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生命の智恵の源泉

他の生物と較べても、人類は多くのことを知っているとは言えない。蜘蛛は誰にも教わらずに縦糸と横糸を分けて手順を踏みながら巣を作る。何故作れるのかきちんと説明できる人はいない。ひと頃は何でも本能、本能と言って片付けていたが、本能という言葉で括っても何の説明にもなっていないという反省が起こり、専門家たちの多くはこの言葉を使わなくなった。しかし学校というところでは未だに使っているらしい。また専門家の間でも完全にこの言葉が姿を消したわけではなく、動物行動学や心理学などの分野では「本能行動」や「本能的なもの」という表現で今も使われている。

蜘蛛について話を戻すと、多くの人は蜘蛛の巣を一種の平面図形だと思っているかも知れない。しかし最初の梁(はり)や棟木(むなぎ)に当たる上側と下側の糸を張る時には、例えば立木と立木、立木と壁、壁と塀、あるいは軒(のき)と壁など、立体的な視点をもってイメージしなければ適切な場所に思い通りの巣は作れない。(おそらく)イメージした後に、自分の位置から糸を風に乗せて流し、対象となるものにくっつけて基本構造を作るのだろうと思われる。棟糸が固定されるとそれを伝って、行ったり来たりしながら強化する。そして巣の外枠となる『枠糸』と呼ばれるものを張り、くっつかない糸で巣の中心点を通る縦糸を張る。次に同じくくっつかない糸で大まかに横糸を、中心から外側に向けて螺旋状に張っていく。これはいわゆる網として使うのではなく、次の工程の足場となるものだ。したがって間隔も広い。そして今度は外側から内側に向けて、くっつく横糸を縦糸にひっかけながら完成させていくが、この時先程の足場として使っていたくっつかない横糸は、邪魔になるので取り除きながら、くっつく横糸をもっと狭い間隔で張っていく。中心まで行くとこれで完成だ。ちなみに取り除いた足場としてのくっつかない糸は、食べて再生利用しているという説がある。

大雑把に言うとこのような工程で蜘蛛は巣網を作るが、実際にはもっと細かな工程がある。とりあえず今の説明を聞いた段階で、我々は蜘蛛の巣を作れるだろうか。あるいは今我々が蜘蛛になったとしたら、この説明で蜘蛛の巣を作れるだろうか。おそらく何度も試行錯誤を繰り返さなければ、まともなものは作れないだろう。しかし蜘蛛は親からも、誰からも教わらずにこの巣網を完璧に仕上げる。はたしてこれを本能やDNAで説明できるだろうか。まやかしやこじつけの説明を嫌うなら、人間的感覚を超えた別の事柄を想定しなければ説明はできないだろう。

では蟻が地中に立体構造を持つ巣を作ることができるのは何故だろう。蟻は育児の部屋や食料庫としての部屋や女王蟻のお産のための部屋などを分けて作る。ハキリアリの場合は切り取った木の葉を運び入れ、それに菌を植え付けて茸の栽培をする。そのための専用の部屋を作る。ちなみにハキリアリが葉を拾集する際、木の上へ登って葉を切り落とすグループと、下で待ち受けて拾うグループに分かれて作業をする。この時、下で待ち受けるアリは必ず葉の落ちてくる場所にいるという。現代科学では高度な数学と物理学を用いても、ビルの上から落とした一枚の紙がどこに着地するか予想できないでいる。ハキリアリはどうやって葉が落ちてくる場所を前もって知ることができるのだろう。

これも本能やDNAだけで説明できるだろうか。現在DNAの機能が解っているのはほんの一部の遺伝子配列に過ぎず、それによっていくつかの蛋白質が造り出されることが分かっている程度だ。これは単に物質製造に関することであって、DNAが生物の思考や行動にどう関与しているかなどは全く解っていない。

生物学者のルパート・シェルドレイクによれば、シロアリは目が見えないにもかかわらず、二つのグループに分かれて二地点からそれぞれ唾液に混ぜた土を塔のように盛り上げ、少しずつ傾斜させてゆき、最後に頂上の一点で双方の曲がった塔を繋ぎ合わせてアーチを完成させるという。これについてはどう説明すればいいのだろう。これは明らかに思考や行動に関わることだ。シェルドレイクは様々な実験を行なって、目の見えないシロアリが、別の何らかの音や臭いによって合図を送っているのでもないことを証明した。

