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歴史的背景

意外に思うかもしれないが、愛については民族や宗教を超えた一般的な説明は存在しない。すなわち愛とは何かという質問に対する、国家や民族や宗教を超えた普遍的な答えというものは存在しない。実は愛に関しては一般的な定義がないばかりか、戦後日本のマスメデイアによる無節操な使用や個人の勝手な思い込みによって、本当はどういう意味なのかほとんど何も分からない状態になっている。

哲学上では古代ギリシアのプラトンが唱えたイデア論が、私の知る限り曲がりなりにも愛を定義した唯一の思想だと思われる。プラトン以降、アリストテレスやスピノザやカント、果てはマルクスやニーチェやサルトルまで、幾人もの哲学者がそれなりに愛について述べたが、みな理性なるものに偏重して感情を低く見ていたり、まるで定規で測るように愛を論じていたりなど、文章や論理が難しいだけの独りよがりな空論を述べているだけで、生身の人間の生きた愛を説明しているとは思えないものばかりだ。

彼らから受ける印象は、複雑で入り組んだ人の心の奥深い現実や、社会の中で翻弄されながらも這いつくばって生きる人間の生き様などを、果たして知っていたのかどうか疑いたくなるものだ。言い換えれば、頭でっかちのお坊ちゃんが机上で空論を語り、自分だけの狭い世界で愛や人間を分かった気になって論じていたように思えてならない。

日本の知識人も明治以降、そして戦後まで、こうした西洋の哲学を有難く崇めていたのだから、欧米の哲学者よりさらに始末が悪いかもしれない。こうした現実知らずのお坊ちゃん連中が議論に明け暮れているうちに世の中はすっかり変わってしまい、取り残された哲学は自ら凋落(ちょうらく)の憂き目に会った。

宗教上で言えば、すべての宗教宗派が愛について特別多くを述べているわけではない。世界四大宗教の中では特にキリスト教が愛を至上のものと位置づけてこれを熱心に述べている。新約聖書(=キリスト教)の言わんとしていることを一言で言えば次のようになる。『何よりもまず神を愛しなさい。そして次にあなたの隣人を愛しなさい』。イエスはこれだけを言いたかったのだと極論できる。

その後2000年、イエスの教えは欧米のキリスト教圏を中心に広まったが、そこに生きた人々は果たしてそれを実践して平安に暮らしたのだろうか。一つの見方(学説)としては中世ヨーロッパにおける庶民は平安に暮らしたという評価がある。しかし一般的には神に祈りを捧げるだけの、神を中心にした禁欲生活が営まれた暗い時代と位置づけられている。

他の宗教(仏教、ヒンドウー教、イスラム教、旧約聖書=ユダヤ教など)は愛を前面に打ち出しているわけではなく、教え全体から見れば愛は部分的に述べられているだけだ。

歴史的背景現代において愛が大きく取り沙汰されているのは、自由な恋が許される社会状況になったため、多くの人が恋を見間違って愛と呼び合っているからだ。パンダの研究が進んだ結果、雌のパンダが妊娠できるのは(すなわち雄を受け入れるのは)わずか年に3日間だということが判ってきた。この3日の間に雄と雌は広い森の中で巡り合い交尾しなければならないので、合意するのが大変だそうだ。さてこの興奮の交尾期間を、互いに愛を育みそれを表現する期間だと表現できるだろうか。人間の学者は見下すような言葉を用いて、これを発情期と名付けた。では人の場合は発情期と言ってはいけないのだろうか。私から見れば人の場合もパンダと同じく発情期に相違ないと思う。しかも人間の場合は始末が悪いことに、発情期は思春期から死ぬまで続くことになる。そしてそれを人々は愛だと言っている。本当にそうだろうか。

プラトンが唱えたエロスは単なる肉体の性的興奮を言ったのではない。これにはちょっとした奥義がある。生成変化する物質界の背後にはイデアという理想の模範的世界があり、我々は生前そのイデアという真の実在世界を知っていたが、この世にやってくるときに、修行や試練の邪魔になるので記憶を封印さた。しかしその封印されたものは、精神の目で『想起』することによって再び得られるという。そしてその『想起』によって、かつて属していたイデアの世界への憧れとしてのエロス(=愛)が生まれるという。

プラトンも他の同時代の哲学者と同じく、奴隷に労働を任せていた苦労知らずのお坊ちゃんの面は拭えないが、彼のイデア論は現代の我々の感性に通じるものがあり、霊性を完全に抹殺した近代西洋哲学とは一線を画していて、目に見えない世界をも含めた宇宙を語ろうとしている。特に彼が説いたイデアの世界への憧れから生じる愛(=エロス)は、肉体的性的興奮を超えた彼方にある、美の極致への希求を意味していると解釈できる。

時代が下った古代ローマ帝国時代のカナンの地で、イエスはギリシアで生まれたこのエロス(=愛)を知っていたかどうか定かではないが、彼はエロスとは違うアガペーという愛の概念を提唱した。それは肉欲を全く含まない純粋な精神愛だと解釈されている。確かに同胞や人類全体に対して、さらには一切の生き物に対しては純粋な精神愛は可能かも知れない。しかし男女の間においては果たして可能なのかどうか、今の時代になってもなお疑問が残るとされている。

もしイエスの言う愛が男女の間で徹底した禁欲を伴うものだとしたら、それは歪んだ愛としか言いようがない。修道院で禁欲的な生活を続け、生涯結婚もせず、異性との交わりも持たない修道僧が男女の愛について説教するのは笑止千万と言うべきだろう。にもかかわらず修道士や修道女はカトリックの国において尊敬され、精神的指導者の立場に置かれ、多くの人々が彼らの説教を有難く聞いているのだから、これはどう見ても歪んだ現実と言わざるを得ない。

また現代に目を向ければ、テレビ、ラジオ、雑誌などのマスメデイアで使われている『愛』も甚だ陳腐としか言いようがない。単に外見上の魅力から好きになっただけなのに、すなわち性的興奮から関心を持っただけなのに、それを『愛』だと言い合っているいるからだ。マスメデイアはこの発情期ゆえの興奮を、愛という言葉に置き換えて蔓延させ、多くの人たちに自分には愛があると錯覚させている。


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