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現代の二つの愛

では具体的にマスメデイアで使われている愛について考えてみよう。テレビ番組や様々な本や雑誌などに出てくる『愛してる』という言葉は何を意味しているのだろう。単に好きだというなら分かるが、愛という言葉を使うので意味不明となっている。まずは基本的な問いから始めよう。

『好きだ』というのは自分の気持ちを表明しているだけで、それ以上でも以下でもない。これは非常に分かりやすい。しかし『愛している』といった場合、好き以上の何かが含まれている感じがある。ではいったい好きと愛してるとはどこがどう違うのだろう。

『好き』は本人の気持ちを言い表しているだけなので、それ自体で完結している。しかし『愛してる』にはこの後に『だから...』という付随するものを伴っているように感じられる。そこには『相手のために何かしたい』、『相手に好かれる自分になりたい』、『相手をもっと知りたい』などいくつかの気持ちが含まれているだろう。ではこれらの気持の背後には何が横たわっているのだろう。それら一つひとつの糸をたどっていくと、ある共通する概念に行き着く。それは相手の絶対的肯定だ。どんなに他人に批判的な人も、恋に落ちると相手を全面的に肯定する。その人格も言葉も態度も、相手に付随するものはすべて肯定する境地に至る。

我々は絶対性や完全性の欠けたあやふやな世界で生きているが、しかし恋に落ち、好きだと思うとき、全的肯定を経験する。普段、人は自分に対しても他人に対しても全的に肯定することはまずない。しかし恋に落ちた時、我々は相手の存在が価値そのものであると感じ、それに向き合う自分は(否定されるべきものという気持ちよりはむしろ)限りなく謙虚であろうとする気持ちに向かう。この相手に対する絶対的肯定と、自分に対する限りない謙虚さは何を暗示しているのだろう。それは人に、知恵なるものがどのような心的状態の時に与えられるかを示唆しているのだと思う。すなわち人がものを知り、あらゆるものと調和しながら生きていくには、こうした全的肯定と、限りない謙虚さが必要なのだと示しているように思われてならない。

しかし残念なことに、その気持ちはたちまち消え失せてしまうようだ。まるで相手への全的肯定と自分自身の限りない謙虚さが一瞬の夢であったかのように。男と女は体を許し合い、付き合いが進むにつれて、己の傲慢さに支配されるようになる。その気持ちは相手に対する批判や否定へと発展していく。そしてその時、人の中で全的肯定と限りない謙虚さという崇高な価値は失われる。

マスメデイアが流す『愛』・『愛してる』という言葉は、我々の心をくすぐって『ひと時の価値』を思い起こさせたりはするが、しかしそれはかえって絶対的肯定と謙虚さへ向かう道程を空しい漂泊に貶(おとし)めている。

では次にイエスが目指した純粋な精神愛について考えてみよう。この愛は仏教で言う慈悲に相当すると考えられる。平たく言うなら他の人を思いやることだ。しかしこの愛には落とし穴がある。人は誰かのために何かをした時、それを当然のこととしてやり過ごすことがなかなかできない。多くの人は心に何らかの感情を抱くはずだ。それはあえて言えば驕(おご)りだ。我々にとって誰かのために行動することはそれほど難しくはない。それは皆が心に善なるものを持っており、それに導かれるからだ。しかし多くの場合、それによって優越感や支配感や恩着せ感といった驕りを抱え込むことになる。これが心に宿ってしまったら、たとえ善意による行動であっても、イエスの言う愛にはならない。ここにアガペー(=精神愛)の難しさがある。

これまで欧米では2000年に亘ってイエスの愛が説かれてきた。しかし残念ながら人々の間の争いも、国の間の戦争もなくならなかった。それは多くの人がこの驕りに取り付かれ支配されてしまったからではないだろうか。歴史の事実は驕りを脱することの難しさを示している。

ひとつ例を挙げよう。旧約聖書の中に『ヨブ記』がある。ヨブは敬虔なユダヤ教徒で、神を畏れ悪から遠ざかり、他の人々に愛や施しを行なっていた。彼には7人の息子と3人の娘がいた。また7000頭の羊、3000頭の駱駝、500頭の牛、500頭のロバ、そして多くの僕(しもべ)を持っていた。すなわち彼は神に祝福された大いなる者だった。