草食動物は決して毒草や毒キノコを食べないと言われている。親に教えられた可能性もあるが、全ての毒草を親離れする前に教えてもらったとは思えない。これについては別のまやかしの説明がある。それは毒草を食べた草食動物は死んで淘汰され、毒草を食べないものだけが生き残ったために食べないのだ、という説明だ。これは知ったかぶりの学者が進化論を姑息に利用して述べた屁理屈に過ぎない。すなわち元々間違いだらけの進化論をさらに誤用した詭弁に過ぎず、実際のところ何も説明していない。

アサガオの蔓は右ねじの螺旋を描いて絡まっていく。これをある人はDNAにそう書かれているからだと言ったが、こうした物言いは、以前動物について何でもかんでも本能と言っていた時と変わりなく、単に本能をDNAに置き換えたに過ぎない。

桜とポプラの枝ぶりはまるで違うが、芽が出た後どうして桜は枝をゆったりと斜め上へ伸ばしてゆこうと決めることができるのか。またポプラはどうして鋭く上へ伸ばしてゆこうと決めることができるのか。木はそれぞれ独自の枝分かれの角度を持っている。またどこまで伸びて枝分かれするかもそれぞれ違う法則を持っている。木は分度器や物差しで自分を計っているわけでもないのに間違うことはない。すなわち桜の枝が途中からポプラの枝のようになったりはしない。何故なのか。

花はそれぞれ固有の色を持ち、決まった数の花弁を持ち、決まった形の雄蕊と雌蕊を持っている。同種どうしで色が混ざったりはすることはあるが、花弁の数や全体の花の形が別の花のようになったりはしない。ホッキョクグマの子供の体毛がブチになったり黒くなったりして生まれてくることもない。オオアリクイに羽が生えることはないし、ハゲワシの羽が倍の大きさになることもない。犬から猫の子が生まれることもないし、人間がキツネを生むこともない。一体何故なのか。

生命の智恵の源泉
我々は子供の頃から安っぽい科学を刷り込まれ、そんなことにならないのは当たり前だと思わされてきた。そのため自然を見た時の純粋な疑問も感動も奪われてしまう結果になっている。古代の人々はこれらに関する純粋な疑問を持ち、自然のなせる技に感動した。それは古文書からも窺い知ることができる。我々は嘘八百の学校教育と誤りに満ちた科学に洗脳されてきたため、こうした身近なものに対する疑問も抱けず、感動もできなくなってしまった。現代人は古代の人々をみくびる傾向があるが、果たしてどちらが賢くて、どちらが愚かなのだろう。

生きとし生けるものはそれぞれ固有の特徴を備え、それぞれ不思議な能力を備えている。それらは一体何によってもたらされ、どのように発現しているのだろう。ルネッサンス以来のおかしげな西洋哲学のせいで、それらは自然のなせる業だとか自然の法則だとか、まるで説明になっていないにもかかわらず、そうした表現が立派な説明としてまかり通ってきた。問題はその自然や自然の法則が何者の意思によってどう造られ、どう機能してきたかだ。最初に自然があって全てを操ってきたわけではない。こうした物言いは彼ら哲学者が、それまで西洋人が崇拝してきた全能の神エホバを、単に自然という言葉に置き換えたに過ぎない。

引力、表面張力、毛細管現象、光合成など、どれも科学が発見したと言われているが、だからといって何故そうした現象があるのかは全く説明されていない。そもそも引力は何なのか、何故どうやって発生するのか説明できていないし、引力を発生させる粒子として想定されたグラビトンも未だ発見されていない。表面張力や毛細管現象は素人でも見れば分かることだが、科学は単に名前を付けただけで、この現象がなぜ起こるのかは説明できていない。光合成も240年ものあいだ研究が続けられてきて複雑な反応過程は少しずつ分かってきたが、光と水と二酸化炭素で何故有機物が造れるようになっているのか、その根本の疑問には答えていない。

