現在表示しているページ
ホーム >普遍的事実 >宇宙の本質

宇宙の本質

まどろみの中で森羅万象を顕現させている超越存在は、大いなる創造の前にどんな特徴を持つ宇宙を思い描いたのだろう。この宇宙の一切は意識的存在なのだから、そこにある存在が見せる表情を読み取れば、性質の一端を窺い知ることができるだろう。

例えば犬や猫の仔はおそらく誰が見ても可愛いと感じるだろう。犬猫に限らず、あらゆる生き物の仔はどこかしら愛らしく感じられる。悪者扱いされている捕食動物であってもその仔は可愛い。この可愛さはどこから来るのだろう。人の子も生れてしばらくの間は理屈抜きで可愛い。それはおそらく幼児が、我欲も見栄も嘘も未だ知ることなく、心が真っすぐで下心も駆け引きもなく、親の懐に抱かれてこの世の一切を信頼し切っているからではないだろうか。これは人間だけに限らない。動物の仔があのように可愛いのも、親の懐で一切を信頼し切っているからに違いない。人間や動物だけではない。花々があのように美しいのも、心が真っすぐだからだ、と言った人がいる。

私は一歳未満の時の記憶を持っているが、まだ立つことはおろか身体も自由に動かせない状態で蒲団に寝かされたままだったが、なぜかルンルン気分だったのを憶えている。動物の中には生まれて間もなく動けるようになるものもいるので、兄弟でじゃれ合ったり、かじりついたり、重なり合ったり、精一杯ルンルン気分を表現しているのだと思われる。

これら穢れのない生命の表情を見ていると、そのはちきれんばかりの躍動の姿が宇宙の本質を表しているように思われる。その本質とは『歓喜』だ。この歓喜こそが、我々が長いあいだ目が曇っていたために見えなかった宇宙の本質ではないだろうか。

歓喜には不思議な特徴がある。例えば悲しみなら何らかの理由があってそうした感情に陥る。怒りの感情もそれなりの理由があって起こるはずだ。しかし歓喜には、~ゆえに、~がために、といった直接的な原因がなくても起こり得る。動物の仔が無邪気にじゃれ合っているのを見ると、まさに歓喜を全身に溢れさせている姿だと思えるだろう。我々も目が覚めて青々とした木々の枝の間からあふれる木洩れ日を見た時、心に歓びが湧き上がってくるのを感じるだろう。これらは生きとし生けるものはその魂に、本源的に歓喜が備わっているからだと考えられる。本源的に備わっているため、自然や宇宙と結びついた時、歓喜は魂の奥底から湧き出てくるのだろう。我々は様々な心のゴミを抱え込んでしまったために、歓喜が湧き出る隙間を塞いでいるが、そのゴミを取り除けば、宇宙が本質として持っている歓喜が溢れ出てくるはずだ。

美しい顔になりたい、美しい体形になりたい、儲かる仕事がしたい、肩書が欲しい、土地が欲しい、家が欲しい、金が欲しい、女が欲しい、男が欲しい、権力が欲しい、他人(ひと)に命令したい、他人に影響を与えたい、世間に認められたい、称賛を浴びたい等など、心のゴミは数限りなく生まれてくる。歓喜を得るためにはこの膨大なゴミを掃除しなければならない。もう少し言えばこれらと対をなすゴミもある。仕事をしたくない、新しいこともしたくない、趣味も持ちたくない、他人と関わりたくない、お金も肩書も要らないから何もしたくない、生きているのも面倒だし、できればひっそりと死んでしまいたい、といったものだ。これらも自分の成長や向上に抵抗しているわけで、心の大きなゴミと言える。

宇宙の本質これら全部を抱えている人はいないと思うかも知れないが、実はそうとも言えない。これらは自分の心の面(おもて)に現れた時に初めて認識できるもので、そうした状況に置かれなければ心の奥底に潜んだままであり、知ることはない。したがってそれを認知できない段階では、自分には初めからないものであり、自分はそうした問題を超越したレベルで生まれて来たかのように思っているだろう。しかし自分を色々な局面に置くような人生を歩む人は、次々と自分の中から飛び出してくるこの汚物に振り回され、自分の心の闇の深さに戸惑うことだろう。

何故人はこうも深い闇を抱えているのか。それは闇といえども宇宙の一部に違いなく、我々の心は宇宙全体を内包しているからだ。すなわち我々の心に一切が存在しているが故に歓喜も、歓喜を覆う闇も必然的に抱えているわけだ。とはいえ先にも述べたように、光と闇といった二元論的な捉え方は分かりやすいけれども正しくない。それは闇は実体ではなく虚像に過ぎないからだ。高い次元から見れば、闇は光の間で蠢く影であり、いわば光を通さない荒い物質界の中で出来る影のようなものだ。したがってそれは実体ではない。けれどもそれは虚像であるが故に我々を幻惑する。

