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神をめぐる愛

ここで一つ疑問を提示しよう。いかなる宗教もまず至高の神を示し、その神に祈れという。キリスト教の場合は神を愛せともいう。なぜ神に祈り神を愛さなければならないのだろう。それによって人類に幸がもたらされるのだろうか。神と人間の関係よりも、まず人間同士で幸せを祈り、愛を分かち合った方が幸せを実現できるのではないだろうか。しかし宗教においては人間ではなく、まず神なのだ。何故だろう。

神々(=異星人)はある動物に自分たちの遺伝子を混ぜ合わせて人間を造ったという。とすると彼らは人間の生みの親ということになる。ただし彼らは人間を崇高な生き物として創造したわけではない。プレアデイス=プレヤール人によれば、人間は初め奴隷として造られたのだという。また日本の記紀神話の蛭子(ひるこ)の記述を見れば、彼らは高度なテクノロジーを用いて人間を造ろうとしたものの、何度も失敗を繰り返したことが窺える。何故ならその過程で蛭子、すなわち手も足もない奇形児を生み出したからだ。記紀神話には『蛭子は子供の数に入れない』とも書かれているので、試行錯誤の過程で葬られたいくつのも失敗作があったことの傍証ともなる。

とはいえ最後には今のような人間が生み出された。聖書には『神々が人の娘の美しいのを見て彼女らの中に入り子を産ませた』という記述があるので、もしこれが人間を造った目的なら、人間はペット、すなわち愛玩動物として造られたことになる。またシュメール出土の粘土板には『神々=異星人は肉体労働を肩代わりさせるために人を造った』ということが記されているそうなので、だとすれば人間は奴隷として造られたことになる。

いずれにせよ人間は聖書で言うように(神々=異星人のような)完全なものとして造られたわけではない。しかも驚くべきことに、造られた時点では人間はまだ自意識を持っていなかったらしい。そのため神々=異星人の思惑どおりに事が運び、しばらくの間、人間は彼らの言われるままに従っていたらしい。

しかしある時、ついに人間は自らの意識に目覚め、意思を持つようになった。おそらく神々=異星人はこの事態に至ったことに歯噛みしたに違いない。創世記の記述からはその時の彼らの苛立ちが如実に伝わってくる。しかしすでに人間は彼らの人形ではなくなってしまった。これは歴史上初の、人間自らによる奴隷解放だったと言えるだろう。

聖書には、
『見よ、人は我々のひとりのようになり、善悪を知るものとなった』
とある。
しかしこの善悪という言葉は後から書き換えられたものか、でなければ最初から意図的に真実を隠すために当て嵌められたものだろう。
私に言わせれば、
『見よ、人は我々のひとりのようになり、意識を持つものとなった』
と書かれるべきものだったと思う。すなわち本来あったはずの表現は、後の誰かによって改竄されて善悪に置き換えられたのだと思う。

このように人間が意識に目覚めたことで『楽園追放』となり、いったん神々=異星人の手を逃れた(ちなみに『失楽園』はイギリスの詩人ジョン・ミルトンが17世紀に書いた叙事詩の題名だ。この題名をそのまま使って日本の作家が訳の分からない小説を書いている)。しかし神々=異星人は手をこまねいていたわけではなく、意識を持ってしまった人間をどうコントロールすべきか策を練っていたと思われる。そして支配のためには宗教を用いて洗脳するのが最も効果的だという結論を得たのだろう。彼らはどうしても人間に君臨したかったので、そのために宗教を押し付けて人間を洗脳し、言うことを聞かなければ災いを起こして脅し、自分たちに注意を向けさせるために『まず第一に神に祈れ、まず神を愛せ』と強要したのだと思う。

しかし実はこの時点で神々=異星人は一枚岩ではなくなっていたらしい。すなわち徹底した支配を望む側と、人間の意思を一定程度尊重しようとする側とに分かれていたらしい。これには彼らの事情もあったが、被造物としての人間の深刻な問題も絡んでいた。というのも人間が彼らによって造られた不完全な生き物であったために、『失楽園』の後、我欲と征服欲のためにたちまち殺戮に明け暮れるようになったからだ。したがって人間を放置しておけば、やがて滅んでしまうのが目に見えていた。

そこで人類を滅びから救うために、処方箋として宗教を用いることに対立していた神々=異星人の双方が合意し、地上の人間を使って、地域と時代に適した宗教を広めさせた。結論を言えば、神々=異星人の宗教を広める計画には、支配と人類の延命という二つの目的があったことになる。

