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愛の本質

愛には力があるという考えがある。これはどういう意味なのだろう。新約聖書は愛について色々述べているが、それほど感銘を受けない。愛についての書物なら『ヒマラヤ聖者の生活探究』に優るものはないと思う。この本の中で愛を訴える迫力は読者を圧倒するものがあり、本当に愛には偉大な力があるのだと感じさせられる。私はこの本を何度か読んでいるうちに愛に開眼した。

愛がどういうものかが解ってみると、今まで自分が愛について考えたり他人に言ったりしていたことが如何に的外れだったかが分かり、大変恥ずかしく思った。これは見たことのないものについていくら説明されても理解できないのと似ている。

例えばある人が旅先で立ち寄った窯元で見た、とても気に入った花器について友人に説明したとする。その人は形や色や艶などについて興奮して話すが、聞く人はその素晴らしいという焼き物を想像しようとしてもどうしても絵にならない。やがて話す人は百語を費やしても伝わらないのを知って、話すのを止めてしまうだろう。

しかしもしこの両者が同じものを見たことがあるとしたら、話は全く違ってくる。何故ならどちらも、花器についての説明という義務から解放されるからだ。二人は互いにあの形がよかった、あの色合いが何とも言えなかったなどと感想を言い合い、大いに話は盛り上がるだろう。

またダ・ヴィンチの『モナリザ』を一度も見たことも聞いたこともない人に、しょっちゅうルーブル美術館に通って見ている人がこの絵のことを伝えようとすれば同じようなことになる。その人が何時間も費やして説明を試みたとしても、見たことのない人は自分の中でイメージを描けない。もしこのとき話を聞いた人が分かった気になったとしたら、それは自分の中で作り上げたイメージに過ぎなく、本物のモナリザとは似ても似つかないものだろう。

すなわち見たことのない人が、見たことのある人からどんなに説明を受けても、その作品の雰囲気や色調やマチエール(絵画や彫刻の表面の質感)は伝わることはないので、その説明は無意味となり、説明する行為も虚しいものとなる。

これと同じことで、愛を見た人が、すなわち愛が如何なるものか分かった人が、それを知らない人に説明しても理解されることはない。愛に開眼した人たちはやがてこの事情を知るようになるので、他人に説明したり力説したりしなくなる。ただ、知っている者同士は愛について相手が話すのを少し聞くだけでそれと分かるので、互いに信頼関係を築くことができる。

テレビに出てきて愛について語る人が時々いるが、本当に知っているのかどうかは愛に開眼した人が聞けばすぐに分かる。何故なら語っている人が本当に愛を知っているなら、その人の言葉は愛のイメージから決してブレないし、逆に知らないで語っている人は必ず的を外すからだ。

ただし愛に開眼しても、それを行動に移さなければ愛は実現しない。したがって開眼した当初は実現のためにどう行動すればいいのか分からない人もいる。初めは溢れんばかりの愛が心の内から湧き出てくるので、物であろうとお金であろうと何でも他人に分け与えたくなったりもする。愛に突然目覚めた人にはこういうことが起こりやすいので、先に目覚めた人たちの保護や助けが必要かもしれない。しかし助言してくれる人が必ず傍にいるとは限らないので、目覚めた人は先に目覚めた先輩を探すことをお勧めしたい。

愛に目覚めた人はその時から突然愛の人になるわけではない。人は愛を実践することによってその心に奥行を広げ、また許しの気持ちも育んでゆく。すなわち愛に目覚めた時はまだ出発点に立ったに過ぎないのだ。その後は躓きながらも実践に励まなければならなくなる。温和で優しくあろうとすれば、それにつけ込む人も出てくるだろうし、他人のために何かしようとすれば、それを利用しようとする人も現れてくるだろう。しかしそれでも心を曲げず、人間不信になったり他人を憎んだりせずに、自分の想いを貫くことが愛の道だ。ただしその道はキリストのように暗く悲劇的なものであってはならない。愛は光なので、歓びに満ちたものでなければならない。

では愛が実現している世界があるとすればどのようなものか想像してみよう。愛は想いだと考える人がいるかも知れないが、想っているうちはまだ愛ではない。行動に移して初めて愛の形を取る。したがって愛が実現している世界では、皆が他人のためにごく当たり前に行動していることだろう。そこには誹謗,中傷、悪口、陰口などは微塵もなく、相手が困っていれば助け、相手が歓んでいれば共に歓ぶということが自然に行なわれているだろう。そこには揺るぎない信頼関係があるので、安心して相手に尽くすことができ、共に歓ぶこともできる。

