像も及ばない世界があるはずだ。全く異なる生態を持ち、異なる感覚器官を持っている他の生き物の思いなど、推量すること自体が間違っている。深海の底に生きる名前さえないエビの一種が、一生光のない暗黒の中で暮らす気持ちなど、どうやって想像できるだろう。大空を舞う鳶(とび)が風を読み、風に乗るその感覚や気持ちをどうやって想像できるだろう。そもそも他の生き物を理解するなど不可能なのだ。それを知るには実際に他の生き物に生まれてみなければならない。ここに転生の本来の目的と意味がある。

因果応報の彼方.1人間に生まれたとしても、二元論的に物事を捉えるようとする限り、その両方を経験しなければ理解には至らない。例えば金持ちの家に生まれた者は貧しい者の気持ちは解らないし、赤貧の家に生まれた者は金持ちの気持ちは解らない。したがって輪廻転生の中で両者を経験しなければならなくなる。優等生はいつか劣等生を経験し、悪事を取り締まる者はいつか悪事を働く者を経験し、子供を捨てた親はいつか捨てられる子供に生まれることになる。今誰かを騙せばいつか騙される立場になり、今誰かを罵(ののし)ればいつか罵られる立場になる。すなわちこれが仏教でいう因果応報の概念となったのであり、新約聖書では『人は自分が撒いたものを刈り取ることになる』(ガラテヤ人への手紙)という考えに至った。

しかし本当に因果応報といった仏教哲学的な括り方は正しいのだろうか。撒いたものを刈り取らねばならないという聖書的な考え方は本当に的を射ているのだろうか。因果応報はこの人生だけでなく、いくつもの人生の中で原因に対する結果として現れる対立的な状況であり、これによって調和が回復されると解釈される。撒いたものを刈り取るというのは我々の生活の中でもよく起こることであり、自分が作った原因は必ずその結果を引き受けなければならないということだ。しかしそれを本当にカルマ(=業:ごう)と判断していいのだろうか。

全てが因果応報の法則に支配され、宇宙の片隅の小さな出来事や微細な変化も、どこかの何者かの意思によって調整されバランスが取られるとするなら、それは一方で信じがたいことではあるが、他方では人間に安心感を与える解釈に違いない。

蚊の一匹が、飛んでいる燕の口に入って絶命する。もし宇宙に偶然がないとしたら、この蚊はどういう原因によって燕に食べられるという結果を招いたのか。この蚊を食べた燕があるとき山沿いにある民家のガラスにぶつかり能賑盪をおこして地面に落ちる。それを鳶が見つけて捕まえ、巣に持って帰って子供に与える。この鳶はどういう理由で燕を手に入れるという結果を得たのか。またそれを与えられた子供の鳶はどういう因果によって餌を得、またそれを食べるという行為によってどういう因果を作ったのか。

一匹の蚊、一羽の燕、一羽の鳶とその子供と、たったこれだけでも因果は他の多くのことどもと複雑に絡み合い、我々人間の理解を超えた関係で結ばれていることになる。全宇宙には想像を絶する数の生き物が生死を繰り返し、ドラマを展開しているわけだから、だとすれば因果の法則はそれら全てについて複雑極まりない調整を行ない、しかも微塵の間違いも犯さずに滞りなくバランスを取っていると考えなければならなくなる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。

狭い領域に限れば、因果の法則は絶妙のシステムとして機能しているように見える。しかし尋常でない複雑な調整を宇宙的規模で、小さな過ちさえ一つも犯さず行なっているということは信じがたいことだ。これはもはや正しいか正しくないかではなく、信じるか信じないかの問題になってしまう。すなわち因果応報の法則は狭い領域、短い期間の中で考えるなら有効な法則のように思われるが、宇宙的空間規模と宇宙的時間スケールで考えればその有効性は失われると思われる。何故なら我々にとっては数千年、数万年は長大な時間であり、そこでの生まれ変わりも数限りないように思われるが、しかしこれは宇宙的スケールから見れば、輪廻転生のほんの一部を切り取ったに過ぎないからだ。

なぜ全ての事柄に因果応報が働いているように見えるかというと、人は理由や意味を欲するからだ。また自分の視野に入る、あるいは想像可能な空間的時間的スケールの中で解釈しようとするからだ。しかしそうした数十回や数百回の生まれ変わりでは判断できない真実がある。実際は我々の本質(=魂)は様々な他の生き物にも生まれ、数限りない生の中で、あらゆる経験をしているのであり、それは何十億年、何百億年という時間スケールで考えるなら、単に無数の経験を積み重ねているに過ぎないことになる。

宗教はおそらくこの事実を知っていたのだろう。しかしそれを信者に伝えなかったのは、内容的にそれは『教え』にも『思想』にもならないからであり、また魂が単に様々なことを経験しているだけなら何をしてもいいということになりかねず、道徳という監獄に人々を閉じ込めようとする宗教はその目的を達せられなくなるからだ。したがって真実は、因果応報という一種の哲学的な考えに改変して人々に押しつけたられたのだと思われる(ただしこれはあくまでも因果に関してであり、縁の概念を含むものではない)。


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