神をめぐる愛ここで宗教が説く『教え』について少しだけ触れておこう。あらゆる宗教が教理の主柱に据えているのは、実は幼稚園児に教えるような当たり前のことばかりだ。その典型がモーゼの十戒で、盗むなかれ、殺すなかれ、偽証するなかれ、父母を敬えなど、どこの民族でも普通に教訓としていることを言っているに過ぎない。この教えは人類の支配を目的としていたというより、人類を延命させることを目的としていたのだろう。

とはいえこんな最低限のことさえ人類は守れず、信頼や親睦を根付かせるどころか、逆に争いや奸計や偽善や憎しみをはびこらせ、さらには殺人や戦争を常とするようになってしまった。こうした状況はこれまでの全歴史を通じて変わっておらず、今も全く変わっていない。神々=異星人が意図した延命は何とか今まで保たれてきたが、世の中は宗教で説かれる愛の世界とは正反対の状況に向かってきた。

このように見てくると、この先人類には二つの道しかないように思えてくる。一つは自ら滅びへと突き進む道であり、もう一つは神々=異星人に洗脳された後、再び彼らの奴隷になる道だ。では第三の道はないのだろうか。これについて少し述べよう。

この宇宙は階層的な構造を持っている。我々が住んでいる物質世界は完全な物質だけの世界ではなく、人間が精神を持っているように霊的要素を含んでいる。すなわち物質と霊性が共存する世界だ。もっと波動数の高い世界では物質的要素はより少なく、非物質的エネルギー、すなわち霊的エネルギーがより多く支配する世界となる。

この二つの世界について言えば、どちらか一方が消滅した場合、他方が成立しないようになっている。というのも、この物質世界の情報は常に霊的世界に送り込まれ、それによって霊的世界が組み替えられ、さらに情報はそこで精査され整えられて、再び物質世界に送り戻されるということを繰り返しているからだ。このように宇宙は多次元的構造をしているので、多くの隣り合う次元で、この物質世界と霊的世界のように相互に情報のやり取りがおこなわれ、互いの有機的な結び付きが保たれている。

完全な支配を望む側ではなく、人間の意思を尊重しようとする側の神々=異星人が人間の注意を自分たちに向けさせようとしているのは、(『ひふみ神示』に述べられているように)お互いに向き合ってまつわらなければ多次元宇宙のバランスを保つことができないという理由があるためらしい。この『まつわる』という言葉には、纏わる、祭わる、祀わる、奉わる、などの字が当てはまる。しかしもともとは一つで、神々=異星人と人間の本来のあるべき関係を表しているようだ。我々人間は神々=異星人とまつわることによって幸わう(さきわう:豊かに栄える)ことができるのだという。

話を元に戻すと、何故我々が神に注意を向け神を愛さねばならないかの理由をいくつか考えてみたが、しかしたとえこれらの推論が正しいとしても、我々人間同士の関係は一体どうなるのかという疑問が残る。人間と神々=異星人が共存できたとしても、人間同士が互いに思いやり信頼できるようにならなければ、滅びを免れることも、住みよい世の中を作り出すこともできないだろう。

多くの経典はまず第一に神に祈れ、神を愛せと言っているが、これまでそれを人間が実行してきたのか、してこなかったのかは分からないが、結果的にこの数千年、世の中は良くならなかった。これは何を意味しているのだろう。やはりこの世の中を良いものにするには、神々=異星人との関係よりもむしろ、人間同士の関係から改善しなければならないことを示唆しているのではないだろうか。したがって今後は『まず神を愛し、次に隣人を愛せ』という聖書の教条を改め、『まず隣人を愛し、それから神々=異星人とも纏われ』としなければならないだろうと思う。

今この時代の多くの人々は学校教育やマスメデイアによって受けた洗脳により、重篤な病にも似た症状を呈している。そのため多くの人は神々も異星人も霊界人も存在しないと思っているかも知れない。しかし太古より自ら創造した人間を永遠に支配しようと目論む者たちが、政治や学校教育やマスメデイアを操って人間を洗脳し続け、何が本当か分からなくしている。一方創造者の中でも、人間の運命は人間の意思に委ねようとする者は、この洗脳から目覚めるよう我々を様々な方法で促している。

我々は神々=異星人と関わりないと思うのではなく、また(スピリチュアル系も含め)宗教にのめり込んで神々=異星人を崇拝するのでもなく、まず洗脳のからくりと仕掛けを知り、それを切り崩すために隣人を気遣う(愛する)ことから始めなければならないと思う。何故なら人間同士が良好な関係を築くことが人間を成長させ、目覚めを促して、結果的に洗脳計画を破綻させる有効な手立てとなるはずだからだ。もしそれができれば、そのとき我々は神々=異星人と真に向き合うことが可能となるだろう。そうすれば第三の道はおのずからその先に拓けるに違いない。


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