ところがある時、エホバから許しを得たサタンの計略によって、次から次と彼に不幸が襲いかかる。近隣の他民族がヨブの僕を殺し、羊や駱駝やロバなどの財産を奪い、また天からは火が降り、大地からは大風が起こって、ヨブの家畜と僕は次々と滅ぼされてゆく。それでも彼は神に背くことなく、髪を剃り、上着を裂き、大地にひれ伏してエホバを祝福する。

しかしヨブにはさらに、全身すなわち足の裏から頭の先まで、いたるところに腫物(はれもの)ができるという禍が襲いかかる。彼は灰の中でのた打ち回り、陶器の破片を取って身を掻く。これらの恐ろしい禍を見ていた妻はついに堪えかねてヨブに言う。あなたはそれでも自らを全うする(信仰を貫く)のですか、神を呪って死になさいと。だが彼は神への忠誠を翻さず、全ての息子と娘を失うというさらなる不幸に見舞われながらも、決して神を呪うことはなかった。

この話は最終的に、忠誠心を翻さなかったヨブに神が応え、サタンの試みを止めさせて、ヨブの原状を回復し、さらに元の倍もの財産と恵みを与えるというところで終わる。

さていったいこのヨブ記は何を言いたかったのだろう。どんな不幸にあっても神を呪わず、忠誠を貫けばいつか報われるという、宗教に最もありがちな教条的な詭弁を代表する逸話として解釈していいのだろうか。

実は問題は彼の忠誠心や報いにあるのではなく、なぜ信心深くかつ隣人に施しをしていたヨブがこうした過酷な試練に会わねばならなかったかにある。私の『ヨブ記』の読後感を言えば、この恐ろしい不幸は単なる神の気まぐれによるのでもなく、サタンの悪意によるのでもないということだ。

答は聖書自体には記されていない。はるか時代を下った近代になっていくつか解釈が試みられている。その代表とも言うべきものはC.G.ユングが書いた『ヨブへの答え』だろう。彼はその中で、ヨブには何一つ神に対するやましい気持ちがなかったばかりか、周りの誰よりも神に忠実で、いかなる誹謗中傷があろうと決して神を裏切らない自信を持っていた。すなわち、ヨブは自分には誰にも負けない信心があるという驕りを持っていた。この驕りこそがサタンが付け込む隙(すき)であったのだ、とユングは分析した。

現代の二つの愛我々の認識は危ういところで成り立っている。誰しも絶対と思われた知識や絶対と思った判断に裏切られたことがあるだろう。歴史を見ても、大多数の人が思っていた事柄が間違いだったことが判明することが多々ある。中世の西洋人は地球は平らだと信じていたにも拘わらず、いとも簡単に間違いだと証明された(簡単に受け入れられたということではない)。これはほんの一例で、我々は何百年、何千年にも亘って誤った認識を持ち続けていたことが判明したことも何度もある。

現代科学にしても今は最高の認識手段のように思われているが、そう思っている現代人も、遠くない将来に愚か者と言われることになるかもしれない。何故ならいつから始まったとも知れない我々の長い歴史を振り返ってみれば、人類は一度も永遠不変の真理など発見したことがないからだ。これまで何度も我々の認識は修正され、または何度も全く新しいものに置き換えられてきたのが歴史の事実だからだ。

ヨブは、絶対的な自信を持っていた自分の信心に、実は驕りという悪魔が潜んでいることに気付かなかった。そのため自分の認識に対する過信が大きなしっぺ返しとなって彼を襲うことになった。

我々はイエスの説いたアガペーにそうした落とし穴があることを知らなければならない。それはイエスさえも言わなかった認識のからくりだ。『私はこんなにもあなたを思っているのに』、『私はこんなにも他人のために尽くしているのに』、『こんなにも家族のために一生懸命働いているのに』等など、例を挙げればきりがないが、これらは全て自分の高慢な驕りから出てくる言葉だ。

人は見返りを求めてはいけないと思いつつもついつい求め、誰それのため、何々のためと言いながらもその誰かまたは何々に依存している。真に隣人を愛するには、まずこの心の闇と向き合わねばならない。もしこの闇と向き合うことができたとしたら、人はそこに悪魔の囁きを聞くだろう。我々には針の先ほどの些末なことにしか思えないこの過信は、氷山のようにその下に巨大な驕りを抱えている。はたして我々はそれと向き合い認めることができるだろうか。

私たちがこの世にアガペーを実現しようと思うなら、たとえどんなに困難であろうと、それを認めなければ実現は遠く及ばない。すなわち平安と歓びをもたらす真の愛は、その厳しい認識を超えた先に初めて見えてくるものだろう。


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