さてこの世の大きな問題として、真実と幻想、光と闇、洗脳と目覚めなどがあるのをこれまで述べてきたが、このほかに自由意思という大きな問題がある。我々は常に幅広い選択肢からどれかを選んで生きている。すなわち一般に選択の自由と呼ばれているものが我々にはある。現在の日本人にはそれほど不思議には思われないかも知れないが、これほど謎に満ちたものもない。それは我々はこれがあるために神のようにもなり得、餓鬼畜生のようにもなり得るからだ。この意味するところは何なのだろう。

蜘蛛や蟻は選択の幅が少なく、真っ直ぐな心で宇宙の智恵をいただいて生きている。もし蜘蛛に巣網を作らないという選択肢があったとしたら、その蜘蛛は別の生き方で食べ物を確保しなければならなくなる。もしそのような生き物になったとすれば、蜘蛛は幅広い選択肢の中から、自分なりの生き方を構築しなければならなくなる。もし全ての生き物がこうした自由意思を持っていたとしたら、自然はその調和と均衡を保つことはできないだろう。何故なら生き物たちはそれぞれ役割に応じた生き方をすることによって自然の絶妙なバランスに寄与しているからだ。したがってこれらの生き物たちにははっきりした存在理由があり、それらの一種が欠けても自然は均衡を失うため、再調整されなければならなくなる。

バランスに関しては、例えばアフリカのセレンゲテイーのライオンが草食動物を食べ尽くすということが起こっていないことからも解る。逆の視点から見れば、草食動物はライオンによる捕食があることによって異常な繁殖を抑制され、それによって草を食べ尽くして自ら滅びの淵に立たされることを免れている。こうしたことは自然の生き物たちが互いに絶妙な関係を保ちながら生きていることを示している。ライオンと草食動物という、たった二つの関係においてもそうなのだから、この惑星全体の生き物たちはどんな神憑り的な均衡を保ちながら生きているのか想像も及ばない。

しかしこれら全ての生き物の中で、唯一この均衡を壊すことのできるモンスターがいる。それが幅広い自由意思を持つ人間だ。人間だけは極端な自由度を持つために、他の生き物たちと共存もできれば、他の生き物を滅ぼすことも、自らを滅ぼすこともできる。創造の『気』から宇宙を現出させた超越存在は、何故この人間という生き物の存在を許したのだろう。

それには『選択の自由』という、今まで一度も明らかにされたことのない謎を解かねばならない。ファーブルの昆虫記にある「松の行列虫」の話を読むと、選択の自由が人間だけに備わったものでないのが分かる。この目を持たない松の行列虫は、前を歩く虫が出す道標(糊のようなもの)を頼りに行進する性質を持っているが、ファーブルはこの虫が遠くから来て松の鉢の縁を一回りしたところで、やって来た道の痕跡をこすり取ってしまった。すると当然行列虫はその鉢の縁をぐるぐると回ることになった。すなわち帰る道を失った行列虫は、この堂々巡りを延々と繰り返し始めたのだ。その絶望的な行進はいつ終わるともなく続いたが、数十時間の後、ついに一匹の革命児が現れ、道標のない横脇へ少しだけはみ出した。何度も何度もこの革命児ははみ出しを繰り返し、とうとう新しい道を切り拓いて皆を帰路へ導くことができたのだった。

これは明らかに松の行列虫にも選択の自由があることを示している。しかしそれは人間の持つ自由とは比べようもない。人間の選択の自由度は遥かに大きく、それは質的な違いにまで及んでいる。もし人間以外の全ての生き物が全く自由度を持っていなかったとしたら、それらは単なる自動機械に過ぎないことになり、生物とは言えなくなるだろう。逆に人間と同じような自由度を全ての生き物が持っていたとしたら、先ほども言ったようにそれぞれの生き物が自分独自の行動を取るようになり、地上の生物の均衡は崩れて大混乱を来すだろう。しかし実際は、生物はそれぞれ違う自由度を持っていて、宇宙の智恵をいただきながら、互いの関係が均衡を保つよう無意識的に調整されている。すなわち僅かな自由度が許され、それがあるために均衡が保たれ、しかもその自由によって均衡に活気を与えている。

ライオンが草食動物を食べ尽くすことがないように、蜘蛛も繁殖して世界中を蜘蛛の巣だらけにすることはない。地上が蟻で埋め尽くされたり、森がイヌワシで覆い尽くされたりもしない。これは少ない自由度の中で彼らが謙虚に生きている証拠であり、謙虚であるが故に宇宙の智恵が流れ込み、そのことが全体の調和を崩れることなく保って、全ての種を過不足なく存続させていることを示している。

