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因果応報の彼方.2

この辺りは微妙で誤解を招きやすいのでもう一度説明する。

我々は目の前の事柄について目的や意味を知りたがるが、一つの場面を区切って捉えても決して答は得られない。それどころか何百万年あるいは何億年という間、様々な生き物に生まれ変わり死に変わり、無数の生を経験している途上では、その生の意味や目的が示されることは決してない。気が遠くなる年月の間、輪廻転生を繰り返しながら、様々なことをただただ経験し、その時の感情や思いを魂に刻み込んでいるだけだ。そこには善悪もなければ正邪もない。

たとえその魂(=本質)が無数の生を経験し、多くの情報を心の奥に刻んできたとしても、一旦人として生まれた時にはその一回の生の範囲で目的や意味を考えざるを得なくなるので、答に辿りつくのはほぼ不可能となる。また現在の生まれ育った環境や自分の容姿や能力を、単に運命的なものとして受け止めるなら、遠大な時間スケールの中でのその意味するところは見えてこない。現在の生しか視野に入っていないので、現在の生だけ切り取る形で考えても、計り知れない寿命を持つ魂の目的など分かるはずはない。

人間は死を大袈裟に考え、死という事柄だけを切り取ってその意味を考えようとするが、そうしたやり方では死の意味するところも見えてこない。無数の生を経験してきた魂にとっては、死は新しい着物を着るために、単に古くなった着物を脱ぐ程度のことでしかない。問題は死ぬことや生まれることではなく、経験することだからだ。我々がこの世に生まれてくるのは、波動の荒いこの物質次元でしかできないことを、魂=本質が数限りなく経験するために来ているだけなのだ。

もし我々が生きることの意味や目的について問おうとするなら、この一回の人生に関してのみ問うのではなく、無数の生を経験した長大な時間を俯瞰して、その全体から問うのでなければならない。何故なら魂自身に死はなく、(何億年前かは分からないが)誕生して以来一度も消滅することなく現在に至っているからだ。

魂はおそらく何万回、何十万回と生を経験しているので、これまでの記憶の量は膨大なものとなっているだろう。しかしその全記憶が意識に上ることは、この世においても死んだ後の世界においてもまずない。もしこの世やあの世で記憶のすべてが甦ったとすれば、意識は混乱を来すだけだろうからだ。また万一この経験の記憶を適宜引き出して生かせるようになったとしたら、それは逆に学びのためにこの世にやってきた意味を失わせることにもなるだろう。すなわち輪廻転生を繰り返している間は、それは必要がないので引き出すことはできないのだ。では記憶した膨大な情報は一体いつ役に立つのだろう。それは時が煮詰まり、いよいよ全てが変わり、大いなる転換が起こった後に初めて役立つようになっている。

それまでは(人間以外の生き物も含め)縁のある者たちと生まれ変わり死に変わりながら、いくつもの生の中で関係し、互いの関係を発展させることによって自らの発展に繋げる努力が促されている。縁によって夫婦となり親子となり友人となったりしながら、互いの関係の中で学び合い、許し合い、かつての生でのしこりを修復し、または憎しみや怒りによってさらにしこりを増幅させ、時には思いやりや歓びの関係を実現し、時には冷淡な関係に陥りながら、長大な時間の中でひたすら経験を積み重ねている。

ところで先程から『本質』という言葉を使っているが、これは足立育郎氏が『波動の法則』の中で述べている本質=魂と同じものだ。この本質=魂は岩や雲や微細な生物、大型動物から人間まで、様々な生を経験し続ける。

足立氏によれば、人間の場合この本質=魂は頭の位置と重なって、おそらく松果体を中心に直径20㎝位の大きさで球体として存在しているという。ただし陽子と中性子だけで出来ているので、我々の目には見えないという(これらが電子と結びつくと実体化して目に見えるようになる、と足立氏は言っている)。とはいえ過去の宗教画などには、洋の東西を問わず光輪が頭に描かれているものがあるので、この存在を知っていたか、見ることができた人がいたことを窺わせる。