このように科学は自然の奥深い真実には到達できず、表面に現れた現象に名前を付けて追認しているだけだ。にもかかわらず、これらは大きな発見であり科学の成果だと言い張っているようだ。確かに応用科学(化学)によって我々の生活は便利になったが、それらも全て根本の理由は解らず、単に現れてくる現象を利用して何かを作っているだけだ。電気、磁気、電波なども大いに利用されているが、そもそも何故どうしてそれらが生まれ、何故この宇宙に存在しているのかは解っていない。

このように本質や真実は見抜けず、何の説明もできない科学だが、それが権威を持ってしまったために、人類は科学を崇拝して誤った物質文明を築くことになった。ルネッサンス以来、科学は愚かにもこの宇宙の謎を半ば解いているかのような、いずれ全てを解けるかのような傲慢な態度で自然に挑んでいる。

愚かな人間ほど他人を見くびったり馬鹿にしたりするが、科学も自然や宇宙を見くびり、高を括っている。ネイテイブ・アメリカンや、ニューギニアやアフリカの原住民、日本のアイヌなど、地上の僅かな人々が自然に対する畏敬の念を忘れず、侵すべからざる宇宙と自然の聖域を知っている。彼らなら蜘蛛がなぜ親に教わらずに巣を張れるのかに答えられるだろう。蟻がなぜ種類に分けて部屋を作るのかも、草食動物がなぜ毒草を食べないのかも、木々がなぜそれぞれ違う角度と太さで枝を伸ばすのかも、ヒマワリの種が成長すれば必ず同じ形のヒマワリの花を咲かせる理由も、彼らなら答えてくれるだろう。何故なら彼らは自然の前で驕ったりせずにどこまでも謙虚なため、宇宙の智恵が宿るからだ。そう、彼らと同じように、蜘蛛も蟻も草食動物も木々も花々も、皆自然の前で謙虚であるがために宇宙の智恵を授かるのだ。

これら生きとし生けるものは、人間のように学ぶことも教わることもない。宇宙の聖域を知り、それを侵さず、それに畏敬の念を抱くものは自らが聖域となるからだ。そうすれば何をどうすべきかは、宇宙全体を一つに結びつけている智恵の絆によって知らされる。人は他の生き物と違って大いなる自意識がある。しかしそれがために周りにある物質に意識を奪われやすく、よほど謙虚にならない限り現象の背後にある聖なるものは感じ取れない。もし芯から謙虚になり、目先のものに囚われなくなれば、理屈など必要のない聖域に入っていく。人は聖域にいる自分に気付いた時、神秘な体験をするだろう。すなわちその時、自然は広大な聖地であり、宇宙は巨大な聖堂であると感得するのだ。

人は自分自身や論理や自尊心や肩書やお金や容姿など様々な物にこだわり、囚われて来た。そのため盲(めしい)のように本質も崇高さも聖域も見えなくなり、聾(みみしい)のように自然の声も地球の声も宇宙の声も聞こえなくなってしまった。もしこれら無用で価値のない一切の物に対するこだわりを捨て、自然や宇宙に対して何も求めず、何も知ろうとせず、何も頼まずに謙虚になれば、物も智恵も望みも全てがすでに自分に備わっていることに気付くだろう。

人は自然の中にいて自然と分離したものでなく、自然と共に自然の懐にいて宇宙全体と繋がっている。すなわち創造の大神の本質を持つ生き物であり、したがって目先の欲を捨て、宇宙に心を開いて謙虚になりさえすれば、蜘蛛や蟻や木々や花々よりも高い創造の技を得て美しいものを作り出し、自らも美しくなり得る。新約聖書には次のような一節がある。

『野の花は働きもせず紡ぎもしない、なのにあんなに美しく咲き誇っている。栄華を極めたソロモンでさえ、その花の一輪ほどにも着飾ってはいなかった』

聖域に踏み込めばそこに歓喜の王道を見出すだろう。何故なら生命の智恵の源泉は宇宙そのものであり、自然はその智恵の現れであるからだ。自然に寄り添い自然の懐で生きる全ての生き物たちは、各々がその自然から必要な智恵を得ている。そして人間は自由意思があるために、本来様々な生き物の持つ智恵の一切を手にすることができる。人間は多様な創造的活動の中で、必要なら適宜にあらゆる智恵を手にできる。それが自由意思を持ち、幅広い活動ができる我々に与えられた能力なのだ。


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