しかし人間の自由度は桁違いに大きいため、それをどう使うかによって神のごとくにも悪魔のごとくにもなり得る。このような危険な自由度を創造者は何故人間に与えたのだろう。それは全ての生き物は歓喜の王道へ向かう途上にあるが、その王道に至る手前の避けることのできない通過点に人間を置いたからだ。我々は自由な選択によって過ちや失敗を体験し、様々な苦痛や悲しみを経験するが、最後には歓喜の王道に繋がる道に目覚めて、この三次元の輪廻転生を卒業するように計画されている。

我々は今まで何度生まれても目覚めることなく、ずるずると今回もこの三次元に生まれてしまった。しかし今回のこの時代は地球が変わりつつあるため、この地球上の生活としては最後になる。したがってこの生では、自分が次にどの道に向かうかを選択するよう義務付けられている。どの道を選ぶにしても宇宙の本質は歓喜なので、皆自分にとっての歓喜を基準に選ぶことになる。

例えば世の中にはひたすらお金が好きで、使うよりも貯めることに歓びを感じる人がいる。このような人の中には、あの世へ持っては行けないでしょうと告げても、持って行きたいから棺桶に入れてほしいとまで言う人もいる。こうした人でもお金によって歓喜を味わっているので、宇宙の本質に沿って生きていると言える。喧嘩や戦いの好きな人は常に好戦的な波動を出しているので、周りに次々と騒動が起こり絶えることがない。こういった人たちもその騒動に血沸き肉踊るので、歓喜の中で生きていると言える。次々と悩みごとを抱え込み「大変だ、大変だ」と言って生きている人は、本人から全ての悩みを取り上げてしまったら安心するどころか発狂するかもしれない。こういった人は悩みが心の支えとなり、一種の歓びとなっているからだ。出口王仁三郎は『霊界物語』の中で、幽界の下層部に行ったら、薄暗い中で腐臭漂うヘドロの穴か糞壺にじっと身を沈めている存在を見たと言っている。これでさえ本人にとっては歓びなのだ。

人間は皆歓びに沿って生き、歓びを享受している。しかしそれらが皆、大いなる歓喜へ繋がる歓びとは限らない。限定され狭まってゆく歓びと、さらなる解放と充実に向かう歓びとがある。言い換えれば闇に向かう歓びと光に向かう歓びがある。歓びがさらに高揚し輝きを増していく道が『歓喜の王道』だ。人はどんな辛い悩ましい経験をしようとも、やがてこの歓喜の王道に入っていく。

もう一度言うが、多くの人が解脱(げだつ)の手前で何度も足踏みしてきたが、今のこの時代、この生は最終的な選択をしなければならない生だ。すなわち再び王道の手前で足踏みするか、それとも目覚めて歓喜の王道に入るかが決められる生だ。足踏みする者は地球が波動を高めるのでそのまま生き残ることはできず、この地球と似た波動を持つ他の惑星へ行き、さらに輪廻転生を繰り返すことになる。今この生で目覚めた者はもはや三次元に生まれることはなく、波動の上がった地球に生き残って大地を引き継ぐか、または一旦肉体を脱いで(死んで)波動の上がった地球に生まれてくることになる。

新しい地球では歓喜を土台に生が営まれることになる。歓喜は人々の生きるエネルギーの源となり、日々の歩みの支えとなり、他の人との関わりの中で潤滑油となり、創作や創造に充実感を与えるものとなる。それは今のこの三次元では想像すらできない、美と輝きと感動を伴ったものだ。宇宙の本質が歓喜であるために、高い波動の世界の歓喜は、これまでのように心の奥底に横たわることなく、心の面(おもて)に出て光を放ち、自らと周りの者たちを照らし出す。波動の高い世界では心と心がそのまま通じ合うため、言葉や態度による誤解や曲解はもはやなく、思いの僅かな部分しか伝わらないもどかしさもなく、思いの微細な部分まで全的に伝わり、互いに響き合って歓喜へと結晶する。もはやその世界では苦しみのために額が翳(かげ)ることはなく、瞳が涙で濡れることもなく、奥歯が耐えがたい思いのゆえにきしむこともない。歓喜の偉大な力がこれら全てを払拭するからだ。

このように近々やって来るだろう新しい世界は今のこの世界からは想像を超えたものだが、しかしそのような世界が来ることはいくつもの古文書や伝説に語られている。ホピの神話においては、第四の世界すなわち今の世界が始まった時、大神の甥であるソツクナングはこの世界を『ツワカキ』と名付けた。それは『完全な世界』という意味だ。世の中が信じられない惨状を呈しているのにどうして、と思うかもしれないが、太霊ソツクナングは『なぜそう名付けたかはいずれ分かるだろう』と述べている。これはおそらく歓喜に満ちた新しい世界の到来を予言したものだと思われる。