因果応報の彼方.2この本質=魂は無限ともいえる天文学的な記憶容量を持っていて、過去の生の体験、感覚、感情などのことごとくを記憶している。本質=魂を構成する素粒子のうち、中性子は意識そのものであり、陽子は意志そのものだと足立氏は述べている。これはとても穿った説明だと思う。現代の脳科学や意識を取り扱う学問分野では、今もなお人間の意識は脳のどこにあるのかといった、とんちんかんな方向で研究されている。しかし脳をどんなにくまなく調べても、意識の所在など分かるはずはない。何故なら意識は見えるものではないし、物質に依拠しているものでもないからだ。

私は意識は普段脳と重なって存在しているが、そこが必ずしも指定席というわけではなく、三次元空間に囚われないので、どこへでも移動は可能なのだと思う。それが世間で言う幽体離脱であり、また認知症の人の特有の症状にみられるものだと思う。認知症の人が家族に、家にいながら『家に帰る』と意思表示することがある。家族は意味が分からず、単に頭がおかしいのだからしょうがないと受け流しているかも知れないが、実際はその人の意識は別のところにあるため、本当に家に帰ろうとしているのだと解釈できる。

原子は原子核とその周りを回る電子から成っていて、さらに原子核は陽子と中性子からなっている。だとすれば中性子が意識であるならば、すべての原子は意識を持っていることになる。ただしこの場合は電子がまわりをまわっている。つまり電子と結びついているので物質化し、可視化されている。しかし本質=魂を構成する中性子や陽子は電子と結びついていないので、三次元空間に拘束されることなく、したがって目に見えることもない。すなわち中性子と陽子はそれぞれ意識と意志として働き、この三次元のどこにでも存在でき、他の次元にも存在できる性質を持っていると思われる。

遠い昔に生まれたこの本質=魂は数えきれないほどこの世の生き物に宿り、様々な経験をして、それら全てを自らの記憶装置に溜めてきた。時には山になり石になり、時には木になり野の花になり、時には細菌になりウィルスになり、時には鼠になり狼になり、そして時には人間の女になり男になりと、様々な生の中で限りない経験を積み上げてきた。その段階によって、例えば鉱物と植物と動物では記憶容量が格段に違うが、いずれにせよ経験して記録することに変わりなく、ひたすら記憶を積み上げて来た。しかしついに時が満ち、数限りない転生に終止符が打たれる時が来る。劇で言えば無数の幕が、小説で言えば無数の章が、映画で言えば無数ドラマを内包するオムニバスが、ついに終わりを告げる時が来る。そしてそのときに初めて、何億年の魂の旅路がどこに向かっていたかが明らかにされる。

『ひふみ神示』にはこの世が大峠を迎える時「びっくり箱が開く」と書かれている。それは何億年もかけて蓄積された無数の生と数限りない経験の詰まった箱が、いよいよその蓋を開けて中身を明らかにすることを意味していると思われる。もうすでに地球は『終わりの時』に入っていて、浄化が次々と起こっている。終わりの時がどのくらい続くかは分らないが、聖書には『その時が短くなるよう祈りなさい、そうでなければ生き残る者は誰もいないであろう』と記されている。

『終わりの時』にも初めがあり、終わりがある。そして今後、その終わりの時の終わりに向かって、さらに未曽有の艱難を迎えることになるだろう。そうしてついに浄化が終わった時、何が起こるのだろう。もし生き残った人間がいるとすれば、その人たちは信じがたい変化を目の当たりにするだろう。それは地球と地球上の生きものの波動が上がり、一切のものが光を放ち始める姿だ。その時、重たい物質世界は軽くなり、監獄のような境界を持った空間は解き放たれ、時間は直線的であることを止めて前後左右へ広がりを持つようになる。その新しい世界では邪心のない者たちが想念によって時空を自由に行き来し、想念によって物を現出させ、言葉によらないで意思を伝え合うようになる。

そしてその時に初めて、びっくり箱が開いて全ての前世の記憶が甦る。ようやく蓄積してきた経験の全てが心に思い起こされる。そして生きとし生けるものに無数の経験が何故必要だったのかも明らかにされる。それは生き残った人たちが再び波動の荒い世界へ落ち込まないための智恵として働くためであり、また波動の高い世界で、数千年になるだろう長寿を生きて行くために、その膨大な記憶は無尽蔵の宝となって生活を支え、彩るようになる。