愛の本質これらのことから分かるのは、愛が実現している世界では、誰に対してであろうと『あなたを愛してます』などという言葉を使う人はいないに違いないということだ。なぜなら日常において当たり前に存在しているものを、人はあえて言葉にしたりしないからだ。実は世界の少数民族の中に、『幸福』という言葉を持たない民族がいる。それはおそらく特別不満もなく、満たされているのが当たり前だからだろう。だから彼らは『私は幸せだ』などとあえて口にしないのだろうし、もちろん他人に『あなたは幸せですか』などと聞いたりもしないだろう。そのように幸せとは決して大それたことではなく、ごく普通の状態で実現するものだと思われる。

今の日本では露骨に『幸せになりたい』などと言う人が増えているが、その人たちは『私は今幸せではない』、すなわち『自分は不幸だ』と公言していることになる。こういう人たちは他人よりも自分が真っ先に幸せになりたいという欲にまみれているので、言い換えれば精神構造が永久不満型になっているので、たとえ何かが手に入り何かが実現したとしても、それで満足することはない。このような人たちは次々と欲を膨らませてゆくので、何かが実現してもさらに多くのものを望んで『幸せになりたい』と言い続けるだろう。それはどんな現状にも満足できない、いわば『幸せ飢餓症候群』とでも言うべきものだ。

こうした症状がなぜ起こっているのかというと、次々に発売される新製品を買わなければ人並みだと思えないといったように、日々テレビなどで洗脳されているため、新製品が一つも買えない状況に置かれると、それだけで不幸だと感じてしまうからだ。このようなことは着る物、住い、肩書、預金などあらゆることについて言える。流行の服を買えないと不幸だと感じ、立派な家に住めないと不幸だと感じ、地位が上がらないと不幸だと感じ、預金が増えないと不幸だと感じる。これはもはや病気以外の何ものでもない。

こうした病状を呈するのは、毎日テレビなどで企業がコマーシャルを流し、様々な番組で中流以上の生活を当然あるべき姿のように描き出しているからだ。しかしこれは実は、企業が一般庶民の購買力を高めるために仕組んでいる戦略なのだ。

現在の経済社会は嘘八百の進化論よろしく、常に進歩発展して、人類は必ず豊かになるかのような幻想を振りまいている。70億もの人間がみな欧米先進国の中流以上の生活を始めたとしたら、地球は三年と持たないだろう。そんな自明のことが公には伏せられている。テレビ番組でこんなことを公言する人はほとんどいないし、たまにいたとしてもその発言は一過性のものに終わり、重要な問題として継続的に扱われることにはならないだろう。

話を元に戻すと、愛が行なわれるためには下心や損得計算や目先の欲があっては最終的にうまくいかない。それどころか全てが台無しになる。中には人間の欲は完全にはなくならないので、そんなきれいごとを言っても無意味だと言う人もいるだろう。しかしこの手の人は自分は現実的で自分の考えはぶれていないと思っているようだが、残念ながら問題の本質は見抜けていない。

人間が我欲から逃れられないからといって、だからどうだと言うのだろう。この手の人たちはだから人間は獣と変わらない、とでも言いたいのだろうか。あるいは、だから愛の世の中なんて実現しない、だから世界平和なんて実現しない、だから不正や賄賂や犯罪はなくならない、とでも言いたいのだろうか。人間をそんなふうに貶(おとし)めて何が面白いのだろう。

人は我欲のために愛を行なうのではない。それは自分のためであり、相手のためであり、全体のためなのだ。間違っているのは『自分だけのため』と言う考えであり、互いに益するところがあり互いに歓び合えるなら、それは自然の摂理に適ったものだろう。自然は性(セックス)においてさえ、互いに響き合うことによって歓びが幾倍にも増すことを示しているではないか。

これに関しても先の連中なら、我欲と我欲が互いを求め、単に相手を利用して欲望を満たしているだけだ、と言うかも知れない。こうしたまやかしの屁理屈を分かった気になって述べる人たちは、人間はこの世のあらゆる局面(勉強、仕事、スポーツ、クイズ、ゲーム、さらに経済、研究、技術開発など)で、我欲に基づく競争を余儀なくされていると見てみているからだろう。そしてたとえ自分がどれほど歪んでいようと、自分が育った環境を否定すれば自分を否定することに繋がるので、我欲に満ちた世相を真の現実と判断しているのだろう。