聖書の黙示録の最後には、ほとんど全ての人間が死んだ後、天から新しいエルサレムが降りて来る様子が記されている。

『私はまた新しい天と新しい地を見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』

これも新しい世界の到来を象徴的に語ったものだと思われる。また聖書では新世界の様子を次のようにも言い表している。

『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙をぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』

また『ひふみ神示』には次のように記されている。

『岩戸開けたり野も山も、草のかき葉(=一片の葉)もこと(言)やめて、大御光(おおみひかり)により(寄り)集う、楽しき御代とあけにけり、都も鄙(ひな=田舎)もおしなべ(=ことごとく)て、枯れし草木に花咲きぬ、......』

また『ひふみ神示』には次元上昇を思わせる記述もある。

『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変わるのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。』

四方が平面とすれば八方が立体、とすると十方は三次元より少し上がった状態、すなわち3.5次元のような世界になると解釈できる。

宇宙の本質さてこうした予言的な言葉はみな新しい世界への大変化を示唆している。おそらくそれに間違いないだろう。したがって残された問題はその時期だけとなる。一体それはいつ来るのか。ホピの予言がなされたのは第四のこの世界が始まった時だから、一万年以上、あるいは十万年以上前に遡るかも知れない。聖書の黙示録が書かれたのはおよそ二千年前、ひふみ神示はおよそ六十年前に書かれている。その時以来その言葉を授かった人々は後世へ伝え、後世の人たちは大変化が来るのが今か今かと待ち望んできたに違いない。しかしその時は何十年どころか、何千年、何万年経ってもやって来なかった。それは事実だ。ではこの時代にとってもそれは遠い未来の話で、大変化など我々が生きている間に起こらないのだろうか。

実はこれらの予言的な言葉は、みな『その時』の前に徴(しるし)があることを述べている。すなわち終わりの時の前にはどのようなことが起こるかを述べている。それを目印に今の時代か、そうではないかの判断ができるようになっている。もし人類が全員愚か者ならば、誰も終わりの時に備えることは出来ず、一人として新しい世界に生き残る者はいないかも知れない。しかしもし僅かでも、正しく今の時代だと判断できる者がいたならば、その人たちは新しい世界を引き継ぐことになるだろう。

これまで長い間、多くの人が人類は地上でもっとも賢い生き物だと思って来たのだから、それならばこの終わりの時も正しく読むことができるはずだ。しかし現状を見れば、これだけ終わりの兆候が数知れず現れているにもかかわらず、それを感じている人は多いとは言えない。この差し迫った時でさえ、今迄の生活にしがみ付き、気持ちの備えもせず、洗脳されていることにも気付かず、目先のことにかまけ、無感覚あるいは鈍感さを剥き出しにして生きているからだ。

超越存在は生きとし生けるものを差別はしないが区別する。それは我々と周りの生き物を見れば明らかだ。すべての生き物には違いがあり、それぞれの違いによって役割を分担している。このことは人間界にも当て嵌まる。それはいかなる者も他と違う特質を持ち、それぞれが固有の存在であり、どこを取っても他と全く同じではないからだ。これは一種の奇跡と言える。誰か同じ量の粘土で、1億の違う人形を作れるだろうか。しかし地上には70億の人間がいる。その70億人がそれぞれ内面的にも肉体的にも違うとすれば、それは我々の前にある最も分かりやすい奇跡と言えるだろう。したがってこれから先、互いに区別され、残る者と残らざる者に分けられるのは止むを得ないと言わざるを得ない。それもまた、それぞれの魂の道だからだ。

時はその歩みを加速度的に速めつつある。長大な周期の終点に向けて、時は今ようやく完結しようとしている。私たちはこの地上で繰り返してきた転生をいよいよ終えることになる。しかしそれが我々の落第であって再び他の惑星で転生を繰り返さねばならないことになるのか、それともめでたく卒業して新しい世界へ羽ばたくことになるのか、その答は誰にも与えられていない。しかしたとえ答えは分からなくても、我々はその時が来るまで、自分にできることを精一杯する以外にない。

ただ気の遠くなるような時の中で学び続け記憶し続けたものは、落第生は再び転生を繰り返した後に、卒業生は来たるべき新しい世界で、それぞれの『びっくり箱』を開いて自らのために役立てるだろう。

<宇宙と人間の本質ー普遍的事実 終わり>


« 生命の智恵の源泉| ご挨拶 »