それまで経験した悲喜劇は、新しい世界では別の意味合いを持つようになる。かつて無数の生で味わった歓びや悲しみ、親愛や孤独、許容や拒絶、傷心や怒り、感激や憂鬱などは、精神的および感情的なバランスをとるための重要な下地となるだけでなく、想念による創造ができる段階に入った人々が、世界支配のためや自分の欲望のためにその能力を使わない智恵として作用することになる。

すなわち、全ての過去世を思い出したなら、他人の支配や国の支配や世界の支配への欲望が、最終的にどのような結果をもたらすかが容易に理解されるので、もはやそうした野望を持つことはなくなる。また自分の立場を笠に着て他人に暴言を吐いたり、自分の傲慢さゆえに他人を罵ったり、自分の自尊心ゆえに他人を誹謗したりすることが、最終的にどのような結果をもたらすかも容易に理解でき、またその時の言われた立場の人間の気持ちも同時に理解ができるので、双方の想いが手に取るように解り、したがって再びそうした愚行はしなくなる。

今のこの世界にいる我々でも、そうしたことがよくない結果を招くだろうことは予測がつく。しかしこの三次元ではその場になると欲に惑わされたり、教訓としての知恵を忘れたりなどして、自己規制が利かなくなる場合がある。しかし新しい世界ではもはや忘れたり欲にまみれたりしなくなるので、有効に自己規制が利き、誤った言動は取らなくて済むようになる。またすべてを思い出しても、限界という壁がもはやないので、パニックに陥ることもなく、適宜必要な情報を引き出すことができるようになる。

もし新しい世界で蝶が飛んできたとしたら、その蝶を捕まえようとは思わないだろう。何故なら新しい世界では自分がかつて蝶を経験し、その時に人間に捕まえられたことを思い出すことができるので、捕まえられる蝶の気持ちが解るからだ。また野の草叢(くさむら)で鳴く虫の声を聞いても捉えようとは思わないだろう。何故ならかつて人間に捕まえられて籠の中で死んだことを思い出すことができるからだ。

新しい世界になれば食べる必要はなくなるが、べつに食べてもかまわない。波動が上がった身体の細胞は宇宙空間に遍在するエネルギーを取り込むようになるので食べる必要はなくなるが、しかし少し前まで、すなわち波動が上がる前まで食事を取っていた習慣はすぐには抜けないため、食べようとする気持ちは起こるので、しばらくの間は料理をし、食事を楽しむことだろう。しかしもはや肉類は食べることはないだろう。何故なら自分が牛に生まれて屠殺場で殺された時の経験を思い出すからだ。豚も鶏も、自分がかつて人間の食べ物として殺された経験が思い出されるのでもはや食べたりしないだろう。それよりも穀類や野菜や果物で、時間を十分かけて次々と美味しい料理を作り出していくことだろう。植物は食べられて動物の一部となることを喜びとする生き物なので、動物のように食べられた他の生き物に暗い波動を投げかけることはない。

波動の上がった世界ではかつて腕のいい日本料理の調理師だった時のことや、フランス料理のシェフだった時のことを思い出すので、次々と素晴らしい料理を作り出して、食を楽しむことだろう。

もし新しい家を建てたいと思うなら、大工をしていた時の経験、設計士をしていた時の経験、配管工やインテリア・デザイナーをしていた時の経験が思い出され、それら全てを生かせるようになるだろう。また音楽を聴いたり自分で演奏したいと思うなら、バイオリンやチェロやギターやピアノなどの演奏家だった時の経験が思い出され、それらすべてを生かせるようになるだろう。

三次元で経験したありとあらゆる事柄が、波動の上がった新しい世界では貴重な財産となり、教訓となり、智恵となり、示唆となって、歓びに満ちた生活を支え続けるだろう。再び道を踏み外し、欲にまみれることのないよう、全ての経験が正しい道を示し続け、歓喜と充実感溢れる生活を支え続けるだろう。


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