世間にはこうした我欲に満ちた、歪んだ世相こそが真の現実だと思っている人もいる。彼らはおそらく理想を語る人や、よりよい社会を目指して活動する人たちを小馬鹿にしていることだろう。現実を汚いものだと判断し、それを受け入れることのできる自分こそ賢いのだと思っているかもしれない。こういう人たちは自分を中心にしか発想できないので、結果的に悪のスパイラル(世の中をますます悪い方向に導く)側に加担することになる。

愛は自分だけが歓ぶものでなく、相手だけが歓ぶものでもない。互いが響き合ってさらなる歓びを生むものだ。それを体現する貴重なサンプルが性であり、性はそうした双方の波動によって響き合うという宇宙の本質を我々に知らせるために授けられてあるのだと思う。言い換えれば男女は愛によって波動を高め、愛によって響き合い、愛によって結ばれ、その極致で宇宙の本質である歓喜を味わうために、性なるものを授かったのだと思う。

したがって性は聖であり、穢してはならない宇宙のサンクチュアリ(聖域)と言えるだろう。素粒子も原子も分子も波動であり、我々は波動で出来ている。波動で出来ているのだから、我々の思いも当然波動であり、我々の行動も波動であり、したがって愛も波動だ。愛が波動なら、音のように共鳴することも、しないこともある。他の波動と重なれば和音となることもあるが、不協和音となることもある。相手の体だけ、自分の欲だけを求めていては決して和音にはならないだろう。相手の響きを心の深みで捉え、その響きに乗せて自分の想いを響かせる。そうして初めてそこに和音が生まれ、共鳴し合うことだろう。

愛は対象があって初めて生まれる。物でも植物でも動物でも愛の対象になり得るし、響き合うこともできる。しかし中でも人間同士は最も響き合える対象に違いない。その理由は、人間同士は波動の重なる幅(領域)が一番広いからだ。このことは何を意味しているのだろう。人は人と響き合い、共鳴し、歓喜するよう宇宙の本質が我々に強いているからだろう。したがって我々は独りでは当然歓びも得ることはできない。もっと言えば、我々は独りでは人でなくなる。それはこの宇宙に自分一人しかいない状態を想像すれば分かりやすい。人は対象を認識することによって自分を認識する。もし自分一人しかいなければ対象がないので自分を自分だとは認識できない。だとすれば当然人間だとも思えないだろう。まさにWe are the world.だ。『我々』だからこそこの世であり、人間の世界なのだ。

ではこちらが波動を発しても応えてくれない場合はどうしたらいいだろう。この宇宙は波動で成り立っているので、不完全で不調和なこの世界では、相手によっては不協和音になることもある。しかしそのことによって相手を憎んだり嫌ったりしては愛は実現しない。不協和音は絡み合えばますます恐ろしい雑音となる。それを避けるには距離を置いて、相手をじっと暖かく見守るのがいいだろう。今の世の中にはこうした姿勢が足りないと思う。相手が自分の思い通りにならないと苛々したり、中傷したりするようでは世の中は住みづらくなるばかりだ。愛を実現しようと誰彼かまわず接近するのではなく、不協和音を作らないことも大事な愛の行為だと思う。

また我々は不幸な人、つらい立場にいる人を前にしても何もできないことが多い。しかしそうした場合でも、じっと見守る姿勢があれば世の中は少しずつ住みよいものになっていくだろう。何故なら想念は波動であり、心から相手の平安を願って見守っていれば、やがてその思いは響いていくだろうからだ。もし相手に言葉で伝えたいなら、『何も力になれないけれど、あなたのことを忘れているわけではない』、あるいは『何もできないけれど、いつも心に思っている』といった言い方をすればいいだろう。人は自分を見捨てず、忘れず、じっと見守ってくれる人がいると思うと、相当な逆境にあっても頑張れるものだ。

愛はイエスのように人類の罪を一身に背負うといった深刻で暗いものではない。すなわち痛々しいものでも、悲しいものでもない。心と心が触れ合い、共鳴することによって歓びを生むものだ。歓びがあれば人はどんな困難にも立ち向かっていくことができる。今誰かに助けを求めている人は、まず自分から誰かを助けることを考えてみるのがいいだろう。『情けは他人(ひと)のためならず』という言葉があるが、他人を助けることがやがて自分を助けることになる。これは単なる理想を述べたものではない。現実の経験を通して分かったことを述べているのだ。『愛は助けるものを助く』ということだろう。


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